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短編:求愛のぬめり

投稿日:2026/8/21、更新日:2026/8/21


サマリ
  • こんな方にオススメ:恋愛に難しさを感じている方、愛されても冷めてしまう方

  • 記事で伝えたいこと:何かを愛することはできても、愛し合うことは難しい

  • 約5分で読めます!


どうもこんにちは。ご訪問ありがとう。
毎日がリスキリング日和、リスキル坊やです。


水槽の中の静寂

骨波田 蓮司(ほねはだ れんじ)の部屋には、七つの水槽がある。ヤドクガエル、ツノガエル、モリアオガエル──種類はばらばらだが、共通しているのは、どれも彼が誰にも紹介したことのない同居人だということだ。


三十四歳、独身。会社では課長補佐という、責任だけ重くて肩書きの軽い役職に就いている。恋人はいたことがある。何人か。だが、いつも同じ結末を迎えた。相手が本気で自分を好きになった瞬間、蓮司の中で何かがぬるりと反転する。


好きだと言われるほど、冷める。


彼はそれを、蛙化現象だと自嘲していた。世間で語られる意味とは逆だ。本来は、相手が自分に好意を向けた途端に幻滅する側を指す言葉らしいが、蓮司の場合はもっと単純だった。愛されると、気持ち悪くなる。理由は自分でも分からない。ただ、水槽の中のカエルたちを眺めている時だけ、彼は安心できた。彼らは何も求めてこない。餌をやれば食べ、日が暮れれば鳴く。それだけの、清潔な距離感。


その夜、マッチングアプリに新しい通知が届いた。雨宮 業美(あまみや ごうみ)、二十九歳。プロフィール写真は控えめな微笑みで、自己紹介文には「誠実な人と、ゆっくり信頼を築きたいです」とあった。ありふれた文章だった。だが蓮司は、その「ゆっくり」という言葉に、なぜか惹かれた。


自分ならきっと、この人には冷めない。そんな根拠のない予感を抱きながら、彼は「いいね」を押した。


求愛のぬめり

業美は、蓮司が思っていたよりずっと早く、心を開いてきた。三度目のデートで泣きながら過去の話をし、五度目には「あなたに出会えてよかった」と言った。彼女の愛情表現は、まっすぐで、湿度が高かった。


最初の数週間、蓮司はその湿度を心地よいと感じていた。だが、ある夜、業美が彼の部屋を訪れ、水槽を覗き込んでこう言ったのだ。「気持ち悪いけど、あなたが好きなものだから、好きになろうと思う」


その瞬間、蓮司の内側で、何かが裏返った。


好きなものを、好きになろうとしてくれる。それは優しさのはずだった。なのに彼は、業美の善意そのものに嫌悪を覚えた。彼女の指先が水槽のガラスを撫でる仕草、彼女の声のトーン、彼女が自分を見る目──すべてが、急速に粘着質なものへと変質していく。


まるで、カエルが呑み込んだ獲物を消化しきれず、胃袋ごと口から押し出して、表面を舐めて洗い、また元に戻すあの生理現象のように。業美の愛情を一度丸呑みにした蓮司の胃は、今、裏返って外気に晒されていた。誠実であればあるほど、気持ち悪い。愛されればされるほど、逃げたくなる。


彼は自分がとうとう、修復不可能な壊れ方をしているのだと悟った。


跳ねられない

蓮司は業美から距離を置き始めた。既読を三日つけない。デートの誘いに「忙しい」とだけ返す。彼女は気づいていた。気づいていて、なお縋った。


「私、何か悪いことした?直すから言って」


その言葉が、蓮司にとってはとどめだった。悪いのはお前じゃない、悪いのは俺だ──そう思いながらも、彼はその真実を告げる代わりに、もっと残酷な方法を選んだ。


「業美ってさ、カエルに似てるよね。愛想はいいのに、触ると冷たくて、ぬめってる」


言った瞬間、業美の顔から表情が消えた。彼女は何も言わず、鞄を持って部屋を出ていった。玄関のドアが閉まる音がやけに大きく響き、その後には、水槽のポンプが立てる泡の音だけが残った。


蓮司は、自分が最低の人間であることを知っていた。知っていて、止められなかった。彼にとって業美は、もはや人間ではなく、逃げ場のない檻の中の生き物に見えていたのだ。愛されることは、彼にとって捕獲されることと同義だった。


数日後、共通の友人から連絡が来た。業美が会社を無断欠勤し、実家にも戻っていないという。蓮司は、自分の中の何かが軋む音を聞いた気がしたが、その音に名前をつけることはできなかった。


変わらぬ皮膚

一週間後、業美から一通のメッセージが届いた。「もう大丈夫です。ちゃんと生きてます」。それだけだった。安否確認への返信としては十分だったが、蓮司の罪悪感を軽くするには程遠かった。


彼は初めて、自分の水槽を見て「気持ち悪い」と感じた。餌を食べ続けるカエルたちの喉の動き、皮膚の湿り気、瞬きをしない目。業美が最初に感じたであろう違和感を、蓮司自身が今、遅れて味わっていた。


謝りたい、と思った。だが謝罪の言葉を打っては消し、打っては消しを繰り返すうちに、彼は気づいてしまった。自分が謝りたいのは業美のためではなく、自分が「ひどい男」のまま終わることに耐えられないからだと。


その欺瞞に気づいた瞬間、蓮司は送信ボタンを押せなくなった。謝罪すら、彼にとっては自己保身の道具でしかなかった。


数ヶ月後、業美が別の男性と婚約したという噂を人づてに聞いた。蓮司は安堵し、そして同時に、その安堵にすら嫌悪を覚えた。彼は結局、誰かの幸福を願うことすら、まっすぐにはできない人間だった。


水槽の中の静寂、再び

蓮司の部屋には、今も七つの水槽がある。いや、正確には八つに増えた。新しいマッチングアプリのプロフィールには、以前と同じように「いいね」が届き、彼は同じように、少しだけ心を動かされ、同じように、相手が本気になった瞬間に冷めていくだろう。


彼はもう、それを直そうとは思わなかった。直せるとも思っていなかった。カエルは変温動物で、外気温に応じて体温を変える。蓮司もまた、他人の体温に晒されるたびに、自分の輪郭を失っていく生き物だった。


ある夜、水槽の中のツノガエルが、口いっぱいに餌のコオロギを頬張ったまま、飲み込むこともできず、吐き出すこともできずに、じっと固まっていた。蓮司はそれを、しばらく黙って眺めていた。


助けようとは、思わなかった。


窓の外では、名前も知らない誰かが、今夜も誰かに恋をしているのだろう。蓮司はカーテンを閉め、水槽の照明だけを残して、部屋の明かりを落とした。


正しい知識とマインドで、豊かな人生を。
それでは、今日も楽しんでいきましょう。

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