【GGST】レーティングが生む「二つの恐怖」
ある悲痛なポスト
先日、Xでとあるポストを目撃し、切ない気持ちになった。そのポストは、ひと言でまとめれば「GGSTに挫折した」という内容だった。
もう何をどう頑張ればいいのかわからない。それでも、ランクマをやらないと弱くなると思って続けてきたけど、もう辛い。頑張れない。「頑張って」という励ましすら辛い。
原文そのままではないが、そんな内容だ。
私も、同じような感覚は少なからず持っている。正直、「もうしんどいな」と折れかけたことも何度かある。それでも半ば義務感で続けているうちにモチベーションが回復し、また続ける……その繰り返しで、なんとか今も続いている。
所詮、ゲームは娯楽だ。プロゲーマーでもない限り、ゲームが下手でも生きていく上で困ることはない。にもかかわらず、なぜ我々格ゲーマーは、辛さを抱えながらも謎の義務感に駆られ、今日もランクマの沼に沈むのか。
今回は、そのあたりについて少し考えてみた。
変わってしまった「将棋」の世界
私には、ゲーム以外の趣味として将棋がある。
将棋を始めたのは小学生の頃だ。一度は高校時代を最後に離れたが、40歳を過ぎたあたりで再び戻ってきた。
子供の頃の将棋は、ただただ楽しかった。負けて悔しい思いをすることはもちろんあったが、それでも将棋そのものの楽しさは変わらなかった。高校を最後に将棋から離れたのも、他にもっと興味を惹かれるものに出会ったからであり、将棋が嫌になったわけではない。
40歳を過ぎて再び戻ってきたのにも、特別な理由はなかった。ただ、「ゲーム以外にも何か趣味があった方がいいかな」と思い、手を出したのが昔遊んでいた将棋だった。それだけの話だ。
ただ、数十年ぶりに戻ってきた将棋の世界は、子供の頃のように「楽しいだけ」の世界ではなかった。
辛い。しんどい。冒頭のXのポストのような思いを、何度も味わった。
あのポストを見て、このことを思い出した。子供の頃は楽しいだけだったのに、なぜこうなってしまったのか。
色々考えてみた結果、一つの仮説が浮かんできた。
レーティングだ。
こいつが、何かと悪さをしている。そして、こいつがもたらす「二つの恐怖」が、将棋をしんどいものにしていた。
そして、格ゲーにもほぼ同じ構造があるのだ。
数字の無情
あなたは、ランクマを「怖い」と思ったことはないだろうか。
少なくとも私はある。ランクポイント(レーティング)が下がるのが嫌で、ランクマに潜れない、潜りたくないと思ったことは、一度や二度ではない。クラス(闘神やダイヤXXなど)の降格が視界に入っている状態なら、なおさら怖くなる。
このレーティングに代表される数値や、その値によって区分されるクラス分け。これが曲者なのだ。
レーティングは、勝てば上がり、負ければ下がる。極めてシンプルな仕組みだ。そして、シンプルだからこそ、プレイヤーの現在地を容赦なく突きつけてくる。
「お前の位置はここだ」と。
格ゲーも将棋も、積み重ねがものを言う世界だ。時間やお金をかけ、必死に努力してきた積み重ねを、レーティングシステムは「数字の低下」という形で、いとも簡単に否定してくるように見える。
レーティングという数値によって、「努力が無駄になった感覚」を突きつけられる。これが「第一の恐怖」だ。
もちろん、レーティングそれ自体は、別に努力を否定しているわけではない。単に勝敗の結果から現在位置を示しているだけの、ただの数値でしかない。レーティングが下がったからといって、「努力が無駄だった」という事実が示されるわけではない。そう感じるのは、あくまで錯覚だ。
冷静に考えれば、格ゲーも将棋も、努力が完全に無駄になることは少ない。成果の大小はあれど、歩みが遅くても、確実にスキルは上がっているし、できることも増えているはずなのだ。
だが、格ゲーや将棋には、その地道な進歩が結果として見えにくいという問題がある。
ロールプレイングゲームと比較するとわかりやすい。RPGでは、プレイ時間に応じて経験値や所持金といった形で成果が可視化される。「確実に前へ進んでいる」と実感しやすい。
