トコヤミ調査隊 File.7メリーさん
第一部 依頼
「トコヤミさん、ちょっといいですか」
事務所のドアを開けるなり、萌香がスマホを片手に駆け寄ってきた。珍しく、声に緊張が滲んでいる。
窓の外は、もう夕方に差し掛かっていた。俺は、読みかけの資料を机に置いて、萌香の方を向いた。
「どうした」
「従兄弟から相談が来てて。ちょっと、様子がおかしいんです」
差し出された画面には、SNSのメッセージ画面が表示されていた。相手の名前は、佐伯美咲。萌香の従姉妹らしい。年に数回、実家の集まりで顔を合わせる程度の関係だと聞いていた。
変なこと聞いていい? 知らないアカウントから、変なメッセージが来るの「変なメッセージ?」
俺が聞き返すと、キリサメが横から割り込んできた。資料を読んでいたはずなのに、いつの間にか背後に立っている。

「見せてもらえますか」
萌香が、転送されてきたスクリーンショットを開いた。
差出人のアカウントは、作られたばかりのようだった。プロフィール画像も設定されていない。フォロー・フォロワーの数はゼロ。名前も、ランダムな英数字の羅列だった。
添えられていたのは、公園のベンチを写した一枚の写真と、短い一文。
わたし、メリー。今、公園にいるの「……メリー?」
俺は、その名前に引っかかった。
「続き、あるのか」
「はい」
萌香が、画面をスクロールする。
二通目には、コンビニの外観の写真。看板の一部から、美咲の自宅の最寄り駅が近いことが分かる。
わたし、メリー。今、コンビニの前にいるの三通目。美咲が普段使っている道の途中にある、電柱の写真。
わたし、メリー。今、この道にいるの「…近づいてる?」
俺が呟くと、萌香が頷いた。
「本人も、そう思ったみたいです。最初は誰かの悪戯かと思ってブロックしたらしいんですけど」
「したのに?」
「別のアカウントから、また同じ内容で届き始めたって」
事務所の空気が、少しだけ変わった。
キリサメが、腕を組んだ。
「『メリー』というのは、ただの名乗りでしょうか。それとも」
「本人に、心当たりあるみたいです」
萌香が、次のメッセージを開いた。
『これ見て、思い出したんですけど。子供の頃、実家に「メリー」って名前の人形があったんです。外国製の、古い人形』
「その人形、今どこにあるんだ」
「それが…」
萌香は、続きのメッセージを見せた。
一人暮らし始める時に、処分したんです。
母から離れるって決めた時、なんとなく、それも一緒に処分したくて。「自分で捨てたのか」
「はい。だから余計に、気味が悪いって言ってました。もう、手元にないはずのものなのに」
俺は、しばらくその文字を見つめていた。母親から距離を置くための引っ越し、その時に手放した人形。そこに、わざわざ同じ名前を名乗る人間が現れる。偶然にしては、出来すぎている気がした。
「美咲さんって、萌香から見てどんな人なんだ」
俺が尋ねると、萌香は少し考えてから答えた。
「真面目で、我慢強い人です。親戚の集まりでも、あまり自分から前に出るタイプじゃなくて。でも、独立するって決めた時は、珍しくはっきり言ってたのを覚えてます。『もう、自分の人生を生きたい』って」
「そんな人が、こんな気味の悪いメッセージ抱えて、一人で悩んでたのか」
「多分、誰にも言えなかったんだと思います。相談できる相手が、あんまりいないタイプなので」
「萌香が相談されたのは、意外だったのか」
「はい、正直。でも、多分、私が唯一、実家の事情もある程度知ってる相手だからかもしれません。あの人の家、ちょっと特殊なので」
「特殊って?」
「お父さんは、単身赴任でほとんど家にいなくて。だから、お母さんと美咲さんの二人暮らしみたいな時期が、結構長かったんです。多分、それも関係あるのかもしれないです」
俺は、その情報を頭の片隅に留めておいた。父親が不在がちな家庭で、母娘二人きりの時間が長かった——それだけで何かが断定できるわけではないが、無視できる情報でもない気がした。
事務所の空気が、少しだけ湿った。
「話、聞きに行くか」
俺が言うと、キリサメが目を輝かせた。
「面白そうですね」
「先生、こういう時だけ生き生きするよな」
「専門分野ですから」
窓の外は、すっかり暗くなっていた。俺は、スマホの画面に表示されたままの『メリー』という文字を、もう一度見つめた。ただの偶然だと思いたかったが、頭のどこかで、そうは思えない自分もいた。
第二部 メリーさんの履歴書

美咲との対面取材の前に、キリサメが事務所のホワイトボードに年表を書き始めた。
「まず、基本を押さえておきましょう」
「基本っているか、これ」
「重要です。敵を知らずして戦えません」
「・・・」
キリサメは続けた。
「『メリーさんの電話』という怪談の起源は、1968年に遡ると言われています」
「そんな昔から?」
「はい。当時、タカラ——今のタカラトミーですね——が始めた『リカちゃん電話』という自動応答サービスがありました。専用の番号にかけると、リカちゃんの声が流れる、という子供向けのサービスです」
「リカちゃん人形の?」
「そうです。ところが、これが子供たちの間でブームになった結果、奇妙な噂が広まりました。『リカちゃんから電話がかかってくる』という噂です」
