学校倫理の誤認論 最終回 団結力という相互監視 〜同調圧力のパノプティコン〜
前回、僕は「滅私奉公の美化」について書いた。
学校は、献身を美しいものとして語りやすい。自分のためではなく、みんなのために。見返りを求めず、純粋な気持ちで。好きでやっているのだから、対価を求めない。やりたいからやっているのだから、報酬はいらない。そういう言葉は、一見すると美しい。もちろん、僕は献身そのものを否定したいわけではない。
誰かのために動くことは美しい。場を整えることも、誰かを支えることも、共同体のために自分の時間や労力を差し出すことも、それ自体は尊い。自分が納得して、自分の美意識として、そこに自分の資源を投じるなら、それは自己満足である。本人の主権に属する行為である。しかし問題は、その献身が他者によって「純粋さ」として名付けられ、都合よく利用されることである。
好きでやっているんでしょう。
やりがいがあるんでしょう。
みんなのためでしょう。
見返りを求めないのが美しいでしょう。
こうして、本来自分で決めるべき満足が、他者によって解釈される。本人がどこまで引き受けるのか。どこから先は引き受けないのか。何を自分の美意識として守るのか。その境界線が、「純粋な献身」の名のもとに曖昧にされる。最終回で考えたいのは、そのさらに先である。自己満足は、最後には「集団」の中で回収される。
クラス一丸。全員で成功させよう。一人はみんなのために、みんなは一人のために。誰一人欠けてはいけない。団結力を見せよう。学校は、こういう言葉も好きである。
もちろん、ここでも誤解されたくない。僕は、集団で何かを成し遂げることを否定したいわけではない。協働には力がある。一人ではできないことが、複数人ならできることがある。誰かの存在によって自分の世界が広がることもある。文化祭、体育祭、合唱コン、探究発表、部活動、委員会活動。集団でしか味わえない達成感は、たしかに存在する。だから問題は、団結そのものではない。
問題は、団結がいつのまにか、離脱できない共同体への忠誠に変わることである。集団の中で、自分は何に満足しているのか。自分はどこまで関わりたいのか。何に乗れて、何に乗れないのか。どの役割なら引き受けられるのか。どの役割は自己満足を削るだけなのか。本来、そうした感覚は一人ひとり違ってよいはずである。しかし学校的な団結の中では、その違いがしばしば「わがまま」として処理される。
一人だけ違うことをするな。
集団の空気を読め。
クラスのために協力しろ。
ここで抜けるのは無責任だ。
全員でやるから意味がある。
こういう言葉が出てきたとき、自己満足は危うくなる。自分は何か別の形で貢献したい。自分は今回は距離を取りたい。そういう内側の感覚が、集団の空気によって潰されていくからである。僕はここに、「団結力」という学校倫理の誤認があると思っている。本来、団結とは、同じ目的に向かって協働する力のはずだ。しかし学校の中では、団結がしばしば「同じ温度で参加すること」と混同される。ここで、団結は協働ではなく同質化になる。しかも、その同質化は、教師が一方的に管理するだけではない。むしろ、より強く働くのは、生徒同士の視線である。教師が注意しなくても、生徒同士が注意する。教師が管理しなくても、生徒同士が管理する。教師が「やれ」と言わなくても、集団の空気が「やれ」と言う。ここに、同調圧力のパノプティコンがある。
パノプティコンとは、常に誰かに見られているかもしれないという感覚によって、人が自分を監視するようになる仕組みである。学校の団結は、時にこれに似た働きをする。こうして、生徒は自分の内側に監視者を住まわせる。しかも、その監視者は教師の姿だけをしていない。クラスメイトの顔をしている。友人の顔をしている。部活動の仲間の顔をしている。時には、「みんな」という匿名の顔をしている。だから厄介なのだ。
先生に言われたなら、まだ反発できる。でも、「みんなのため」と言われると反発しにくい。先生の命令なら、まだ距離を取れる。でも、クラスの空気になると距離を取りにくい。先生の評価なら、まだ疑える。でも、仲間の期待になると、自分の感覚を疑い始める。
第1回で、僕は陰徳陽報を「見えざる評価者」への依存として書いた。第5回で、その見えざる評価者は「みんな」という形で戻ってくる。そして、この「みんな」は、非常に強い。誰なのかはっきりしない。しかし、どこにでもいる。名前はない。けれど、強い圧を持つ。この匿名の評価者によって、生徒は自分の自己満足を手放していく。
本当は自分の中では納得していた。でも、みんなが納得しないなら足りないのかもしれない。本当は自分は別の役割が良かった。でも、みんなと同じように動かないと申し訳ない。本当はもう疲れていた。でも、みんなが頑張っているのに休むわけにはいかない。本当はその盛り上がりに乗れなかった。でも、乗れない自分がおかしいのかもしれない。こうして、自己満足は「みんな満足」に回収される。
第1回で僕は、自己満足の反対は「他者満足」だと書いた。自分の満足ではなく、他者が満足する形に自分を合わせていくことだ。最終回で扱っているのは、その集団版である。
「みんなが満足するなら、それでよい」「クラスがまとまるなら、それでよい」「集団が成功するなら、自分の違和感は飲み込めばよい」「自分の満足より、全体の一体感が大切だ」
この感覚は、一見美しく見える。でも、かなり危うい。
なぜなら、自分の内側の違和感や境界線や満足の基準が、集団の空気に吸収されてしまうからである。もちろん、集団のために自分を調整することは必要である。共同生活の中で、自分の都合だけを通すことはできない。自分の欲求をすべて優先すれば、他者と共に生きることは難しくなる。日本ではこれを「協調性」と呼ぶ。だから、僕は「集団に合わせるな」と言いたいわけではない。