しかし、格ゲーや将棋はそうではない。積み重ねによってできることは増えているし、スキルも確実に上がっているはずだ。だが、そうした地道な進歩を、レーティングは一切反映しない。
RPGなら、成果は段階的に数値として積み上がっていく。だが格ゲーや将棋は、「勝ったか負けたか」だけだ。結果の分解能があまりにも粗い。
だからこそ、「負けてレーティングが下がる」という結果だけを突きつけられ、それまでの積み重ねまで否定されたような気分になる。
時間やお金といったコストを注ぎ込んだ努力が、「負け」という最終結果だけで全否定されたように感じるのだ(繰り返すが、これは錯覚である)。
これに恐怖を感じない方が、むしろ不自然ではないだろうか。
「悔しさ」と「恐怖」は違う
子供の頃の将棋の世界には、レーティングなど存在しなかった。客観的なランク付けの指標がなかったあの時代は、ある意味では幸せだったのかもしれない。
新しい手筋を覚え、実戦で使えれば、たとえ負けても手応えはあった。気のいい大人たちが成長を汲み取って褒めてくれることもあった。
勝ち負け自体はあっても、それによって示される「現在位置」が曖昧だったからこそ、負けの中にも成長を実感できたのだと思う。
格ゲーも、ゲーセン全盛期は似たような空気だったのではないだろうか。
だが、レーティングシステムは容赦がない。負けて落ちた現在位置を、数字として突きつけてくる。
「あなたのレーティングは下がりました。試合内容? 知りませんね」
そういう評価システムだ。
結果だけを見て、過程を一切見ない。
私を含め、会社員として働いている人間なら、この恐怖と虚無感を多少なりとも実感できるのではないだろうか。
子供の頃にも、負けて「悔しい」はあった。だが、「怖い」はなかった。
「悔しさ」は、さらなる努力の原動力になり得る。しかし、「恐怖」は違う。ただ対戦そのものが怖くなるだけだ。
第二の恐怖
「負け」のラベルひとつで、「積み重ねたものを否定される」。
その恐怖に続いて、「第二の恐怖」が顔を出す。
それは、「積み重ねたものが失われる」恐怖だ。
負けが怖いからとゲームから遠ざかっていると、それまで積み上げてきたスキルが鈍り、さらに弱くなるのではないか。
そんな恐怖である。
負けるのが怖い。それでも、今まで積み重ねたものが鈍っていくという別の恐怖もある。
だからこそ、「負ける恐怖」に抗ってでも、ランクマをやらなければならないという破滅的な義務感につながるのだ。
かくして、今日も我々はランクマの沼に沈む。そして、二つの恐怖のスパイラルに耐えきれなくなり、心がポッキリ折れた者から退場していく。
恐怖とどう向き合うのか
では、どうやってこの恐怖と向き合えばいいのか。
理想を言えば、評価軸をレーティングではなく、自分の中に持つことだろう。
だが、それが現実には困難であることを、この記事をここまで読んでくれた人なら痛感しているはずだ。
「勝ち負けを目標にするな。何ができたかを目標にしろ」
よく言われる話だ。しかし同時に、「それができれば苦労しない」と思った人も多いだろう。
「レーティング下降=弱くなった」は事実ではない。だが、どうしてもそういうイメージは付きまとう。
しかも、その数値は公開される。
周囲に「弱くなった」と思われたくない。自分自身でも、「弱くなった」と認めたくない。
周囲はどんどん上へ行っているのに、自分だけは足踏み&後退することへのもどかしさ、腹立たしさ。
レーティングの呪縛から逃れるのは、言うほど簡単ではない。悟りでも開いて最終解脱しない限り、難しいのではないかと思う。
ここまで期待して読んでくださった方には申し訳ないが、この恐怖への向き合い方について、残念ながら私も答えを持っていない。もしあるなら、むしろ私が教えてほしいくらいだ。
ただ、一つだけ言うなら、自分の中の評価軸はやはり持った方がいい。
勝ち負けより重視すべき課題を定めていれば、負けたときの虚無感は多少なりとも和らぐ。とはいえ、完全にゼロにするのは難しい。
おそらく、この恐怖が消えることはない。
それでも、その恐怖に抗いながら、「今日はこんなことができた」という小さな進歩を、自分の中に積み重ねていくしかないのかもしれない。
