第16回|クレーマー席から降りた瞬間、現実の見え方が変わった
現実の初期化 —— 仮想空間で「私」を殺した48歳のデバッグ・ログ
※この連載は、無料マガジン「現実の初期化」にまとめています。
最初から読みたい方は、マガジンから順番に読んでいただけると嬉しいです。
私は、心の中でずっとカウンター席に座っていたのかもしれません。
目の前には、現実という店員が立っています。
私はそこに座り、何度も同じことを言っていました。
なぜ、私をこんな気分にさせるのか。
なぜ、もっと分かってくれないのか。
なぜ、望むように動いてくれないのか。
なぜ、私ばかりがこんな思いをするのか。
そのクレームの相手は、一人ではありません。
家族。
猫。
note。
AI。
読者。
社会。
お金。
現実そのもの。
相手を変えながら、私はずっと同じ席に座っていました。
言葉に出して怒鳴っていたわけではありません。
でも、内側ではかなり強い声で言っていました。
もっと優しくしてほしい。
もっと認めてほしい。
もっと読んでほしい。
もっと売れてほしい。
もっと分かってほしい。
もっと私の苦しさに気づいてほしい。
その願い自体が悪いわけではありません。
けれど、気づけば私は、現実が自分の望む対応をしてくれるまで、ずっとカウンターから動かない人になっていました。
クレーマー席。
そう名づけた瞬間、少し嫌な汗が出ました。
私は、現実に対応を求め続けていた
クレーマーという言葉は、あまり気分のいいものではありません。
できれば自分には使いたくありません。
でも、内側をよく見ると、それに近いものがありました。
猫に対して。
威嚇しないでほしい。
安心して通らせてほしい。
自分を拒絶しないでほしい。
家族に対して。
もっと分かってほしい。
もっと気遣ってほしい。
もっと自分の痛みに気づいてほしい。
noteに対して。
もっと読まれてほしい。
もっと反応がほしい。
もっと売れてほしい。
自分の文章に価値があると証明してほしい。
AIに対して。
正解を出してほしい。
間違っていないと言ってほしい。
売れる道筋を示してほしい。
この文章で大丈夫だと保証してほしい。
社会に対して。
もっと生きやすくあってほしい。
自分のような人間が傷つかずに済む場所であってほしい。
お金や評価で人を測らないでほしい。
どれも、切実でした。
だからこそ、私はその要求を手放せませんでした。
でも、要求し続けている間、私はずっと待つ側にいました。
相手が変わるのを待つ。
現実が応じるのを待つ。
数字が動くのを待つ。
誰かが分かってくれるのを待つ。
私は、自分の人生の操作席にいるつもりで、実際にはカウンター席で苦情を言い続けていたのです。
被害者でいると、世界は店員になる
傷ついた時、人は被害者になります。
それ自体は自然なことです。
嫌な言葉を受けた。
冷たい態度を取られた。
思うようにいかなかった。
頑張っても結果が出なかった。
その瞬間に、痛みが出るのは当然です。
私も何度も傷つきました。
猫に威嚇されて腹が立った。
家族の言葉に沈んだ。
noteが読まれず悔しかった。
収益0の現実が怖かった。
その痛みは、なかったことにできません。
ただ、被害者の席に座り続けると、世界の見え方が変わります。
家族は、私を満たしてくれない店員になる。
猫は、私に不快な対応をする店員になる。
noteは、結果を出してくれない店員になる。
AIは、正解を保証してくれない店員になる。
社会は、私の生きづらさに対応してくれない店員になる。
そして私は、その前で言い続けます。
対応が悪い。
説明が足りない。
もっと何とかしてほしい。
こんなはずではない。
私はこんなに困っている。
もちろん、現実には不当なこともあります。
我慢しなくていいこともあります。
距離を取るべき相手もいます。
でも、何もかもを「現実が私に適切な対応をしない」という形で見ていると、私はずっと受け身になります。
自分の手元にある操作権が見えなくなる。
それが、クレーマー席の怖さでした。
クレーマー席は、少しだけ気持ちいい
正直に言えば、クレーマー席にはある種の気持ちよさがあります。
なぜなら、そこに座っている間は、自分は正しい側でいられるからです。
私は傷つけられた。
私は分かってもらえなかった。
私は不当に扱われた。
私はこれだけ頑張っているのに、現実が応えてくれない。
そう言っている間、私は自分の痛みを正当化できます。
もちろん、痛みがあることは事実です。
