記事に「#ネタバレ」タグがついています
記事の中で映画、ゲーム、漫画などのネタバレが含まれているかもしれません。気になるかたは注意してお読みください。
見出し画像

「イン・ザ・メガチャーチ」を読んで

※この記事は朝井リョウさんの「イン・ザ・メガチャーチ」のネタバレ及び個人的な感想、体験談を含みます。

お盆を含めてこの夏、10日間の長期休みを取ることができた。その間、やることはあるものの、どうしようもなく寂しい夜や、持て余す時間は生まれてくる。そんな時間をちまちまと使って、約一週間ほどかけて読み切った、400ページほどのハードカバー本である。
読み切った直後、作中に繰り返し出てきたみそ汁が急に飲みたくなった。インスタントみそ汁を久々に作って、あちち~とすすりながら、感じたことを書き起こしてみることにする。


ざっくりあらすじ

内容のうち軸となるコンテンツは「推し活」。とあるアイドルグループを運営し、特定のファン層を盛り上げてゆくチームに所属する久保田という男性、そしてその娘であり、自分と同じMBTIであるアイドルに出会ってから傾倒していく澄香、そしてとある俳優の死からその真相を解き明かそうと動く隈川という女性。この三人が物語の軸を為し、視点が移り変わりながらストーリーが進んでいく。
そして、それぞれ推し活というコンテンツを通して人を動かす立場、動かされる立場、動く立場として揺らぎながら、最終的には登場人物たちが何かを「信じた」行動を取ることで物語は終結していく。その正誤、良し悪しは語られず、結論や意見は宙に浮いたまま小説は終わる。

朝井リョウさんの作品は初めて読んだが、興味深い文章の書き方だったと感じる。例えば人間の脳みそは必ずしも一つのことに集中し続けているわけでないように、人の発言を咀嚼することなくただの音の粒として捉える描写や、登場人物が盲目になっていく様を表すための文章構成、テンポが巧みで引き込まれた。

推し活と私の距離

推し活から長らく離れていた私にとっては、共感しすぎて読めないだとか、遠すぎて近づけないとか、そういった沼の感情を激しく持つことなく、ゆるやかに、映画の一本を見るように息抜きに読みきることができた。

今の私には、生活に切り込むほどの「推し」はいない。もちろん、好きなアーティストや好きな物事はあるが、常に熱量が高いというより、ふとした時に顔を出す。
しかし、周りを見渡すと何かにハマって「推す」ということを日常的にしている人が常に存在する。私の家族や友人もそうだ。ただ好きでいるだけではなくて、グッズを買って集めたり、自分の一部を推し色や物で彩ったり、それが自分のためという範疇を超えて「推し」のためという目的で活動する知り合いもいる。
私もかつて中学校~高校にかけては一つのコンテンツを推してグッズを買ったり、供給があるたびにキャーキャー言いながら幸せを噛みしめていたものだから、誰かや何かを推す気持ちは激しく理解しながらも、その熱量を保つには一定の才能が必要だということを薄々感じていた。お金や時間、労力を使うにあたって自分を曲げない(曲げられない引力に従う)こと、魅力的な他のコンテンツに染まり返すことなく、あるいは染まり返してもまた深く潜ること。他者に理解できなくても自分の中で確かなことは一定数存在するのだが、その熱量を保ち、信じ続けることは難しい。

作中に出てきた、何か信じる対象を持ちながら生きる方が幸せだとか、むしろ信じる対象がないと生きていけないとか、そういう言葉を聞く度、私は何を信じているんだろうと考えることがある。
4月から仕事を始めて、大学コミュニティから一歩引いた今、私の趣味は増え続けている。ランニング、英会話、読書、ドライブ、編み物、最近はピアノを買いたいなとか、レコードプレーヤーが欲しいな、ソロキャンプや登山がしたいな、釣りがしたいな、DIYしてみようか、と、大学時代には前向きになれなかった”プラスアルファ”で自分を彩ることに楽しさを見出している。でもそれは、「信じる対象」とまで深くはない。おいしい部分だけ吸って、「楽しい!」と叫んで、めんどくさい時はやめる。ある意味健康的なことだと周りに言われ、自分もそう感じる。しかし正直、それだけでは満たされない、乾きを覚えてしまう、と感じてしまっているのも事実だ。

作中に出てきた、”推し活をするファンダム(なにかを推すファン)”が視野を狭めた才能ある人間なのだとしたら、今の私にはおそらく極限まで視野を狭める才能はない。かといって、視野が広いわけでもないなと思う。大切な人や関心事を攻撃されたら多少ムカッとするだろうし、フラットな目線ですべての人を見渡すことはできないし。好きな人は好き、嫌いな人は嫌いだし。

だからこそ、久保田が言った、「花道(作中に登場するアイドルにつくファンの通称)が羨ましい」という言葉に私は多少の共感を覚えてしまう。

「信じるもの」と狂気

自分が信じるものを世の中に広く訴えようとしたり、周りへの影響や自分の見られ方を鑑みないで行動することを選んだり…はたから見ると登場人物三人が取る行動は狂気じみているのかもしれないが、信じるものに向かって突き進む人間は多少なりとも狂気じみていると私は思う。
だから、なにか「推している」人と接する時、それが生活の支えになるのなら、幸せそうならよいじゃないかとほほえましい気持ちで見守ることを選びたくなる。
ただ、その気持ちの手綱を握っている(ように見える)作中の”国見”のような、視野が広く何にも感情移入せず、淡々と戦略を練るような存在がいるかもと考え始めると、そうもいかないように思う。(推し活のシステムや人の動きを利用したマーケティング術や応用のことも私はこの本を読むまで考えたことがなかった。)

コントロールされたくないという欲

視野を極限まで狭めて陶酔する楽しさや快感は存在する。しかし、人はそれを「コントロールされている」と感じた途端に熱を冷ます。人は、人より劣っていると感じたくない。感情や意思は自分のものであってほしい。それが作中には表れていたように思う。かくいう私も、何に対しても一定の距離を保っているのは、陶酔「させられた」と思いたくない、フラットに見ているという自分でいたい、という自分は自分だけのものでありたい、という心理が働いているのかもしれないと、読後に自分を振り返った。

幸せだと感じるのも、自分の選択や意思、身体ありきでいたい。誰かにコントロールされているものではありたくない。
今飲んでいるみそ汁も、売りたい買いたい、飲みたいという刺激が外部から付与されたものであっても、おいしいことに変わりない。その感覚は自分のものであってもよいと私は思ってしまうから、視野を広くするにはきっとほど遠い。このイン・ザ・メガチャーチがみそ汁の購買意欲を高めるものだったら、転覆されるのも悪くはないなあと、簡単に「コントロール」を許してしまいそうになる自分もいるのだけれど。

おわりに

読後振り返ると、あれもこれもコントロールされているのか?と日常を観察するようになる。自分の中でお盆中に付与された視点の一つを頭の片隅に入れて、また日常を送っていけることに幸せを感じる。

とりあえず、推し活を突き進む弟にこの本を薦めてみたら、「なんか表紙が頭良さそう」って言っていた。全然読みやすくて面白いからオススメと言ったら、明日ブックオフで探してみようかな、だって。

真っ最中にいる彼がどう思ったか聞くことで、私の感想はやっと終着しそうだ。

イン・ザ・メガチャーチ

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集