【短編小説】『泥を流した、その先に』ー中国産うなぎの向こう側ー後編
後編:泥を流した、その先に

「まず、水から見てもらいます」
陳さんは、壁に掲示された記録表の前に立った。管理された地下水を使い、毎日、池の状態を確かめているという。表には、細かい数字がびっしりと並んでいた。
「数字が少しでも変われば、その日のうちに原因を調べます。水が正直なうちに、です」
次に見せてくれたのは、一枚の写真だった。
作業員たちが長靴を履き、腰まで泥に浸かって、水を抜いた池の底をさらっている。照りつける日差しの下、顔も腕も泥だらけだった。
「時期を決めて水を抜き、底を乾かします。夏は地獄です。昔は私も、毎日この中にいました」
陳さんは笑った。
「家に帰ると、娘に『お父さん、今日も泥の匂いがする』と言われました」
「娘さんは、あのときお腹にいたお子さんですか」
「そうです。今は大学で、食品品質・安全学科を専攻しています」
拓海は思わず陳さんの顔を見た。
陳さんは、少し照れたように続けた。
「小さい頃から、私たちが信用を取り戻そうとする姿を見ていました。将来は、自分も食の安全を支える仕事がしたいそうです」
拓海は、写真の中で泥にまみれている若い陳さんと、まだ見ぬ娘の姿を重ねた。
失った信用を取り戻す仕事が、次の世代の進路にまでつながっている。
検査室の奥には、複数の分析機器が並んでいた。
研究員の一人が、細いスポイトで透明な液体を容器へ移している。その動きには、わずかな乱れもなかった。

陳さんは、棚から一冊の記録簿を取り出した。
開かれた紙面には、池の番号から担当者の名前まで、一つ一つ手書きで書き込まれていた。同じ棚に、同じ厚さの記録簿が、何十冊も並んでいる。
「何か問題が起きたら、この記録をたどって、どの池の、いつの、誰の仕事かまで調べられるようにしてあります」
「ここまで記録するんですね」
「信用は、笑顔では戻りませんから」
陳さんは、それだけ言った。
検査室を出ると、夕方の光が池の水面に伸びていた。
「日本では、安いことが不安の理由になるそうですね」
陳さんは、少しだけ笑った。
「ここでは、土地と池の広さが、そのまま値段になっているだけです。粗末に作っているから安いのではありません」
それから、視線を池に落とした。
「もちろん、すべての養殖場が同じだとは言いません。だから私たちは、自分たちの仕事を見てもらうしかない」
しばらく、水の音だけが聞こえた。
「正直に言うと、これで十分なのか、今でも分かりません」
陳さんの声が、少し低くなった。
「どれだけ記録しても、信用というのは、相手の中にあるものですから」
拓海は、返事ができなかった。
頭の中で、東京の会議室の光景がよぎった。中国産の話題が出るたび、誰かが苦笑いをして、話はそこで終わる。理由を聞く者はいない。聞く必要がない、と全員が思っている。
自分も、その一人だった。
何も知らないまま、疑うことだけは簡単だった。
出張の最後の日、陳さんは養殖場の食堂で、うなぎを焼いてくれた。

炭火の上で、脂が小さな音を立てる。タレが熱で焦げ、甘く香ばしい匂いが煙とともに立ち上った。
「日本の焼き方を勉強したんです。最初は何度も失敗しました。娘には、硬いと言われました」
「娘さん、厳しいですね」
「検査を勉強する人ですから」
陳さんが笑い、拓海もつられて笑った。
拓海は箸で肉厚な身を割り、口に運んだ。ふっくらとした身がほどけ、脂の旨味と炭火の香ばしさが広がった。
拓海が勝手に想像していた泥臭さはなかった。

「……おいしいです。本当に、おいしいです」
陳さんは目を細めた。
「よかった」
しばらく黙ったあと、少し潤んだ目で拓海を見た。
「日本に帰ったら、伝えてください。私たちが完璧だとは言いません。食べ物に、絶対という言葉は使えませんから。でも、昔の失敗から逃げずに、安心して選んでもらうための努力を続けている。そのことは伝えてほしいです」
窓の外では、夕日が池の水面を赤く染めていた。
帰国した拓海は、担当するスーパーのうなぎ売り場に立っていた。
一人の客が、中国産のパックを手に取り、裏返して表示を確認し、「中国産」の文字を見た瞬間、そっと棚へ戻した。

以前の拓海なら、その行動を当然だと思ったかもしれない。
しかし今は、そのパックの向こうにあるものが見えた。
拓海は用意していた白いPOPを手に取り、太いマジックで書いた。
価格の向こうまで、確かめました。
水も、育て方も、検査も。
知って選べる、中国産です。
その下に、小さく一行を書き加えた。
まずは一度、味で確かめてください。
POPを棚に置き、拓海はしばらくその場に立っていた。
このPOPで、何かが変わるのかは分からない。一枚の紙が、何十年もの誤解を解けるとは、拓海自身も思っていなかった。
それでも、知らないまま棚に戻されていくパックを見るよりは、ずっといいと思った。
拓海は、売り場に掲げたPOPを見上げた。
泥を流した、その先にあるものを。
それが、どれだけの人に届くかは、まだ分からない。
【完】
あとがき
この物語はフィクションです。陳さんも、拓海も、この養殖場も実在しません。ただ、書き始めたきっかけは、私自身の偏見でした。
中国産のうなぎは、なんとなく不安。安いものには、安いだけの理由がある。根拠を確かめたこともないのに、私はずっとそう思っていました。
ある日、何気なくテレビを見ていたら、うなぎの番組が流れていました。そのとき、ふと疑問が浮かんだんです。なぜ日本のうなぎは高くて、中国のうなぎは安いんだろう、と。
そこから調べ始めました。日本で食べられているうなぎには種類の違いがあること。稚魚の漁獲量が減り、価格の背景には構造的な理由があること。そして、かつての事件のあと、信用を取り戻すために続けられてきた検査や管理の仕組みがあること。
知らなかったことばかりでした。
作中の拓海が言う「何も知らないまま、疑うことだけは簡単だった」は、そのまま私自身のことです。
この物語は、中国産うなぎを買ってくださいという話ではありません。何を選ぶかは、それぞれの自由です。ただ、「知らないまま戻す」のと「知ったうえで選ぶ」のは、違う。それだけを書きたくて、この物語を書きました。
今週末は(2026年:7月26日(日))は土用の丑の日です。
売り場でパックを手に取った時、この物語を少しだけ思い出してもらえたら嬉しいです。
おしまい。