でも、そこに座り続けると、自分の中の別の部分を見なくて済んでしまいます。
自分が何に期待していたのか。
どこで相手に主導権を渡していたのか。
どの数字に自分の価値を預けていたのか。
何を怖がって、自分から動かずにいたのか。
そこを見ずに済む。
だから、クレーマー席はつらいのに手放しにくいのです。
苦しい。
でも、そこに座っていれば、自分は被害者でいられる。
自分で選び直さなくて済む。
私は、この席にずっと座っていたのだと思います。
ロスサントスの私は、究極のクレーマーだった
ロスサントスで暴れていた時の私は、今思えば究極のクレーマーでした。
街が思い通りにならない。
NPCが邪魔をする。
車がぶつかる。
警察が追ってくる。
だから撃つ。
奪う。
壊す。
逃げる。
私は、仮想空間のすべてに文句を言っていました。
なぜ道を空けない。
なぜ邪魔をする。
なぜこちらを攻撃する。
なぜ思い通りに動かない。
ゲームの中では、それを力で処理できます。
不満を銃に変える。
苛立ちをアクセルに変える。
怒りを爆発に変える。
でも、それは解決ではありません。
ただ、クレームを暴力的な操作に変換していただけです。
現実ではそれができません。
猫を撃てない。
家族を黙らせられない。
noteの数字を脅せない。
AIに責任を取らせられない。
社会を一晩で変えられない。
だから私は苦しくなっていました。
ロスサントスでは、クレーマーのままでも街を走れる。
でも、現実では、クレーマー席に座ったままでは前に進めない。
その違いが、ようやく見えてきました。
降りるとは、負けを認めることではない
クレーマー席から降りる。
そう聞くと、まるで自分の負けを認めるように感じました。
傷ついたのは自分なのに。
我慢してきたのは自分なのに。
分かってもらえなかったのは自分なのに。
なぜ、自分が席を立たなければならないのか。
そう思います。
実際、私はそう思っていました。
でも、クレーマー席から降りることは、相手を正当化することではありません。
傷ついた自分を否定することでもありません。
「もう文句を言うな」という話でもありません。
ただ、自分の人生の操作権を、カウンターの向こうに置きっぱなしにしないということです。
家族が変わったら、私は楽になる。
猫が威嚇しなくなったら、私は安心できる。
noteが売れたら、私は自分を認められる。
AIが正解を出したら、私は進める。
社会が優しくなったら、私は生きやすくなる。
そうやって、私はずっと外側の対応待ちをしていました。
でも、それではいつまでも動けません。
外側が変わるまで、私は保留になる。
クレーマー席から降りるとは、その保留状態をやめることでした。
私に戻せるものは何か
席を立つと、最初に出てきたのは無力感でした。
では、私は何ができるのか。
猫の反応は変えられない。
家族の言葉も自由にはできない。
noteの数字も操作できない。
読者の反応も決められない。
AIの返答も、完全には制御できない。
社会の仕組みも、今すぐには変えられない。
思ったより、変えられないものが多い。
それを認めるのは、少し怖いことでした。
でも、同時に、戻せるものもありました。
猫に威嚇された時、自分の反応を見ること。
家族の一言を、人生全体の判決にしないこと。
noteの数字をログとして読むこと。
AIの答えを、自分の主語で選び直すこと。
怒りが出た時、相手をすぐ敵キャラにしないこと。
書くことを、数字だけに預けないこと。
外側はすぐには変えられない。
でも、外側に反応した後の処理は、少しずつ変えられる。
ここに、自分の操作権がありました。
それは、世界を一瞬で変える力ではありません。
でも、現実に飲み込まれないための、最初の小さな操作でした。
文句の奥にある願いを見る
クレーマー席に座っている時、表に出ているのは文句です。
分かってくれない。
読まれない。
売れない。
報われない。
冷たい。
不公平だ。
でも、その奥には必ず願いがありました。
分かってほしい。
届いてほしい。
安心したい。
認められたい。
ここにいていいと思いたい。
自分の言葉に価値があると信じたい。
文句は、願いの外側にできた硬い殻だったのかもしれません。
願いをそのまま出すのは怖い。
「分かってほしい」と言うのは、弱い。
「寂しい」と認めるのは、みっともない。
「認められたい」と書くのは、恥ずかしい。
「助けてほしい」と思うのは、負けた気がする。
だから、私はそれを文句に変えていました。
なぜ分かってくれない。