「実際にはそんな機能ないんだろ」
「もちろんありません。でも、噂というのはそういうものです。実態がなくても、広まってしまえば真実味を帯びる」
キリサメはホワイトボードに『リカちゃん電話→メリーさん』と矢印を書いた。
「その後、商標権への配慮からか、口承の中で『メリーさん人形』という設定に置き換えられていったとされています。1970年代後半から、子供たちの間で語られるようになりました」
「基本のストーリーは、電話がかかってきて、場所がどんどん近づいてくるやつだよな」
「ええ。『私メリーさん。今、ゴミ捨て場にいるの』から始まって、タバコ屋さんの角、家の前、玄関、そして最後に『今、あなたの後ろにいるの』——この、距離が段階的に縮まっていく反復構造こそが、この怪談の完成度の高さなんです」
萌香が、興味深そうに資料を覗き込む。
「派生パターンもたくさんあるんですよ」
キリサメの目が、さらに輝いた。
「轢き逃げをしたタクシー運転手のもとに、被害女性から電話がかかってくるパターン。リカちゃん人形の怪奇譚と複合されたパターン。チェーンメールとして広まった際には『メールを送らなければあなたも死ぬ』という脅し文句がついたものもありました」
「実は、海外にも似た構造の話があるんです」
キリサメは嬉しそうに続けた。
「スペインの民話に『指輪』という話があります。ある男が、骸骨の指にはまっていた指輪を持ち去って家に帰るんですが、その骸骨が家までずっと追いかけてくる、という話です。時代的に電話は出てきませんが、じわじわと近づいてくる恐怖の演出は、メリーさんの電話と驚くほど共通しています」
「へえ…ちなみに、萌香が前に調べてた『横浜のメリーさん』ってやつは」
俺が話を振ると、萌香が慌てて手を振った。
「あ、あれは違いました。完全に別人でした」
「なんだそれ」
「横浜市に実在した女性で、白塗りに白いドレス姿で有名だった方らしくて。全然、都市伝説のメリーさんとは関係ないんですけど、名前が同じだから一瞬勘違いしちゃって」
キリサメが、呆れたように肩をすくめた。
「ふう😮💨。萌香さん、調べ物は、もう少し慎重にしてください」
「うるさいですよ、キリサメ先生😡!」
いつものやり取りに、俺は思わず笑った。
「で、現代版はどうなってるんだ」

「LINEやメールを使った版が広まっています。『今〇〇にいるよ』というメッセージが、既読をスルーしても届き続ける、という形に変化しているようです。写真付きで、距離が近づいていく様子を送りつけてくるパターンもあるとか」
キリサメは、ホワイトボードの端に、新しい矢印を書き足した。
「電話→チェーンメール→SNS」
「技術が変わるたびに、この怪談は姿を変えて生き延びてきました。だとすれば」
「今回のも、その延長線上ってことか」
「その通りです。むしろ、伝承として見れば、非常に自然な進化だと言えます」
「でも、これだけ形を変えて生き延びてる理由って、なんなんだ。ただの怖い話なら、もっと廃れてもよさそうなもんだけど」
俺が聞くと、キリサメは少し考えてから答えた。
「メリーさんの電話が長く語り継がれてきたのは、恐怖の構造がシンプルだからだと思います。『距離が近づいてくる』というのは、誰にでも直感的に理解できる恐怖です。しかも、原因が分からない。誰が、なぜ追いかけてくるのか、最後まで明かされないことが多い」
「理由が分からない方が、怖いってことか」
「はい。人は、理解できないものに一番強い恐怖を感じます。今回のケースも、もし最初から『捨てた人形の怨念です』と説明されていたら、ここまで不気味には感じなかったかもしれません」
「まだ理由が分からないから、余計に気味が悪いってことだな」
「そういうことです」
「にしても、なんで"人形"なんだろうな。電話でも写真でも、別に人形が絡む必要はないだろ」
俺が疑問を口にすると、キリサメは待っていましたと言わんばかりに続けた。
「人形というモチーフ自体、古今東西のホラーで繰り返し使われてきました。理由は単純で”人間の形をしているのに、人間ではない”という違和感が根源にあるからです。しかも、本来は動かないはずのものが、意思を持っているかのように振る舞う——この不気味の谷的な恐怖は、文化を問わず共通しています」
「日本だと、市松人形の髪が伸びる話とかもそうだよな」
萌香が付け加えた。
「はい。人形は、持ち主の感情や記憶を吸い込む器として語られることが多いです。捨てられた人形が恨みを抱く、というモチーフも、その延長線上にあります」
「じゃあ今回も、人形自体に何かが宿ってる可能性は」
俺が聞くと、キリサメは首を振った。
「その可能性がゼロとは言いません。ただ、現時点では、まだ人形そのものを確認できていません。まずは、状況証拠を積み上げるところからです」
「他に、参考になりそうな実例はあるか」
俺が尋ねると、キリサメは資料をめくった。
「近年だと、SNSを使ったストーキング被害の相談件数自体が、年々増加傾向にあります。加害者が家族や元交際相手であるケースも、決して少なくありません。むしろ、赤の他人よりも、身近な人間による被害の方が、発覚が遅れる傾向にあるとも言われています」
