【短編小説】『泥を流した、その先に』ー中国産うなぎの向こう側ー前編
前編:陳さんの話

東京の小さな商社に勤める若手社員、拓海は、初めての海外出張で中国・広東省にある大規模なうなぎ養殖場を訪れていた。
見渡す限り、いくつもの池が続いている。
水面は風を受けて静かに揺れ、遠くでは作業員たちが網を引いていた。池から漂うわずかな水の匂いに、拓海は無意識のうちに身構えた。
日本にいた頃、何度も耳にした言葉が頭に残っていたからだ。
中国産のうなぎは泥臭い。
どんな環境で育てられているのか分からない。
安いものには、安いだけの理由がある。
根拠を確かめたことはない。
それでも、繰り返し聞くうちに、それらはいつしか事実のように心にこびりついていた。
養殖場を案内してくれたのは、現地責任者の陳さんだった。
日に焼けた顔に、人懐っこい笑顔を浮かべている。日本語は驚くほど流暢で、設備や作業工程を説明するときには、技術者らしい自信が言葉の端々ににじんだ。

広大な池を見つめながら、拓海はためらいがちに口を開いた。
「陳さん。少し失礼なことを聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「日本では今でも、中国産のうなぎに不安を感じる人がいます。昔の事件の印象が、まだ残っているんだと思います」
陳さんの笑顔が、わずかに曇った。
「知っています。あの頃のことは、私たちも忘れられません」
しばらく水面を見つめたあと、陳さんは静かに話し始めた。
「当時、私はまだ現場の若い班長でした。妻のお腹には、最初の子どもがいました。父も母も、この仕事を手伝っていました」
一部の業者による不適切な薬剤使用が問題になり、中国産うなぎ全体への信用が大きく揺らいだ。
取引は止まり、出荷を待っていたうなぎは行き場を失った。
「何か月も育てたうなぎを、自分たちの手で処分しました」

陳さんは両手を見つめた。
「父は、ほとんど何も言いませんでした。ただ、作業が終わったあと、池のそばに座ったまま動かなかった。母は家計簿を何度も開いていました。妻には、大丈夫だと言いました。でも本当は、子どもが生まれるまで仕事が残っているかも分からなかった」
声は落ち着いていた。
だが、一つ一つの言葉には、長い年月の重みがあった。
「真面目に育てていた人も、そうでない人も、外から見れば同じ中国産でした。一部の問題で、私たち全員の信用がなくなった。悔しかったです。でも、買う人から見れば、区別できないのも当然でした」
陳さんは拓海の目をまっすぐに見た。
「だから、誰が見ても分かる仕組みを作ろうと決めました」
二人は、養殖池の隣にある検査施設へ向かった。
建物の中は明るく、清潔に保たれていた。白衣を着た研究員たちが分析機器の画面を確認し、採取した水やうなぎの検体を慎重に扱っている。
大学の研究施設か、製薬会社の品質管理室のようだった。
拓海は、施設の扉を見つめたまま、しばらく動けなかった。
(後編につづく)