問題は、合わせることが常に善とされ、合わせられないことが常に悪とされることである。集団に合わせることもできる。しかし、必要なら距離も取れる。協力もできる。しかし、違和感も言える。参加もできる。しかし、離脱もできる。一緒に作ることもできる。しかし、同じ感情を強制されない。こういう状態が、本来の成熟した集団なのだと思う。
しかし、学校的な団結は、しばしばここを許さない。こうなると、団結は暴力性を帯びる。感動できない者は、冷たい。泣けない者は、本気ではない。距離を取る者は、協調性がない。別の満足を持つ者は、空気を壊す。こうして、学校は「絆」という言葉で、個人の内側を占領する。本当に成熟した共同体とは、全員が同じ方向を向く集団ではない。違う方向を向く自由を残したまま、それでも必要なときには協働できる集団である。ここを間違えると、学校は「よい集団」を作っているつもりで、実は同調圧力の高い共同体を作ってしまう。そして、その中で最初に削られるのは、自己満足である。
集団の熱に飲み込まれず、自分の内側を確認できること。みんなが盛り上がっているときにも、自分の感覚を失わないこと。求められている役割と、自分が本当に引き受けたい役割を分けて考えられること。「みんな」の名のもとに、自分を明け渡さないこと。これは、かなり高度な力である。学校は、この力をもっと育てるべきだったのではないか。
ここにも、大きな逆説がある。
学校は主体性を育てたいと言う。しかし、集団の空気に合わせることを善として教えている。学校は自己肯定感を育てたいと言う。しかし、自分の満足よりも「みんなの満足」を優先するように教えている。学校は多様性を尊重すると言う。しかし、行事や部活動やクラスづくりの場面では、同じ熱量、同じ感情、同じ物語を求めている。学校は「自分らしく」と言う。しかし、集団の場面になると「一人だけ違うことをするな」と言う。
この逆説が、僕はずっと気になっている。
もちろん、教師も苦しいのだと思う。集団をまとめなければならない。行事を成立させなければならない。クラスを運営しなければならない。バラバラでは困る。協力してほしい。無責任な行動を放置するわけにはいかない。それはわかる。しかし本当は、集団を成立させることと、個人の内側を集団に明け渡させることは違う。
自己満足回復論の立場から言えば、最終的に必要なのは、集団の中でも自己満足を手放さない力である。自分はこれにどう関わりたいのか。自分は何なら引き受けられるのか。自分はどこに違和感があるのか。自分はどの距離感なら協働できるのか。自分はこの集団の中で、どんな形なら自分を失わずにいられるのか。この問いを持てること。それは、わがままではない。むしろ、成熟した協働のために必要な問いである。
自分の内側がない人間は、集団に溶けることはできても、対等に協働することはできない。自分の満足を持たない人間は、他者の満足に従うことはできても、自分の言葉で参加することはできない。自分の境界線を持たない人間は、献身することはできても、持続可能に関わることはできない。学校は、集団に溶ける生徒ではなく、集団と距離を調整できる生徒を育てるべきではないか。
ここで、僕はリゾームというイメージを持ちたい。
学校は、ツリー型の共同体になりやすい。校長がいて、教員がいて、学年があり、クラスがあり、班があり、係がある。上から下へ指示が流れ、全体が一つの目的に向かって整えられる。もちろん、そういう構造が必要な場面もある。けれど、人生はツリー構造だけでは育たない。学校の中で認められなくても、別の場所で手応えを得られる。クラスの物語に乗れなくても、別のネットワークで自分の言葉を持てる。学校的善に合わなくても、別の価値体系で自分の美意識を育てられる。これが大切なのだと思う。
だから、最終回の結論は、集団から逃げろ、ではない。閉じた集団に自分を預けすぎるな、である。
クラスは大切である。でも、クラスがすべてではない。
学校は大切である。でも、学校が世界のすべてではない。
仲間は大切である。でも、「みんな」が自分の内側の声を上書きしてよいわけではない。
団結は大切である。でも、団結が自己満足を奪うなら、それは疑ってよい。
ここまで5回にわたって、僕は学校倫理の誤認について書いてきた。
最終回では、団結を扱っている。団結は美しい。しかし、団結が「みんなと同じであること」を求め始めたとき、自己満足は集団の空気に回収される。
自己満足とは、他者に評価される前に、自分の内側で「これは自分にとって意味がある」と感じる力である。自分の行為を、自分の言葉で引き受ける力である。自分の満足を、学校や集団や評価者に勝手に決めさせない力である。だから、自己満足は、独自性の始点である。学校は、「自己満足で終わるな」と言ってきた。でも、本当は順番が逆だったのだと思う。自己満足で終わるな、ではない。足場となる自己満足を奪うな、である。
そして、自己満足を集団に明け渡すな、である。自己満足とは、その足場の最初のかたちだからだ。僕は、学校教育そのものを否定したいわけではない。むしろ、学校が本当に生徒の自由を広げる場所であってほしいと思っている。生徒が、自分の良さを自分で見つけられる場所であってほしい。学校的善に届くかどうかだけで、自分の価値を測らなくてよい場所であってほしい。「みんな」と一緒にいながら、自分の内側の声も失わずにいられる場所であってほしい。
そのために、僕たちは学校倫理を疑わなければならない。美しい言葉ほど、慎重に扱わなければならない。善。努力。感謝。献身。団結。絆。成長。どれも大切な言葉である。でも、その言葉が生徒の自己満足を奪うなら、その言葉は一度ほどいた方がいい。
そして、もう一度、生徒に返す。
まず、自己満足から始めろ。そして、その自己満足を持ったまま、他者と出会え。集団と関われ。世界へ出ていけ。
僕は、そう思っている。
