小説家になるのはプロハンターになるより難しい
獅子文六は大正、昭和に活躍した小説家である。
大衆小説を得意とした。獅子舞が好きだから、獅子文六だそうだ。
完全に、消えた小説家である。
近年、ちくま文庫で文庫化されて、フェアなどもして、代表作がいっぱい出た。表紙はポップな感じで、イラストレーターなどを使って、手に取りやすいイメージで装いも新たに発売された。
ほとんどの人がもう読んでいない小説家である。名前も識らないだろう。
けれども、復刊されたということは、そこに商機があると計算されたわけだろうし、好きな人もいるのだろう。
読んでみると、まぁ、普通におもしろい、という、代替がいくらでも効く作品である、と感じた。
大衆小説は、今を生きる人、同時代の人々の慰安を目的としているゆえ、時代が変わればそれも致し方ないのかもしれない。
生きている時に売れて、裕福に暮らせれば、それでいいのならば、最高だろう。そうではない、文学史に燦然と輝きたい、乃至は芸術性に固執する場合、話が変わってくるだろうが。
文豪でも、今はほぼ読まれていない作者も多い。
例えば大江健三郎なんて、日本人としては二人目のノーベル文学賞受賞者で、実力のある評論家や作家が日本文学史上最重要と位置づける作家なのに、書店の棚には2冊くらいしかない。
大体、『死者の奢り/飼育』か、『個人的な体験』である。『個人的な体験』は傑作だと思う。
大きい書店なら、『万延元年のフットボール』だとか、『芽むしり仔撃ち』などがポツポツ増える。
中上健次もそうで、代表作の『岬』や傑作の呼び声高い『枯木灘』も置いてない。精々が、講談社文芸文庫の棚を保有する書店で、『水の女』だとか『化粧』があるくらいだ。
そして、文学関連の全集や評論本のコーナーは、常に貸し切りスペースである。
誰かが、文学賞よりも、売上よりも、死後も、書店の棚に自分のスペースを確保する作者こそが、作家として勝ち組だと、どこかで書いていたが、そういう点ならば、三島由紀夫、谷崎潤一郎、川端康成は結構なスペースを有していて、今現在は勝っている。あくまでも、今現在は……。
三島は割腹自殺のインパクトがデカすぎて、フェアではないが……。
まぁ、本は続々出版されるし、渋滞を起こしているから、当然だろう。
獅子文六も、順番待ちに急かされて、椅子から降りざるをえなかった。
消えた作家、一部の好事家や、文芸オタク以外からは見向きもされなくなった作者は山程いる。
今は、3000部が初版でも普通なのだという。3000部だと、1000円の本ならば、印税で30万円くらいである。下手したら、印税が7%くらいで、20万円そこらである。もっと下手したら、5%くらいで、15万円である。
これで重版がかからない場合、どうなるのか。
マンガ業界でも、億超えの上級数十名と、それ以下の数百名、そして100万円以下の数千〜数万名が犇めき合っている。俎上にすら上がれない者がマジョリティだ。恐ろしい格差社会である。全然売れていないけれども、面白いマンガも本当にいっぱいあるが、売れなければ続けられない……。
文学賞も、凄まじい狭き門だ。新潮新人賞とか、すばる文学賞とか、文學界新人賞とか、2000人くらいの人が応募するそうだ。
よく、小説になっていない、という審査員の意見があるが、2000人いたら、500人くらいは普通に良い小説を書いているんじゃないのと、私は思う。まぁ、普通に良い小説と、プロとして食べていける小説との違いだろうか。普通に良い小説、というのは、先にも記したが、いくらでも替えが効くと同義である。
こうなると、刮目すべき人は数十名に絞られてくるのだろうが、この辺りの人々は卓越したものを持っているのは間違いない。
けれども、運だとかも多分に関わってくるのも同様なのも間違いない。何度も挑戦する人は、それだけで才能があるのだろう。
然し、このような業界に参入しようと考えている人々は、私には正気の沙汰とは思えない。
一流企業の内定をもらうよりも難易度が高いであろう賞を、自分が獲れると考える神経構造が意味不明なのである。
けれど、他人の人生なので、頑張ってくださいと、応援だけはさせて頂く。面白かったら、もちろん購入して、缶コーヒー代くらいにはなるようにしたい。
何れにせよ、今を生きている人々が主役なのだ。
今もなお棚を掌握する文豪は、それだけ凄まじいということだろう。
その文豪を押しのけて、自分の本を置き続けてもらう、100年先、200年先、どれほどの傑物でなければ、成せない偉業なのだろうかと思う。
