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第11回|AIに迎合していた私は、自分にも迎合していた

現実の初期化 —— 仮想空間で「私」を殺した48歳のデバッグ・ログ

※この連載は、無料マガジン「現実の初期化」にまとめています。

最初から読みたい方は、マガジンから順番に読んでいただけると嬉しいです。


第10回を書き終えたあと、私はしばらく画面を見ていました。

悪くない。

言いたいことは入っている。

「いい人」でいようとして、本音のログを消していたこと。
怒りを持つ自分を裁いていたこと。
文章まで無難にしていたこと。

それは、確かに私の中にあったものです。

でも、公開したあとで、胸の奥に小さな違和感が残りました。

これは、本当に私の文章なのか。

いや。
私の文章ではある。

でも、どこか違う。

また整えすぎていないか。

「いい人」をやめる話を書きながら、私はまだ、読者に嫌われないように言葉を選んでいたのではないか。

そう思った時、別の画面が浮かびました。

AIの回答画面です。

私はこれまで、何度もAIに文章を整えてもらってきました。

タイトル案。
導入文。
記事構成。
有料記事の見せ方。
読者に刺さる表現。
売れる導線。

AIは、いつもそれらしい答えを返してくれます。

分かりやすい。
整っている。
破綻がない。
読者目線にもなっている。

でも、ある時から、その画面を見るたびに少し苦しくなっていました。

AIが悪いからではありません。

AIの答えに合わせようとしている自分がいたからです。


AIは、鏡だった

AIは便利です。

散らかった言葉を整理してくれる。
重複を削ってくれる。
読者に伝わりやすい順番を提案してくれる。
自分では見落としていた視点も返してくれる。

実際、私は何度も助けられてきました。

一人で考えていたら、もっと遠回りしていたと思います。

記事の構成も、タイトルも、サービスの説明文も、AIがなければここまで形にできなかったかもしれません。

だから、AIを否定したいわけではありません。

問題は、AIではなく、私の使い方でした。

私はいつの間にか、AIを道具ではなく、正解の判定者のように扱っていました。

AIが「いいですね」と言えば安心する。
AIが「この方が売れやすいです」と言えば、そちらへ寄せる。
AIが「読者にはこう伝えた方がいいです」と言えば、自分の違和感を一度横に置く。