なぜ読まれない。
なぜ売れない。
なぜ現実は応えてくれない。
怒りの形にした方が、弱さを見なくて済むからです。
でも、本当に処理するべきなのは文句ではなく、その奥にある願いでした。
願いを見ない限り、私は何度でも同じクレームを繰り返します。
クレーマー席から、制作者席へ
では、席を降りたあと、どこへ行くのか。
そこで浮かんだのが、制作者席でした。
現実に文句を言うだけの席ではなく、
現実に何を出力するかを決める席。
noteに何を書くのか。
どんな言葉を残すのか。
どの反応をログとして読むのか。
どの感情を文章に変えるのか。
どの読者に向けて送信するのか。
私は、現実をすべて操作することはできません。
でも、自分が何を出力するかは選べる。
怒りをそのままぶつけるのか。
何もなかったことにするのか。
ログとして見るのか。
文章に変換するのか。
それとも、いったん画面を閉じて休むのか。
そこには、まだ選択肢がありました。
クレーマー席では、私は外側の対応を待つだけです。
でも、制作者席では、自分の出力を選びます。
この違いは大きい。
現実が理想通りでなくても、
私はその現実から何を生成するかは選べる。
それが、ほんの少しだけ希望に見えました。
それでも、文句は出る
もちろん、クレーマー席から一度降りたからといって、もう二度と文句を言わないわけではありません。
たぶん、これからも座ります。
猫に威嚇されれば、また腹が立つ。
家族の言葉に傷つけば、また分かってほしいと思う。
noteが読まれなければ、また沈む。
収益0の画面を見れば、また現実に文句を言いたくなる。
私は聖人ではありません。
クレーマー席を完全に撤去できたわけではない。
ただ、そこが自分の固定席ではないと分かりました。
座ってしまってもいい。
でも、気づいたら立てばいい。
今、自分は現実に何を要求しているのか。
その要求の奥に、どんな願いがあるのか。
外側に預けている操作権は何か。
自分に戻せる処理は何か。
そう問い直せれば、少しずつ戻ってこられる。
大事なのは、二度と座らないことではありません。
座っていることに気づくことです。
新しい仕様
私は、メモに新しい仕様を書きました。
現実にクレームを入れ続けない。
文句が出たら、その奥の願いを見る。
外側の対応待ちで、自分の人生を保留にしない。
変えられないものと、戻せる操作権を分ける。
クレーマー席に座っていることに気づいたら、制作者席へ戻る。
そして、もう一行加えました。
現実に文句を言うより、現実から何を生成するかを選ぶ。
これは、きれいごとではありません。
現実は、厳しいです。
お金の不安もある。
家族との距離もある。
猫への反応も残っている。
note の数字も、簡単には動かない。
でも、そのすべてに文句を言い続けるだけでは、私は何も作れません。
怒りも、寂しさも、悔しさも、ログとして残す。
そして、そこから文章を生成する。
それが、今の私にできる処理でした。
私はまだ、クレーマー席を完全に離れられたわけではありません。
でも、少なくともその席に座っていたことには気づきました。
気づいたなら、立てる。
何度でも座ってしまうとしても、何度でも立てばいい。
私はそう思いながら、もう一度メモを見ました。
現実に文句を言うより、現実から何を生成するかを選ぶ。
その一文の下で、まだ言葉になっていない感覚が動いていました。
では、私は何を基準に出力を選ぶのか。
怒りでもない。
被害者意識でもない。
正しさでもない。
誰かに認められるための言葉でもない。
クレーマー席から降り、制作者席へ戻った時、そこに必要なのは、別の操作盤でした。
それはたぶん、心地よさでした。
ただし、ここで言う心地よさは、現実から逃げるためのソファではありません。
何もしないための言い訳でもありません。
嫌なものを見ないための甘い避難所でもありません。
自分がどの現実を選び、どの言葉を出力し、どの方向へ少しだけハンドルを切るのか。
そのための、内側のコンソールです。
私はまだ、その使い方をよく分かっていませんでした。
けれど、少なくともひとつだけ分かりました。
現実に文句を言い続ける席からは、何も生成できない。
何かを作るには、自分の手元に操作権を戻す必要がある。
そして、その操作権をどこへ向けるのかを決める時、私はもう一度、自分の心地よさを見直す必要があるのだと思いました。

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