霧の都・亀岡
昨夜、これは霊的な夢、としか言えない何かを見た。
その内容は軽々に言葉にすることが憚られ、あれこれ語ろうとは思わない。
カトリックの敬虔な修道士は、神秘を体験しても必ずそれを黙秘するというが、まったくそんな感じだろうか。
聖書の言葉にはこのような文言がある。
邪悪な時代は印を求める
真実を知る者は、多くを語らない。
何も信じていない奴こそ奇跡や神秘を語りたがる。
己は神霊に連なる特別な存在である—―その「証拠」の神秘体験を嬉しそうに語る人たちというものが世に多いわけだが、それは
「信じていないから、他人の承認が必要なのだ」
たとえば我々は、
蛇口をひねったら水が出てくるんです!
水道って、この世にはあるものなんですよ!
などと誇らしげに他人に語ることはなかろう。
あたりまえすぎて説明するのもアホらしい。
水道で水が飲める、それがわからん奴はミネラルウォーターでも買って飲んでいたらどうなんだ、てなもんかと思う。
奇跡や神秘をことさらに語りたがる連中の、何が邪悪であるかと言って、
「自分が信じてもいないことを、さも真実のように他人に認めさせ」
金銭欲やら己の心の不安やら、俗悪な妄念を満たそうとするあたりである。
独りで洞穴にでも籠って苦行に荒行、修行三昧の生活で神秘を掴み取るというならまだわかるが、
それもやれない奴が、お手軽に
「猜疑心と願望の入り混じった狂気」で他人さままで巻き込んで、己はそれで満足しようというのであるから迷惑千万、厚かましいにもほどがある。
これを邪悪と言わずして、なんといえばよいのか。
「神秘」を嬉しそうに語る連中を、ボクは一切信用しない。
◆ ◆
神秘を語ることは、それ自体が邪悪で汚らわしい。
こういうことを長々書いてしまったわけであるが、これを説明しないといけない時点で現世というのは絶望的に邪悪である。
(だが、特に恥じる必要はない!
「邪悪な時代は印を求める」
と語る聖書は2000年以上前の旧い書物……。
そう、人類というものは
古代からすでに、ずっと邪悪で汚らわしいのだ!)。
亀岡で暮らすと、それがはっきりとわかってしまう。

亀岡はすぐに霧が立ち込める。
朝夕に靄がかかる、といった程度ではなく、大袈裟に言うと雲の中で暮らしているような感じだったりする。
雨が降るなどすれば、まァ目の前の山には霧が立ち込めて、水墨画のような風景になってしまう。
霧の中に月がぼんやりと浮かび上がるさまなどは、「幽玄」とはまさにこれか、という風情だったりする。
……これも、なかなかわかりにくいかと思う。
先日はJRが運転を見送るほどの雷雨だったわけだが、その直前の日暮れ空は、もうこの世のものとも思えなかった。
まず、日暮れであるからにはまだ空は明るく、空は茜色の夕焼けだった。
ところが湿気が強く雷雨が近いこともあり、空は全体に霧がかって灰色の雨雲に西方浄土の光が届いているかのよう……。
東の空はすでに薄暗くなっていた。
そこに雲に隠れたおぼろげな月の光……。
これが日本の風景というやつか、と思ってしまった。
日本神話を描いた絵巻の背景は、たいがい神々しく荘厳に描いてあるわけだが、あれはちっとも誇張でもなんでもない。
実際に、亀岡の空はああいうものだったりするのだ。
むしろ、絵巻の絵師の腕前が稚拙で気の毒に思えるほど、「現実」の風景は凄まじい。
写真や動画に残そうか、とも思ったのだが、それが馬鹿馬鹿しく思えてしまい、いつもただひたすら眺めて終う。
次々に幽玄は失われ、またそこに違った美が創り出されてゆく。
すべてが奇跡、すべてが神秘の一瞬の連続であり、それをカメラで見落とすなんて我慢がならない。
しかし、それは美を惜しむのではない。
目が離せない、ただそれだけのことなのだ。
すべてが美であり、美が当然であるからにはもはや語る必要はなく、画像にとどめておく必要もない……。
近頃、亀岡の風景の中で生活するようになり、ストレスというものをほとんど感じなくなってきた。
不思議なことに恐ろしく健康になってきて、毎日毎日よく眠る。
肩こりや腰痛、身体の強張りのようなものが、薄紙を剥がすように日々抜け落ちて、昨夜はついに「不思議な夢」を見た。
夢の内容そのものは、ボクには極めて意味深長ではあったものの、ボク以外の人にはさしたる意味をなさない。
従って、とやかく細々書く必要はないかと思う。
ただ、夢というものは、覚えておこうとしても目が覚めると霧散してしまうものだが、この夢はそうではなかった。
「清めの酒を飲まなくてはならない」
そんな気分になり、一杯だけ酒を飲んだ。
それは五臓六腑に沁みるようで、また泥のように眠った。
そして、目覚めてからも、この文章を書いている今ですら、夢の中の声、触れたものの手触りは鮮明である。
今のボクの感想はこうである。
実は人には死も生もない
人はそもそも美の中に生きており、
いずれ美に戻ってゆくのみ
寿命があとどれぐらいあるかとか。
人生の意味とか目的とか。
いろいろどうでもいい。
生きるとはつまり美であり、それを喜べばいいだけ。
生きるにせよ死ぬにせよ、すべてはとても簡単な話かと思う。
夢から目覚めたボクは、はっきりそう確信するようになっていた。
理屈ではだいたいわかってはいたのだが、何の疑いもなくそう思うようになっていたのである。
理解することと信じることの間には、埋めようのない溝がある。
宗教では信仰と不信仰の間に横たわる、この溝の超越を「聖霊体験」「神秘体験」と呼んで、そこが神霊の奇跡であるとするわけだが、その溝が、やっと埋まった。
亀岡がボクにとっての「神の国」……、今、ボクはそんな気がしている。
