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切るカードがなくなった、空っぽの私でもいいですか?

窓から入る朝の風が、小学生の頃の夏休みを思い出させた。
お盆休みに入る少し前のことだ。
暑いけれど、令和の猛暑や酷暑とは違う。
昭和の夏日の風が吹く、優しい朝だった。

このまま秋が来てほしいと思ったけれど、そんなに都合よくはいかないもので。
お盆が明ける頃にはすっかり令和の夏が戻り、太陽は弱った身体に容赦なく照りつける。

仕事の打ち合わせがあって、大阪市内まで出た。
昨年秋からレギュラーで定期的にもらっている案件で、いつも最初に顔を合わせてのブレスト(企画会議)がある。
クライアントが出してきたテーマに沿って私が企画のたたき台を作成し、それをもとに皆であれこれと煮詰めていく。
私が制作会社(デザイン事務所)へ出向き、こちらは私(ライター)、ディレクター、デザイナー、プロデューサーが集まって1つのモニターを共有して、クライアント(3、4名)とはリモートで会話する。

今回は、制作会社に新しいデザイナーさんが2人入ったようで、最初に紹介された。
2人とも20代と思われる若い女性で、気立てが良さそう。好感度高め。
名刺交換をした時に、そのうちの1人が私の目をしっかり見て、ニコッと笑った。その笑顔が可愛くて、思わずときめいてしまった。(オッサンの思考)
というか、やっぱり笑顔って大事だな、と当たり前のことに気づく。人の目を見て話すことも。対人間の基本中の基本だけど、すごく重要。これだけで第一印象が格段にアップするのだから。
笑顔を見て気持ちが良くならない人なんていないとも思う。私も名刺交換の時、ちゃんと笑顔で接しようと心に誓った。

打ち合わせを終えて帰宅。
夜に夫が帰ってきたら、今日あったことを話す。
いつもより口数が多く、話題が豊富な私。イキイキと楽しそうな様子が自分でもわかる。
「今日は元気やなぁ」と夫は嬉しそうだ。
やっぱり仕事で人に会うと、それだけで気持ちが明るくなるのを感じる。人からもらうパワーがすごい、ということもあるし、仕事をしているという充実感もある。
何より、ちょっと打ち合わせに行くだけでも、いつもとは違う話題が提供できる。
私が病気を抱えながらも、仕事を少しでも続けていたいのは、そういう理由もある。

ありがたいことに、他にも単発で新規案件の話が来た。この制作会社は2年ほど前からお世話になっていて、時々単発でお仕事をくれる。
今回はまだ見積もり段階で、コンペのようなので流れる可能性もあるが、話をもらえるだけでもありがたい。それだけで社会から見放されていないと感じられてホッとする。
単価5万円程度の小さな仕事だが、今の自分にはそれくらいでちょうどいい。あまり大きな案件だとやり遂げられるまでに体調不安があるから。

お盆休み中には友達と会った。中学からの親友たちで、夫よりも私のことを知っているような人たちだ。話題など尽きることもない。
だけど、最近は会っても何の話題も出てこない私自身に、自分でがっかりしている。

なんてツマラナイ人間になってしまったんだろう!

話すことといえば、自分の病気のことと最近見たアニメやドラマの話くらい。そんな人間と接して面白いはずがない。それなのに、愛想もつかさずによく私なんかと付き合ってくれるよなぁと思う。その点に関しては感謝の気持ちしかない。

友達と会うと、私は楽しい。
そりゃ、毎日家に引きこもっているのだから、人に会えるだけでも気持ちは浮き立つのだ。
でも、皆で美味しいものを食べていても、いつも少し体がしんどい。食事をあまり楽しめず、義務のように口に入れて、なんとか自分の分を消費することに集中する。まわりも気遣ってくれるし、量もそんなにないから、まだ「修行モード」にならないだけマシだが。
それでも、食べているだけで疲れてくるし、お腹も痛みが出てくるし、「ああ、横になりたい」と思ってしまう。
そんな調子だから、本当の意味では楽しめていないのだ。せっかく好きな友達との大切な時間を過ごしているというのに、なんてもったいない!