「なんでだ」
「信頼している相手だからこそ、疑うこと自体にブレーキをかけるからです。それに、身近な人間は、被害者の生活パターンや行動範囲を、最初から知っている。だから、赤の他人よりも、はるかに"精度の高い"つきまといが可能になってしまうんです」
その言葉に、部屋の空気が少し重くなった。
「じゃあ、今回の写真の送り主も、身近な人間である可能性が高いってことか」
俺が確認すると、キリサメは頷いた。
「あくまで、可能性の話です」
「決めつけないようにするのは、大事だけどな」
俺は、少し考えてから続けた。
「ただ、心構えとしては、持っておいた方がいいかもな。もし本当に身近な人間の仕業だとしたら、美咲さん自身が、一番傷つく結末になるかもしれない」
キリサメは、何も言わなかった。ただ、静かに頷いた。
萌香が、資料をぱたんと閉じた。
「歴史は分かりました。あとは、実際に調べてみないと」
俺は、ホワイトボードに書かれた矢印を、しばらく眺めていた。
半世紀以上前の子供向けサービスから始まった噂が、形を変えながら、今もこうして誰かのスマホに届き続けている。技術は変わっても、人がそこに込める感情——執着や、寂しさ、あるいは支配欲——は、案外変わらないのかもしれない。
第三部 写真の中の道
美咲のアパートを訪ねたのは、その週末だった。
築年数の浅い、こぢんまりとしたワンルームマンションだった。玄関を入ってすぐ、几帳面に整理整頓された部屋が目に入る。一人暮らしを始めて、まだそれほど経っていないはずなのに、生活の跡がきちんと根づいている印象だった。

「わざわざすみません…」
美咲は、萌香の従姉妹というだけあって、どこか物腰が似た、柔らかい女性だった。ただ、目の下にはうっすらと隈が見える。ここ数日、あまり眠れていないのだろう。淹れてくれたお茶にも、あまり手をつける余裕がなさそうだった。
「写真、今も届いてますか」
萌香が尋ねると、美咲は頷いて、スマホから印刷した写真を差し出した。

これまでに届いた写真は、全部で七枚。時系列に並べると、明らかに一つの道を辿っていた。
公園。コンビニ。電柱。バス停。マンションの外壁。エントランスの自動ドア。そして、最後の一枚——
「これ、うちの廊下…」
美咲の声が、震えていた。エレベーターを降りてすぐの、共用廊下の写真だった。
キリサメが、一枚ずつ画面を拡大していく。
「アカウントは、いくつ変わってるんですか」
「三つです。ブロックするたびに、新しいのから送られてきて」
「投稿履歴は」
「何もないです。作ったばかりのアカウントみたいで」
俺は、画面に映る写真を、順番に眺めた。
「加工とか、透かしとかは」
「一切ないです。普通に撮った写真、って感じで」
キリサメが、写真の隅々に目を凝らす。
「逆画像検索、試してみましたか」
「はい。でも、ネット上のどこにもヒットしませんでした。使い回しの画像じゃなくて、多分、今回のために撮られたものです」
「つまり、この道を、実際に誰かが歩いて撮ってる」
「心当たり、本当にないんですか」
俺が尋ねると、美咲は少し迷ってから、口を開いた。
「一応、二人、思い浮かぶ人がいます。あんまり考えたくないんですけど」
「聞かせてください」
キリサメが、ノートを開いた。
「一人は、前の職場の先輩です。告白されて、断ったんですけど。それから、なんとなく、目が合う回数が増えたというか。見られているというか」
「その人、今の住所知ってそうですか」
「多分、無理です。引っ越し先、誰にも教えてないので」
「もう一人は?」
「大学時代の友達です。その子が今の彼氏と付き合い始める前、彼氏の方が私に好意を持ってた時期があったんです。私は何とも思ってなかったし、二人が付き合い始めてからは、ちゃんと身を引いたつもりだったんですけど…その子には、なんとなく気まずさが残ったみたいで。最近も、たまに当てつけみたいなメッセージが来ることがあって」
「友達本人が、怪しいってことか」
「はい。彼氏じゃなくて、その子の方です」
「その二人、当たってみるか」
俺が言うと、萌香が頷いた。
「先輩の方は、SNSの投稿、追ってみます」
「元カレの方は、私が確認します」
キリサメが、ノートにメモを取りながら言った。
「あと、念のため聞いておきたいんですが。他に、最近距離が近くなった人とか、逆に急に疎遠になった人とか、いませんか」
美咲は、しばらく考え込んでいた。
「…そういえば、大学時代の後輩から、久しぶりに連絡が来たことがありました。急に、今どこに住んでるのか聞かれて」
「それも、洗っておいた方がいいですね」
三人目の候補も加わり、調査の対象は広がった。
数日かけて、それぞれの周辺を洗った。
前の職場の先輩は、写真が撮られた時間帯、勤務先の防犯カメラに映っていたことが、共通の知人経由で確認できた。土地勘があるとも思えない。
「シロだな」
「はい。それに、生活圏自体が、全然違いますし」
友人については、萌香がSNSの投稿履歴を遡った。
「この子、この二週間ずっと旅行中みたいです。海外の写真、リアルタイムで上げ続けてて」
