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「みんなと同じ」を愛さなければいけない呪い

世の中には、不思議な同調圧力が満ちている。
例えば、街中で赤ちゃんを見かけたとき。「まあ、可愛い!」と満面の笑みで声を合わせなければ、途端にその場が不穏な空気に包まれるような、あの息苦しさだ。
人間が抱く感情や感覚なんて、本来は十人十色のグラデーションであるはずなのに、「これに対してはこう感じるべき」という正解が社会全体でガチガチに決められている。そして、その共通の基準から少しでもはみ出す人間がいると、なぜか彼らはものすごく怯え、そして攻撃的になる。
「誰もが子供好きなわけじゃない」
そんな当たり前の事実を口にしただけで、「冷酷だ」「人間として欠けている」とばかりに眉をひそめる人がいる。
しかし、よくよく観察してみると、彼らが怒っている本当の理由は別にある。それは道徳心や正義感などではなく、「自分たちが信じ込んでいる『安全な世界』の前提を揺るがされたくない」という恐怖なのだ。
輪郭のない不安と、ハリボテの「好き」
精神的に自立している人間なら、自分が何を好きで、何を感じるかという「自分の軸」をしっかり持っている。だから、他人が自分とは違う感想を抱いていたとしても、「ふーん、あの人はそうなんだな」とただそれだけで受け流すことができる。相手の意見によって、自分の「好き」や存在そのものが脅かされることはないからだ。
一方で、自我の確立ができていない人たちは、自分の内面から湧き出る感覚だけでは物事を測ることができない。だからこそ、「みんなが可愛いと言っているから可愛い」「これが正解の感性だから私は正常だ」という、世間の流行や集団の共通認識にべったりと依存して生きている。
これは、例えば「みんなが群がって流行りのキャラクターを大絶賛しているから集めてみたけれど、心の底からは愛していない」という状態に似ている。そんなハリボテの好きを纏っているときに、「それって本当に好きなの?」と核心を突かれると、彼らは途端にキレ出す。図星を突かれて、自分が支えにしていたハリボテが崩れ去るのが怖くてたまらないからだ。
ツールとしての命、そして承認欲求
もっと恐ろしいのは、その未熟さが他者の存在そのもの、ひいては「新しい命」にまで及ぶときだ。
自分の内面的な価値を自分で認めることができない人ほど、「ちゃんとした大人」「立派な親」という社会的なラベルや、周囲からの称賛を欲しがる。その結果、本来はかけがえのない一人の人間であるはずの子供を、自分の承認欲求を満たすための「アクセサリー」や「ツール」のように扱ってしまう。
親の機嫌を取るため、周囲に「いい親だね」と褒められるためだけに存在する装置にされた子供の立場を想像すると、背筋が凍るような思いがする。命さえも自分の社会的ステータスのための道具にしてしまうその姿は、他者への敬意のかけらもなく、ただひたすらに幼児性が肥大化したものに他ならない。
他人が自分とは違う存在であること。
自分にとっての当たり前が、他人にとっては全く違うということ。
その健全な境界線を恐れ、何でもかんでも同じ色に染め上げたがる人たちを見ていると、日本という社会が長年かけて培ってきた「個の不在」の根深さを痛感する。
「みんな違って、みんないい」なんてきれいごとを並べる割に、いざ個人のリアルな本音や、ステータスから外れた感情を目の当たりにすると、途端に不機嫌になる。そんな不寛容で息苦しい同調圧力の輪から一歩引き、「あぁ、この人たちはまだ自分の輪郭すら持てていない未成熟な段階なんだな」と静かに観察するくらいが、自分の精神の平穏を保つためのちょうどいい距離感なのだろう。

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