宗教は自由なのに、常識は押し付けてくる
先日、近くの駅ビルに入ってる無印良品にひんやりボディミストを買いに向かう途中、ふと目の前を歩く黒づくめの集団が目に入りました。
夏が始まりかけた日曜日。
きっと喪服だったと思います。
とても暑そうで、この時期のお葬式は大変だろうなと思って見てました。
⋯もう僕の頭は普通に物事を見られなくなっているんですかね。
その光景を見て、ふと疑問が浮かぶんですよ。ほんと嫌な性格。
なぜ仏式の葬儀にスーツで行くのだろう
きっとお葬式では、お坊さんを呼んでお経をあげてもらい、お焼香をして故人を見送ったのでしょう。
お坊さんは袈裟を着ています。
故人も白装束を着せてもらうことが一般的です。
でも、見送る側の人たちは黒いスーツ(喪服)を着ています。
仏教的な儀式の中で、なぜ参列者だけ西洋式の服を着ているのでしょうか。
これまで何度も見てきた光景なのに、その日はものすごく不思議に見えたんですよね。
もちろん、喪服を着ていた人たちを責めたいわけではないです。
僕だって葬式に行くことになれば、何の疑問もなく黒いスーツを着るんで。
だからこそ不思議なんですよね。
僕たちは何を信じて、この格好をしているのでしょう。
信仰ではなく、常識としての葬式
日本では、人が亡くなると、多くの場合は葬式を開きます。
お坊さんにお経をあげてもらい、戒名をつけてもらう。
火葬して、お墓に入れる。
その後も、一周忌や三回忌などの法要を行います。
宗派や家庭によって違いはありますが、とても一般的な流れですよね。
でも、不思議に思うことがあります。
普段から仏教の教えを学んでいるわけでも、自分を仏教徒だと意識しているわけでもないのに、葬式になると仏式を選ぶ人は少なくありません。
もちろん、それ自体を否定したいわけではありません。
長く続いてきた慣習に従うことで、安心できる人もいると思います。
僕自身、特定の宗教を信仰しておらず、仏教についても詳しくありません。
だから教義の正しさを論じたいわけではなく、あくまで僕が感じた素朴な疑問です。
何を信じるかは、その人の自由なので。
それなのに葬式になると、特定の宗教に由来する作法が、突然「誰もが守るべき常識」に変わる。
僕はそこに違和感を感じたんですよね。
故人を思う気持ちは、形式で決まるのか
お坊さんを呼ぶことも、戒名をつけることも、すべての人に強制されているわけではありません。
それでも多くの人がお金を払い、決められた形式で故人を送り出します。
故人が生前に望んでいたのなら、それでいいと思うし、残された家族が納得するために必要なら、それも大切なことだと思います。
僕が疑問なのは、その形式を選ばなかった人、または選べなかった人に対して、
「そんなことでは故人が浮かばれない」
「きちんと供養しないと罰が当たる」
「天国へ行けない」
と、他人が言い始めることです。
誰が決めたのでしょう。
その人は、死後の世界を見て帰ってきたのでしょうか。
日本の葬送の形が、いつ、どのように作られたのかも知らないまま、自分が教えられてきた常識だけで他人の弔い方を裁いている。
それは少しおかしくないでしょうか。
お金がなければ救われないのか
戒名には、決して安くないお金がかかることがあります。
そもそも戒名は、仏の教えを受け、仏弟子になった証として授けられる名前だといいます。
では、生前に仏教を信仰していなかった人が、亡くなった途端に仏弟子になるのはなぜなのでしょうか。
さらに戒名には、形式上の違いや格のようなものがあります。
しかし、高いお金を払って立派に見える戒名をつけてもらったからといって、あの世での待遇が良くなるわけでもないようです。
では、何のための格なのでしょうか。
もし経済的に余裕のない家庭だったら、その故人は浮かばれないのでしょうか。
生前にどのような生き方をしていたとしても、高額な戒名をつければ救われるのでしょうか。
もし神様や仏様がいるのなら、財布の厚さで人間を区別するのでしょうか。
遺骨の置き場所や供養の回数によって死後が決まるのなら、生まれた土地、家族の財力、そして死に方によって救済が決まってしまいます。
それは、あまりにも不公平です。
宗教が本当に人を救うためのものなら、遺体も墓もなく、誰にも弔われなかった人まで救える考え方でなければならない。
僕はそう思います。
墓がなければ、思っていないことになるの
戦争で亡くなり、遺骨が故郷へ戻らなかった人は大勢います。
海難事故や災害、行方不明など、ご遺体が見つからないままの人もいます。
家族がいない人もいます。
墓を引き継ぐ人がいなくなった人もいます
そういう人たちは、決められた形で供養されなかったから報われないのでしょうか。
悪霊になるのでしょうか。
罰を受けるのでしょうか。
そんなはずはないと思います。
墓へ行って手を合わせる人もいる。
家に仏壇を置く人もいる。
写真を見る人もいれば、心の中で故人に話しかける人もいるでしょう。
どの方法が一番正しいのか、僕には分かりません。
でも、親しい人が故人を思い出し、その人が生きていた時間を忘れないこと。
それが一番の弔いなのではないでしょうか。
法要は愛情を測る検定ではない
一周忌や三回忌のような区切りにも、意味はあると思います。
普段は離れて暮らしている家族が集まり、故人を思い出すきっかけになる。
悲しみを整理するための節目になることもあるでしょう。
後から作られた形式だからといって、すべてが無意味だとは思いません。
ただ、
法要をすれば故人を大切にしている。
法要をしなければ薄情である。
そんなふうに愛情を採点するのは違うと思います。
法要は故人を思い出すための方法の一つであって、故人への思いを測る検定ではありません。
僕自身は、葬式をあげてもらわなくても構いません。
戒名もいりません。
お坊さんも呼ばなくていい。
妻が僕のことを思ってくれるのなら、それだけで十分です。
僕たち夫婦には子どもがいません。
親戚とのつながりも多くありません。
いつか二人ともいなくなれば、僕たちを知る人も、墓を守る人もいなくなるでしょう。
でも、それで僕たちが生きた時間まで消えるとは思いません。
誰かが墓参りをしてくれなければ、報われない人生だったとも全く思いません。
墓が残らなくても、戒名がなくても、葬式をしなくても、その人が生きた事実までなくなるわけではない。
少なくとも僕は、そう思っています。
宗教は自由なのに
何を信じるかは自由です。
お寺で供養してもらうことで救われる人もいるでしょう。
戒名をつけることで安心できる家族もいます。
法要によって故人を思い出す時間が生まれることもあります。
それを否定したいわけではありません。
ただ、その形式を選ばなかった人選べなかった人に対して、
非常識だ。
故人がかわいそうだ。
罰が当たる。
そう言って裁くのは違うと思います。
故人を敬うために作られたはずの形式が、生きている人を責める道具になっている。
何を信じるかは自由なのに、信じたあとの作法は常識として押し付けてくる。
宗教は自由なのに、常識は押し付けてくるじゃないですか。
目の前を歩く喪服姿の人たちを見ながら、僕はそんなことを考えてしまいました。
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