「タイムスタンプ、写真の位置情報と一致するか?」
キリサメが確認する。
「一致してます。時差込みでも、動けない距離ですね」
大学時代の後輩については、キリサメが遠回しに近況を尋ねる形で接触した。
「単純に、就職の相談だったみたいです。他意はなさそうでした」
三人分の可能性を潰していく過程は、思っていたよりも時間がかかった。それぞれに、確認すべき裏付けがあり、簡単には断定できない。だが、一つ一つ潰していくうちに、輪郭がはっきりしてくるのも事実だった。
「消去法って、地味だけど、こういう時は一番確実なんですよね」
萌香が、疲れた様子で言った。
「怪異相手だと、こうはいかないもんな」
俺が返すと、キリサメが小さく笑った。
「人間相手の方が、実は分かりやすいんですよ。動機と、機会と、手段。三つが揃えば、大体絞れます」
俺は、腕を組んだ。
「三人とも、違うのか」
「はい。少なくとも、直接手を下せる状況にはなかったです」
美咲が、力なく息を吐いた。
「じゃあ、誰が」
キリサメが、ノートに三人の名前を書き、それぞれに大きく×をつけた。
「他人という線で調べられる範囲は、大体潰しました。となると、残るのは」
「もっと近い人間、ってことか」
「はい。友人、職場の同僚、あるいは——」
キリサメは、そこで言葉を止めた。何かを言いかけて、飲み込んだような間だった。
「あるいは?」
俺が促すと、キリサメは首を振った。
「いえ、まだ憶測の段階です。順番に潰していきましょう」
「その前に、確認しておきたいことがあります」
キリサメが、真剣な顔で言った。
「今の時代、住所や生活圏の情報は、SNSからでも十分に調べられます。写真の背景に映り込んだ看板、位置情報タグ、フォロワー同士のやり取り……本人が特定できなくても、行動範囲を絞り込むことは、赤の他人にも可能なんです」
「じゃあ、さっきの三人以外にも、可能性があるってことか」
「そうです。だから、まず確認したいのは——美咲さん、SNSに、自宅周辺の写真とか、位置情報付きの投稿、したことありますか」
美咲は、少し考えてから、首を振った。
「ないです。位置情報はずっとオフにしてますし、自宅の近くで撮った写真も、投稿したことはないと思います」
「アカウントは、鍵付きですか」
「はい、フォロワー以外には見えない設定です」
「『メリー』という名前について、過去に投稿したことは」
美咲は、はっとした顔になった。
「……ないです。人形のことなんて、誰にも話したことないです。萌香にも、今回初めて話したくらいで」
キリサメが、頷いた。
「つまり、『メリー』という名前も、この生活圏の情報も、SNSを調べただけでは辿り着けない。これを知っているのは——」
「実生活で、繋がりのある人間ってことか」
俺の言葉に、キリサメが頷いた。
「ネット越しの赤の他人ではなく、もっと近い距離にいる誰かです」
「怖いですね」
美咲が、ぽつりと呟いた。
「顔も名前も分からない誰かより、知ってる誰かの方が、実は一番怖いのかもしれないです」
その言葉に、誰も反論できなかった。
「もう一度、写真そのものに戻りましょう」
キリサメが、七通のメッセージを、最初から並べ直していた。
キリサメと萌香は、別の写真を並べながら、逆画像検索の結果について話し込んでいた。その隙に、美咲が、一枚の写真を見つめたまま、動きを止めた。
「……どうした」
俺が声をかけると、美咲は、はっとした顔で顔を上げた。
「今、気づいたんですけど。この道、駅からの近道じゃないんです。むしろ、遠回りで」
「それがどうかしたのか?」
「は前から、なんとなく変だなとは思ってて。私自身、たまにしか通らない道だから」
「たまにって、どんな時に」
キリサメと萌香は、まだ逆画像検索の話に夢中になっている。その隙に、美咲が、俺にだけ聞こえるくらいの声で、小さく答えた。
ほんの数秒、それだけだった。
俺は、黙って頷いた。
頭の中では、今聞いたばかりの言葉が、じわじわと像を結び始めていた。
「まだ続くと思うか」
俺が聞くと、美咲は力なく頷いた。
「もう、次は、廊下の先だと思います」
第四部 近づいてくるもの
その日から、写真の記録を注意深く追うことになった。
美咲の生活は、明らかに変わり始めていた。カーテンを開けなくなり、宅配便も対面での受け取りを避けるようになった。仕事帰りには、必ず萌香か俺たちの誰かに連絡を入れるよう、習慣づけていた。夜、一人で歩くのが怖いからと、駅からタクシーを使う日も増えていた。
「こんな生活、いつまで続くんだろうって、たまに思います」
美咲が、力なく漏らしたことがあった。
「普通に、コンビニに買い物に行くのも、今は怖いんです。誰かに見られてる気がして」
萌香が、その手を軽く握った。
「大丈夫。私たちが、ちゃんと守りますから」
その言葉に、どれだけの意味があったか分からない。それでも、美咲は、少しだけ表情を緩めた。
八枚目——玄関ドアの表札の部分だけを写した、極端に近い写真だった。表札は出していないはずなのに、部屋番号までしっかり見えている。
『わたし、メリー。今、ドアの前にいるの』「表札、出してないですよね」