以前はただ楽しいだけだった。いつまでも一緒にいたい友達だった。今ももちろん大好きな友達だけど、私という人間があまりにもつまらなすぎて、いつまで付き合ってもらえるんだろうかと不安になる。いつか見捨てられるのではないかと、どうしても思ってしまう。40年付き合ってもまだそんな考えが浮かぶのは、べっとりと自分の魂にへばりついた「自己肯定感の低さ」なのだと思う。

余談だが、「自己肯定感が低い」と言うと、「あなたはこんなことができるし、こんなすごい面もあるし、こんなに恵まれているし、自己肯定感が低いなんてことはないでしょう」と否定されることがある。
でもそれは、その人が「自己肯定感」というものを本質的に理解していないからだと思うのだ。
自己肯定感って、自分が持っているカードの数や質ではない。極端に言えば、お金持ちで成功者で、容姿端麗で聡明で、何かのスキルがあって、人に愛されていたとしても、自己肯定感の低い人はいる。
逆に、これといった特技もなく、平均的な容姿で、何も成功していなくても、自己肯定感の高い人もいる。
自己肯定感=自信ではないのだ。持っているカードでもない。
これはもっと魂レベルの話。何ができようが、何に恵まれようが、自己肯定感の低い人間はいて、ちょっとしたことで表面的に歪みとなって出てくることがある。

わかりやすく言えば、好きな人からLINEがこない時、まずどう思うか。
「何かあったのかな」と相手の状況を考える人もいるだろうが、私はまずこう考える。
「私は何をして嫌われたんだろう」と。
そして、最後にやりとりした文面を何度も読み直し、何か自分に不備があったのではないかと考える。自分など捨てられても仕方のない存在だと思い、その考えに支配される。
わかりやすく言うと、これが自己肯定感の低さだ。

私は人と表面的に付き合うのが苦手だ。
今見ているドラマで「Tシャツが乾くまで」というのがあるが、「もう会うこともない、嫌われてもいい人間だから、何でも話せる」というシーンがあり、びっくりする。
私はすごくシンプルに、仲が良い信頼関係を築いている人間にしか、自分の心の内は話さない。話したいとも思わない。そして、ありがたいことに、私の話に付き合ってくれる「親友」と呼べる人がこの世に10人くらいはいる。
その他は、「ここまでは話せる人」という基準があり、それは信頼度というか、積み上げてきた関係性に比例する。
会ったばかりのよくわからない人間に話したいことなんてひとつもない。それはきっと「間に合っているから」だろう。

人を信じる気持ちはある。
でもそれ以上に自己肯定感の低さが、私を苦しめることがある。
これまでは、仕事をして、いろんなことを頑張って、人生を楽しんでいることで、まわりの人を繋ぎ止めようとしていた。
頑張っている自分を見せて、美味しいお店を教えてあげて、そこで一緒に楽しい時間を過ごして、面白い話を提供して。そうやって、不安な気持ちをごまかしてきたように思う。

でも、全部なくなった。
存在するのは、空っぽの、ツマラナイ私。
こんな人間と誰が一緒にいてくれるのだろうかと不安になる。
手持ちのカードでごまかしてきたけれど、カードがなくなって、「本来の私自身」だけになった時、私はこの自分に自信を持って勝負できない。
切るカードがない。

そんな考えに押しつぶされそうになることもあるけれど、でも、わかっていることもあるのだ。
私の友達は、「こういうことを考えてしまう私」のことなど、すでに理解していて、「はい、はい、あなたはそういう人やもんね」と、ほぼスルーで、まともに話に付き合うまでもなく、「全部わかって付き合ってくれている」ということも。
そんな安心感も心のどこかにある。
だてに30年、40年と一緒にいたわけじゃない。

矛盾していることはわかっているが、それは、私が信じたいことなのだ。
「あなたはそのままでいい」と、自己肯定感の低さも、ツマラナイ人間性も、こうやってごちゃごちゃ言うややこしさも、全部ひっくるめて「私」であり、それをもう飽き飽きするほど「知っている」んだと。知ったうえで付き合ってきてくれたのだと。
それを信じているから、今日もなんとか生きられる。

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