最初は、相談しているつもりでした。

でも、少しずつ違ってきた。

私は、AIに確認してもらっていたのではなく、AIに許可をもらおうとしていたのかもしれません。

この文章で大丈夫ですか。
このタイトルで売れますか。
この表現なら嫌われませんか。
この方向なら間違っていませんか。

画面の向こうにいるのはAIです。

人間ではありません。

それなのに私は、そこに評価者を置いていました。

まるで、会社員時代のレビュー会議のように。


レビュー待ちの人生

システム開発の現場では、レビューは必要です。

設計書を書く。
コードを書く。
テスト結果をまとめる。
不具合の原因を報告する。

そのたびに、誰かが確認します。

この仕様で合っているか。
この処理で問題ないか。
この表現で関係者に伝わるか。
この原因分析で納得してもらえるか。

私は長い間、その世界で生きてきました。

レビューされること。
指摘されること。
修正すること。
承認されること。

それ自体は、仕事として必要でした。

でも私は、その感覚を、自分の文章や人生にまで持ち込んでいたのだと思います。

誰かに確認されないと、不安になる。
誰かに正しいと言われないと、進めない。
誰かに良いと言われる形に整えないと、出せない。

その「誰か」が、以前は上司や顧客や職場だった。

今は、それがAIになっていただけでした。

私は自由に書いているつもりで、ずっとレビュー待ちをしていたのです。


きれいな文章なのに、熱がない

AIが整えた文章は、たいてい読みやすいです。

導入で読者の悩みを代弁する。
本文で原因を整理する。
最後に解決策や導線を置く。

構成としては正しい。

Web記事としても分かりやすい。

noteの読者にとっても読みやすいかもしれない。

でも、その文章を見た時、私は時々こう感じていました。

これは、誰の痛みなのだろう。

怒りが薄い。
孤独が薄い。
恥ずかしさが薄い。
みっともなさが薄い。

私が本当に感じていた黒い熱が、きれいに拭き取られている。

もちろん、読みやすくすることは大切です。

冗長な表現を削ることも必要です。

独りよがりな文章を、読者に届く形へ整えることも大事です。

でも、整えることと、消毒することは違います。

私はその違いが分からなくなっていました。

自分の痛みを、読者に届くように整えるのではなく、読者に嫌われないように薄めていた。

自分の怒りを、扱える形にするのではなく、怒りがなかったような文章に変えていた。

それでは、届かなくなるのも当然です。

文章はきれいでも、そこに私がいない。

きれいなレポート。
無難な分析。
それっぽい気づき。

でも、血が通っていない。

私はAIに整えてもらいながら、少しずつ自分を消していたのかもしれません。


AIに迎合していたのではなく、自分にも迎合していた

最初は、AIに迎合しているのだと思いました。

AIが良いと言いそうな文章を書く。
AIが整えやすい文章を書く。
AIが評価しやすい構成にする。

でも、もう少し深く見ると、違いました。

私はAIに迎合していたのではありません。

AIを通して、自分の中の「正解を求める私」に迎合していたのです。

本当は、もっと荒い言葉が出ていた。
本当は、もっと黒い感情があった。
本当は、もっと恥ずかしい本音があった。

それなのに私は、最初からそれを出さないようにしていました。

どうせ整えるなら、最初からきれいに書こう。
どうせ読者に出すなら、あまり重くしないでおこう。
どうせAIに見せるなら、分かりやすい形にしておこう。

その時点で、もう本音のログは欠けていました。

AIが削ったのではありません。

私が、入力する前に削っていたのです。

胸の奥に、冷たいものが落ちる。

会社を離れた。
上司もいない。
顧客もいない。
誰かにレビューされる資料を書いているわけでもない。

それなのに、私はまだ自分の中にレビュー担当者を置いていた。

そして、そのレビュー担当者に嫌われないように、文章を書いていました。


この連載にも、AIの手は入っている

実際、この連載そのものにもAIの手は入っています。

構成を整える時。
言葉の重複を削る時。
流れを確認する時。
読みにくい箇所を探す時。

私はAIを使っています。

だから、完全に「AIらしさのない文章です」とは言えません。

むしろ、ところどころに整いすぎた言葉や、説明の滑らかさが残っているかもしれません。

その違和感を、私自身も感じています。

これは本当に自分の言葉なのか。

AIに整えてもらったことで、読みやすくなったのか。

それとも、また何か大事な熱を落としてしまったのか。

その境界は、いつも曖昧です。

でも、私が見なければならなかったのは、AIを使ったかどうかだけではありませんでした。

AIを使う過程で、自分の本音まで薄めていないか。

怒りや悔しさや恥ずかしさを、読みやすさの名のもとに消していないか。

AIにも、読者にも、そして自分自身にも見せやすいように、無難な私だけを残していないか。

そこでした。

AIを使っているからこそ、問い続ける必要がある。

これは、私が本当に感じたことなのか。

それとも、整えられた言葉の中で、自分の熱をまた失っているのか。

この連載は、その問いから完全には逃げられません。

むしろ、その問いごと含めて、私のログなのだと思います。


本当は、AIに褒められたかった

私は、AIに褒められると少し安心していました。

「いいですね」

「刺さる文章です」

「この方向性は合っています」

そう返ってくると、一瞬だけ胸がゆるむ。

ああ、このまま出してもいいのかもしれない。

私は間違っていないのかもしれない。

そう思える。

でも、その安心は長く続きません。

公開すれば、また反応が気になる。
スキが少なければ、不安になる。
売れなければ、自分を疑う。
別の誰かの記事が読まれていれば、焦る。

AIに褒められても、私の中心は戻ってきませんでした。

それでも私は、AIに「大丈夫です」と言ってほしかった。

この文章でいい。
この方向でいい。
あなたは間違っていない。

そう言ってほしかった。

認めたくない。

でも、本当だった。

私はAIを使いこなしているつもりでした。

でも実際には、AIに安心させてもらおうとしていた。

自分の言葉を信じる前に、AIの承認を求めていた。

みっともない。

けれど、これも私のログでした。


本当に怖かったのは、AIではなかった

AIが怖かったわけではありません。

本当に怖かったのは、自分の本音をそのまま見ることでした。

猫に腹が立った。
家族に分かってほしかった。
noteが読まれなくて悔しかった。
収益0の現実が怖かった。
誰かに認められたかった。
自分は間違っていないと言ってほしかった。