「出してないです。多分、郵便受けとか、宅配の記録とかから調べたんだと思います」
「表札の写真、玄関先まで来てたってことですよね」
美咲が言った。
「管理会社に、防犯カメラの映像、見せてもらえないか聞いてみます」
九通目には、これまでとは違う一文が添えられていた。
『わたし、メリー。もうすぐ、会えるね』その一文だけで、部屋の空気が一段階、冷えたのが分かった。
エントランスと共用廊下には、確かにカメラが設置されていた。だが、管理会社を通して見せてもらった映像は、期待したほど鮮明ではなかった。

九通目が届いた時間帯、エントランスを通った人影が一つ。夜間モードで粒子が粗く、フードを目深に被っていて、顔は判別できない。ただ、体格と、持っている傘の形だけは、辛うじて見て取れた。
「これだけじゃ、断定は無理ですね」
キリサメが、映像を巻き戻しながら言う。
「管理会社的にも、これ以上の詳細な提供は、警察が動かないと難しいそうです」
俺は、モニターの中の、ぼやけた人影を見つめた。顔は分からない。年齢も、はっきりとは読み取れない。ただ、体格は小柄で、猫背気味に肩をすぼめている。歩幅は狭く、急いでいるはずなのに、どこか遠慮がちな足取りだった。まるで、誰かに見つかることを恐れているような、そんな歩き方に見えた。
写真を並べて、共通する要素を探すと、右下の隅に小さく影が映り込んでいるものが三枚あった。撮影者自身の影だ。肩から下げた鞄の形、そして傘。柄の先端が、動物の頭のような形にカーブしている、少し変わったデザインだった。量産品にはあまりない、どこか凝った作りに見える。
「防犯カメラに映っていたものと、同じ形だな」
キリサメが、映像の静止画と写真を並べて比較する。傘の先端の、あの独特なカーブが、両方にはっきりと確認できた。
「この傘、見覚えありますか」
美咲が、画面に顔を近づける。しばらく黙っていたが、やがて、ぽつりと言った。
「…なんか、見たことある気がします」
それだけ言って、美咲は口をつぐんだ。誰も、それ以上は聞かなかった。
十枚目が届いたのは、その晩だった。
俺たちは、美咲の部屋に集まっていた。念のため、というより、萌香が「行きます」と言って聞かなかったからだ。美咲は、いつもより少し明るい表情を見せていた。誰かがそばにいる、というだけで、こんなにも違うものかと、俺は思った。
「今日は、何も来ないといいですね」
萌香が、お茶を淹れながら言った。その言葉が、まるで呼び水になったかのように、スマホが震えた。
写真が、一枚。ドアスコープの位置から見上げるようなアングルで、まるで、すぐ外に立って撮ったかのような、美咲の部屋の玄関ドアそのものだった。
『わたし、メリー。今、ドアのすぐ外にいるの』俺は玄関に駆け寄った。ドアスコープに、目を押し当てる。
「……誰も、いない」
外には、誰の姿もなかった。街灯の明かりだけが、静かに廊下を照らしている。
ドアを薄く開けて、周囲を確認する。それでも、人の気配はなかった。
「あ」
萌香が、小さく声を上げた。窓際から、外を覗いていたらしい。
「どうした」
「今、誰か。道路の向こう側に、立ってた気がして」
俺も窓に近づき、目を凝らしたが、街灯の下には誰もいなかった。
「気のせいか」
「多分…いえ、分からないです」
萌香の声が、珍しく揺れていた。
俺たちは、しばらくの間、誰も口を開かなかった。部屋の空気が、じっとりと重い。原典のメリーさんが、電話をかけるたびに距離を詰めてきたように——今度は、メッセージが届くたびに、確実に、生活の内側へと踏み込んでくる。
「あと、何回だと思う」
美咲が、震える声で聞いた。
誰も、答えられなかった。
「警察に相談するのは、どうですか」
キリサメが、切り出した。
「実害がまだ出ていない段階だと、動いてもらうのは難しいかもしれません。でも、記録として残しておく意味はあります」
美咲は、少し迷った末に、最寄りの交番に相談に行くことにした。対応してくれた警官は、写真とメッセージの記録を確認し、ストーカー規制法の対象になり得るケースとして、相談内容を記録に残してくれた。ただ、それ以上の踏み込んだ捜査は、今の段階では難しいという説明だった。
「加害者が特定できていない以上、警察としても、パトロールを強化するくらいしかできないみたいで」
美咲が、力なく報告した。
「相談内容は記録に残るから、もし今後、実害が出た時には、この記録が役に立つはずだって言われました。今は、それを積み重ねるしかないみたいです」
「それでも、ないよりはマシだと思う」
俺は言った。慰めにもならない言葉だと分かっていたが、他に言えることがなかった。
萌香が、美咲の肩に、そっと手を置いた。
「一人にはしないので。何かあったら、いつでも呼んでください」
美咲は、小さく頷いた。その表情には、安堵と、それでも消えない不安が、同時に浮かんでいた。
第五部 玄関先
十一枚目が届いたのは、それから一週間後だった。
美咲の部屋に、俺たち三人が揃っていた夜。スマホが震えた瞬間、
『わたし、メリー。今、あなたに会いに来たよ』インターホンが鳴った。
誰も、動けなかった。
「…出るか」
俺が言うと、美咲が首を横に振った。顔から血の気が引いている。
