「古事記」と「日本書紀」に見える古代日本の外交と、古代の世界秩序を定めたルール
各地方の「風土記」を元ネタとして、
712年に成立した「古事記」、そして720年に成立した「日本書紀」は、
国際社会の中で外交上の必要性から、律令制権力(王権)が、自己の正当性を明らかにする必要ができきために作られた、とされています。
特に「日本書紀」。
「日本書紀」が編纂されたのは、「古事記」完成の後10年も満たない時期です。
なぜ「古事記」完成のあとすぐに「日本書紀」が作られなければならなかったのか。
おそらく「古事記」が、日本語文脈を交えた、変体の漢文で表現されていたこと、つまり国内でしか通用しない文章で記載されていたことから、対外的な目的に十分適さなかったためと言われています。
そのため、改めて(当時の国際言語出会った)漢文で、公式の国史として書き直すことが必要になり、「日本書紀」が作られました。

当時、日本が属していた国際世界は、
世界の中心に「中国」=「中華」がある、という世界観でした。
世界の中心に「中華皇帝」が存在し、そこから「王化」の光があまねく四方に広がる。
そういった同心園的なコスモロジーで世界が整序されているのが「中華思想」です。
当時の国々の位置付けも、この「中華思想」をもとに設計され、カテゴライズされていました。
・「中華皇帝」が存在する世界の中心から近いところは、「王化」の恩沢に豊かに浴して「王土」とよばれ
・遠く離れて「王化」の光が十分に及ばない辺境には「蕃国(野蛮な国)」がある。
・この「蕃国」には「東夷」「西戎」「南蛮」「北狄」と分類される国々がある。
・そして「蕃国」のさらに外側、もう「王化」の光が届かない場所は「化外」と呼ばれる国々がある。
このような、空間的序列がありました。

中華王朝は、漢字一文字。
「蕃国」は漢字二文字で表現されます。
(匈奴、鮮卑など。)
「日本」は漢字二文字なので、「蕃国」。
「東夷」の最遠地にあたりました。
「辺境」とは、「中華」の対概念です。
日本列島の住民が、自らを「東夷」と格付けするこの宇宙観に同意著名したのは、今から1800年ほど前のこと。
「辺境」国として、そして「東夷」として、
その国としての成り立ちを、「中華」に公式に認めてもらうために、
ある種の外交文書として、「古事記」と「日本書紀」は成立したと言われています。
(以下、余談ながら)
「古事記」「日本書紀」で、地方的な神々を一箇の体系にまとめようとした原理は、一言で言えば”神代以来の血統による大和朝廷の王権の正当化”だと言われています。
正当化の必要は、「古事記」「日本書紀」の編纂を命じたと言われる「天武天皇」(生年不詳 - 686年)において、とくに大きかったはず。
なぜなら「天武天皇」(生年不詳 - 686年)は激しい王位継承戦争である「壬申の乱」(672年)で勝利したばかりであったからです。
この「壬申の乱」。
かの有名な「大化の改新」を進めた「中大兄皇子」、のちの「天智天皇」(626年 - 672年)の死後の皇位を巡り、
・「天智天皇」の息子「大友皇子」=成人していた唯一の皇子
と
・「天智天皇」の弟「大海人皇子」、のちの「天武天皇」
との間で起こった争いです。
それゆえに、「古事記」の「序」は、「天武天皇」(生年不詳 - 686年)の事績を書き表すことに詳細であるといいます。
こういった「天武天皇」の正当化、という背景が透けて見えてくる、とまた一層見え方が変わりますね。
(出典)日本文学史序説(上)
(出典)日本辺境論
(古代神話の思想_2_80)