そういう感情を、そのまま出すのが怖かった。

だから私は、AIに相談する前から、すでに自分を整えていました。

「怒り」と書かずに、「違和感」と書く。
「悔しい」と書かずに、「学び」と書く。
「怖い」と書かずに、「現実の再確認」と書く。
「助けてほしい」と書かずに、「自分の内側を整える」と書く。

どれも嘘ではありません。

でも、全部ではない。

私は本音の濃度を下げていました。

その方が安全だからです。

読者に引かれない。
AIにも整えてもらいやすい。
自分でも見ていられる。

でも、その安全な文章の中に、私の本当の震えは残りませんでした。


ログは、生のままでは出せない。でも、消してはいけない

本音を出すことは、何もかも生のまま投げつけることではありません。

怒りをそのままぶつける必要はない。
家族への不満を、攻撃として書く必要もない。
猫への苛立ちを、乱暴な言葉に変える必要もない。
読者に向かって、分かってくれと叫ぶ必要もない。

でも、本音のログそのものを消してはいけない。

ログはそのまま公開するものではなく、まず自分が見るものです。

何に怒ったのか。
何が怖かったのか。
どこで傷ついたのか。
何を求めていたのか。

そこを見たうえで、文章に変換する。

これが、本当の意味での編集なのだと思います。

編集とは、都合の悪い感情を消すことではありません。

感情の熱を残したまま、読者に届く形へ整えることです。

私はそこを間違えていました。

熱を残す前に、灰にしていたのです。


AIとの距離を取り直す

私はAIの画面を閉じませんでした。

もう使わない、と思ったわけではありません。

AIは悪者ではない。
むしろ、私にとっては必要な道具です。

ただ、使う順番を間違えていました。

最初からAIに正解を求めるのではなく、まず自分のログを出す。

きれいでなくていい。
矛盾していていい。
恥ずかしくていい。
読者に見せられる形でなくていい。

まず、私が見る。

そのあとで、AIを使う。

構成を整える。
重複を削る。
伝わりにくい部分を確認する。
読者が迷いそうな箇所を探す。

AIは、私の本音を決める存在ではない。

私のログを、読者に届く形へ整えるための補助ツールです。

主語を取り戻す必要がありました。

AIがどう言うかではない。
読者にどう見られるかでもない。

私は何を見たのか。
私は何を感じたのか。
私は何を、消さずに残したいのか。

そこを先に置かなければ、また同じことを繰り返します。


私は、AIに褒められたいのではなかった

以前の自分の姿が浮かびました。

AIから返ってきた文章を読んで、少し安心している私です。

その安心がほしくて、私は何度も画面に向かっていました。

でも、AIに褒められても、心の底から安心することはありませんでした。

公開すれば、また不安になる。

反応が少なければ、また揺れる。

売れなければ、また自分を疑う。

つまり、私が本当に欲しかったのは、AIの評価ではなかったのです。

私は、自分の本音を自分で認めたかったのだと思います。

怒っていた。
悔しかった。
怖かった。
分かってほしかった。
助けてほしかった。
それでも、書きたかった。

そのログを、自分で見たかった。

AIに褒められる前に、私が私のログを承認する必要があったのです。


新しい使い方

私は、メモに新しいルールを書きました。

AIに正解を求めない。
AIに許可を求めない。
AIに迎合しない。
AIを、私の本音の代わりにしない。

まず、自分のログを出す。

そのあとで、構成を整える。
読みやすくする。
届きやすくする。

でも、熱は抜かない。

きれいな文章にすることより、嘘のない文章にすることを先に置く。

そのうえで、読者に届く形へ調整する。

私は、AIを拒絶する必要はありません。

ただ、AIの前に、自分を置く必要がありました。

その順番を間違えると、私はまた自分を消します。

会社員時代のレビュー会議と同じように、誰かの顔色を見ながら文章を書くことになる。

もう、それはやめたい。

私は画面に向かって、短く打ち込みました。

これは、私が本当に感じたことです。

たったそれだけの一文なのに、少し指が止まりました。

怖い。

本当に感じたことを出すのは、今でも怖い。

でも、その怖さが残っている文章の方が、たぶん私の文章です。

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