「私が出ます」
萌香が、静かに立ち上がった。玄関に向かい、ドアスコープを覗く。
「…誰も、いません」
ドアを開けると、外には誰の姿もなかった。街灯の明かりだけが、静かに路地を照らしている。
だが、玄関先の三和土に、それは置かれていた。

古い、外国製の人形。
美咲が、息を呑む。
「メリー…」
その声は、ほとんど吐息のようだった。
俺たちは、人形を室内に運んだ。埃をかぶってはいたが、丁寧に手入れされていた形跡があった。髪は丁寧に梳かされ、服にもほつれ一つない。
美咲は、しばらくその場から動けなかった。人形を直視することも、目を逸らすこともできず、ただ、中途半端な距離を保ったまま立ち尽くしている。
「触っても、大丈夫ですか」
萌香が、俺に聞いた。
「人形についてる指紋とか、繊維とかの方、ってことですね」
キリサメが、ハンカチ越しに人形を持ち上げた。慎重な手つきだった。
「持ち去られていたのに、綺麗なままなんですね」
萌香が、人形の頬にそっと触れる。
目を閉じ、しばらくそのままの姿勢で止まった。萌香には、こういう時にしか見せない顔がある。何かに耳を澄ませているような、静かな集中の表情になる。
萌香の中に住む狐—コックリさんの一件以前から、萌香の身体に宿っている、あの守護霊のことを、俺は思い出していた。
あの一件以降、萌香の感覚は、以前よりも鋭くなっているようだ。触れるだけで、そこに何かが宿っているかどうか、大まかに分かるようになったのだという。狐が住み着いていることの副作用なのか、それとも野狐が取りついた影響によるものなのか、本人にもはっきりとは分かっていないらしい。ただ、これまで、その感覚が外れたことはなかった。
「何も、感じないです」
「何も?」
「霊的な気配とか、そういうの。この人形自体には、何もないです。ただの、人形です」
キリサメが、頷いた。
「だとすれば、これは怪異ではなく」
「人間の仕業ってことか」
俺たちは、しばらく黙り込んでいた。
人形、裏道の話、傘の形状—バラバラの違和感が、少しずつ一つの形になっていく。

俺は、人形を見つめながら言った。
「証拠が一つにつながった」
「証拠って」
美咲が、こちらを見る。
「これ以上、遠回しに探ってても仕方ない。直接、確かめに行くしかないだろ」
美咲の顔が、強張った。
「……はい」
第六部 あたし、メリー
美咲の運転で、俺たち三人と美咲、四人である場所へ向かった。車内では、誰も、ほとんど口を利かなかった。窓の外を、見慣れない住宅街が流れていく。
助手席に座っていた萌香が、小さく振り返った。
「今からでも、やめておきますか」
「ううん」
美咲は、首を振った。ハンドルに少しだけ力が入っているのが分かった。
「ここで確かめないと、多分、ずっとこのまま。写真が来るたびに、びくびくしながら生きていくのは、もう嫌なので」
キリサメが、静かに言った。
「無理はしないでください。途中で引き返したくなったら、いつでも言ってください」
「ありがとうございます」
美咲は、そう言って、少しだけ表情を緩めた。それでも、目の奥には、まだ強い緊張が残っていた。
古い一軒家の前に車を停める。表札には「佐伯」とだけ書かれていた。庭の植木は、よく手入れされている。生活感のある、ごく普通の家だった。
インターホンを押すと、しばらくして、玄関のドアが開いた。
俺は、開いたドアの隙間から、玄関先の傘立てに目をやった。数本の傘に混じって、柄の先端が動物の頭のような形にカーブした一本が、そこに立てかけてあった。
「美咲? どうしたの、急に」
母親は、美咲の後ろに立つ俺たちを見て、一瞬、表情を強張らせた。それでも、すぐに柔らかい笑みを作ろうとした。まるで、いつも通りの来客を装うように。
「お友達も一緒? 上がって、お茶でも...」
「話が、あるの」

美咲が、そう言って、腕に抱えていた人形を差し出した。
母親の顔から、すっと血の気が引いた。作りかけの笑みが、そのまま固まる。
しばらくの沈黙の後、押し殺したような声で、母親は言った。
「…あなたが、困ってると思ったから」
「困ってないよ。むしろ、怖い思いしかしてない」
「でも、頼ってくれないでしょう。連絡しても、返事、そっけないし」
「それは、お母さんが」
美咲の声が、震えていた。
「私のこと、いつまでも子供扱いするから。バッグの中まで勝手に探るし、実家出る時だって、なかなか荷物出させてくれなかったじゃない」
母親は、しばらく何も言わなかった。目を伏せ、玄関のたたきをじっと見つめている。
美咲が、静かに続けた。
「小さい頃、覚えてる。お母さん、私が友達の家に泊まりに行くだけで、何回も電話してきてたよね。門限より五分遅れただけで、玄関で待ち構えてたこともあった」
「心配だっただけよ」
「うん、分かってる。でも、大人になっても、それがずっと続いてる」
「…メリー、あなたが大事にしてたから。捨てるはずないと思ってた。だから、持って帰ったの。ずっと、家に置いてあげてたのよ」
「持って帰った? それって——」
「引っ越しの日、あなたが最後にゴミに出そうとしてるの見て。もったいなくて、拾って」
