同じ物か別物か、いったいどっちだ
一昨年、『細胞が生まれ変わって全身が新しくなる?』という記事を投稿したが、その後しばらくしてから、拙作と少々似た部分がある「テセウスの船」という話を知った。その話は物事のパラドックス(逆説)について述べたもので、Newton(ニュートンプレス)という科学雑誌に載っていた。
ギリシアの哲学者で著述家のプルタルコスが、ギリシア神話のテセウスについて書いた話のなかに登場する。簡単にいえば以下のようになる。
たくさんの板で作られた一隻の船がある。傷んだり古くなったりした板は順次新しいものに交換される。長い間に、一枚また一枚というぐあいに交換され、最終的にすべての板が新しいものに交換されてしまう。つまり、当初の板は一枚もなくなってしまうのだ。
はたして、この船は「元の船と同じ船」といえるのか、という問題だ。
板をすべて交換してしまったらもはや別物だろう、ということになるとしたら、いったいどのあたりから別物扱いになるのだろうか。板が全体の二割や三割入れ替わったくらいでは別物とは言えないだろう。半分程度か、それとも四分の三程度か。あるいはもっとか。
それとは別の疑問もある。取り外した古い板を捨てずにすべて保管しておき、一式そろったらそれを使って船を再建する。つまり、古い板ではあるが元々使われていたものであり、元の船が再生されたことになる。この場合はどんな存在になるのだろう。
これは、別の素材で作ったレプリカ(複製)などとはわけが違う。これこそまさに「元の船と同じ船」(というか、元の船そのもの)であるはずだ。
このように、ある程度長い時間をかけてすべてが新しい板に交換された船と、元の古い板で再建された船は、どちらがほんとうの「テセウスの船」なのだろうか。どっちもほんとう、という声が聞こえてきそうだが、本来であれば本物はひとつのはずだ。
テセウスはクレタ島でミノタウロスという怪物を退治し、一隻の船をアテネに持ち帰った。それで「テセウスの船」と呼ばれるのだが、Newtonでは怪物ミノタウロスについては触れていない。いったいどんな怪物なのか気になったので調べてみた。
「クレタ島を治めていたミノス王の妻パシファエが、牡牛と交わって産んだ子で、迷宮に閉じ込められ、生贄として送り込まれた人間を食べていた」
というもので、頭が牛で首から下は人間だという。
なぜ王の妻が牛と交わることになったのか、これはもっと好奇心をかきたてられたので調べたが、ここで説明するには少々複雑で紙幅を要するため、残念ながら割愛することにした。
妻が牡牛に寝取られたのか、あるいは逆に妻が牡牛を誘ったのかなどと想像したが、そんな単純な話ではなかった。じつにおぞましい経緯がある。
それはさておき、Newtonではこういったパラドックスは論理的思考が鍛えられると述べている。
ちなみに、「テセウスの船」については「対象のどこに注目するかによってかわってくる。たとえば、船の材質、テセウスが乗船したかどうか、誰が作ったのか、などによって答えは異なる」のだそうだ。
単なる構造物である船(の部品)と、生命活動を行なっている人間(の細胞)を同列で較べるのは不条理だが、『細胞が生まれ変わって全身が新しくなる?』について、ふと思いをめぐらせた次第。