美咲は、絶句していた。
「写真、送ってたのもお母さんだよね。あの道、うちから駅に送る時に、いつも使ってる道」
「…あなたの生活、見てないと、不安だったの。連絡しても、既読すらつかない日もあるし」
「見てなくていい。もう、大人だから」
「大人でも、心配なものは心配なの。それの、何がいけないの」
「アカウント、何個も作って。ブロックしても、また新しいので送ってきて」
「一回じゃ、伝わらないと思って」
「メッセージ、全部『わたし、メリー』って書いてあったけど」
美咲の声が、掠れていた。
「あれ、人形のふりしてたの? それとも」
母親は、しばらく黙っていた。それから、静かに言った。
「ふりじゃないよ」
「……え?」
「メリーは、私なの。あなたが、あの子を捨てようとした時から、ずっと」
母親の声が、初めて揺れた。
「あなたが家を出るって決めた時、分かってたの。もう、私のこと、大事にしていないんだって。捨てられたのは、人形じゃなくて、私だったんだって」
「そんなこと…」
「思ってなくても、そう感じたの。それだけで、十分だったの」
「じゃあ、写真送ってきたのも、私を怖がらせたかったから?」
美咲の声に、強い怒りが滲んだ。
「怖がらせたいわけじゃないの。ただ、気づいてほしかった。私が、ここにいるって」
「そんなやり方しなくたって—」
「他に、どうすればよかったの!」
母親が、初めて声を荒げた。
「普通に電話しても出ない。メッセージ送っても、そっけない返事しか来ない。だったら、どうすれば、あなたは私を見てくれるの」
「お母さん」
美咲の声が、震えながらも、はっきりとした強さを帯びていく。
「連絡が少なかったのは、忙しかったからだよ。無視してたわけじゃない」
「そう思ってても、こっちには伝わらないの。分かる? 一日中、あなたから返事が来ないと、頭の中で、悪い想像ばっかり膨らんでいくの。事故に遭ったんじゃないか。もう、私のことなんてどうでもよくなったんじゃないか」
「それは、お母さんの不安であって、私には関係ないじゃない!」
母親は、口をつぐんだ。長い沈黙の後、消え入りそうな声で言った。
「…そうね。あなたの、せいじゃない」
その一言だけは、初めて、素直な響きを持っていた。
だが、それも長くは続かなかった。母親は、すぐに視線を人形に戻し、まるで自分を落ち着かせるように、その頬を撫でた。
「でも、あなたが私を必要としなくなったのは、事実でしょう」
「必要としなくなったわけじゃない。距離が、欲しかっただけ」
「同じことよ」
母親は、静かに、しかし譲らない口調で言った。
「大人になったら、親から離れるのが普通、なんて言うけど。それって、離れる方の理屈でしょう。残される方は、どうすればいいの」
美咲は、しばらく言葉を失っていた。俺と萌香、キリサメは、少し離れた場所で、ただ黙って見守っているしかなかった。玄関先の狭い空間に、母娘二人分の、長年積み重なってきた感情だけが満ちていた。
「…分かった」
長い沈黙の後、母親は、そう言った。声のトーンが、急に落ち着く。
「もう、送らないから」
「本当に?」
「本当よ。…でも」
母親は、少し笑ったようだった。そして、美咲の腕から、そっと人形を取り上げた。
「メリーは、返さないから。あの子は、私がいないと駄目なの。あなたと違って」
美咲は、抵抗しなかった。ただ、母親の腕の中の人形を、しばらく見つめていた。まるで、かつての自分自身を見ているような目だった。
俺たちは、それ以上、何も言えなかった。玄関先を後にして、車に戻る。しばらく、誰も口を利かなかった。エンジン音だけが、車内に響いていた。
美咲は、しばらくハンドルに手をかけたまま、動かなかった。泣いているのかと思ったが、その目は、ただ前を見つめているだけだった。放心、というのが一番近い表現かもしれなかった。
「大丈夫ですか」
俺が聞くと、美咲は、小さく頷いた。
「大丈夫、ではないですけど。とりあえず、車は出せます」
車が走り出す。
「愛情って、時々、呪いみたいな形になるんですよね」と萌香が口にする。
キリサメが、静かに言った。
「メリーさんの電話も、元をたどれば『捨てられた側の執着』の話でした。今回、実際に執着していたのは、人形じゃなくて」
「母親の方だった、ってことか」
「それだけじゃないですよ」
キリサメが、続ける。
「お母さんは、多分、本気で、自分自身を"捨てられたメリー"だと思ってたんです。娘に要らないと言われた気がして、その痛みを、人形に重ねていた」
俺は、しばらく黙っていた。
「捨てられることを、一番恐れてたのは、人間の方だったんだな」
「はい」
萌香が、窓の外を見ながら、静かに続けた。
「でも、その恐れ方が、間違った方向に向かっちゃったんですよね。本当は、ちゃんと話し合えばよかったのに」
「話し合いって、簡単に言うけど…」
俺は、そう思ったが、口には出すことはなかった。何十年も積み重なった感情が、一回の会話で解消できるとは思えない。多分、あの二人は、これからも、ずっとぶつかり続けるんだろう。だが、それを今、運転席の美咲に向かって言うのは、あまりにも配慮を欠いている。
誰も、それ以上はそのことを口にしなかった。
後日談として、一つだけ書き添えておく。
あの日から、母親からの連絡は、止まらなかった。
むしろ、増えた。
一日に何通も届くメッセージ。電話。既読を付けなければ、また別の番号から。既読を付ければ、今度は「今日は何してたの」「ちゃんとご飯食べてるの」から始まる質問攻め。返事が少しでも遅れると、次のメッセージには、少しずつ棘が混じるようになった。
隠す必要が、なくなったからだろう。正体を知られたところで、もう恥じる理由がない——そう思っているのかもしれなかった。あの玄関先で見せた、崩れかけた表情は、反省の色というより、むしろ「もう取り繕わなくていい」という安堵のようにも見えた。
美咲は、番号を変えた。SNSのアカウントも作り直した。それでも、自宅の住所を知られている以上、完全に断ち切ることは難しい。引っ越しを検討しているという話も、萌香を通して耳にした。
「向こうも、ずっとこのままではいられないと思うんです」
萌香は、そう言っていた。
「おばさん自身、多分、苦しいはずなので。誰かに、ちゃんと相談してほしいんですけど」
俺たちにできることは、そこまでだった。事件でも、事故でもない。家族の中で起きていることに、部外者が踏み込める領域には、限界がある。
数週間後、萌香から聞いた話では、美咲は結局、引っ越しを決めたという。今度は、誰にも新しい住所を教えないつもりらしい。母親にも。
「寂しくないんですか、って聞いたんです」
萌香が、事務所で言った。
「そしたら、美咲さん、少し笑って。『寂しいけど、多分これでいいの。ちゃんと向き合うためにも、今は距離が必要だから』って」
その言葉に、俺は何も返せなかった。
引っ越しの手伝いに、萌香が呼ばれたらしい。段ボールを運びながら、美咲は、ふと、あの人形の話をしたという。
「メリー、返してもらえばよかったかな、って、ちょっとだけ思ったんです。でも、多分、今返してもらっても、もう昔みたいには見られないと思って」
萌香は、それに何と答えていいか分からず、ただ黙って荷物を運び続けたそうだ。
「メリーは、返さないから」
あの一言は、反省の言葉ではなかった。俺たちは、そのことを、後になって思い知った。
捨てられることを恐れた人間が、今度は、捨てられまいと、誰かを追いかける側に回る。メリーさんの電話という怪談が、半世紀以上経っても形を変えながら語り継がれているのは、もしかしたら、こういう感情そのものが、時代を超えて変わらないからなのかもしれない。
電話が、SNSに変わっても。ゴミ捨て場が、フリマアプリなどに変わっても。
追いかけてくるものの正体は、いつだって、人の心の中にある。
事務所に戻ってからも、俺たちはしばらく、この件について話さなかった。記事にできる部分と、できない部分の線引きは、思っていたよりずっと難しかった。
美咲からは、その後も時々、近況の連絡が来た。新しい部屋に引っ越して、少しずつ生活が落ち着いてきているという。「怖い夢を見ることは、まだあるけど」と、彼女は書いていた。それでも、以前よりは、随分と声が明るくなったように感じられた。
「歴史パートだけ、書きますか」
数日後、萌香が言った。
「メリーさんの電話の起源と、現代の派生パターンについて。今回のことには、一切触れずに」
「それでいいと思う」
俺は答えた。
「全部書くことが、誠実さじゃないからな」
キリサメは、何も言わなかった。ただ、いつものように資料を読みながら、少しだけ、いつもより長い時間、手を止めていた。
俺たちは、怪異を追いかける仕事をしている。だが、今回みたいに、追いかけた先に待っているのが、怪異でも幽霊でもなく、ただの人間の弱さと執着だったことも、これまで何度かあった。そのたびに、少しだけ、割り切れない気持ちが残る。
萌香は、その後もしばらく、美咲との連絡を続けていた。番号もSNSも変え、新しい住所も誰にも教えなかったはずなのに、母親からの接触は、完全にはゼロにならなかった。
「番号変えたのに、なんでまだ届くんだ」
俺が聞くと、萌香は少し困ったように言った。
「勤務先の代表アドレスに、送ってくるみたいです。会社のホームページに、部署名くらいは載ってるので」
個人の連絡先は断ち切れても、仕事の窓口までは変えられない。美咲もそれには気づいていたが、それを理由に転職するわけにもいかず、今のところは、届いたメールを見ないまま、フォルダごと分けて対応しているという。
そうして、年に一度、誕生日のタイミングだけ、短いメッセージが届くそうだ。『元気にしてる? お母さんより』——それだけの、素っ気ない文面だという。
「怖いですよね、それはそれで」
萌香が、事務所で言った。
「もう、追いかけてこないだけマシなのか、それとも、まだ諦めてないだけなのか。よく分からなくて」
俺にも、答えは分からなかった。
その日の帰り道、事務所を出ると、夜風はいつも通り吹いていて、街灯はいつも通り灯っていた。日常は、こういう出来事を挟みながらも、淡々と続いていく。
調査記録:トコヤミ調査隊 File.7 了
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