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「謝罪」の重要性が理解できない(謝られるのが苦手)

僕は昔からずっと、「謝罪に何の意味があるんだろう?」と思っている。という話を今回は書いていこうと思う。

で、先に「謝罪」の定義をするが、この記事では「『ごめんなさい』的な発言をすること」を指すものとする。「間違いが起こった状況の分析」や「今後起こさないための再発防止策」などは含めず、あくまでも「謝罪の言葉を口にすること」だけに焦点を当てるというわけだ。この記事では基本的に、「謝罪」「謝る」という言葉をこの意味で使う。

で、僕のスタンスをもう一度明確にしておくと、「『状況の分析』や『再発防止策』は状況に応じて必要だと感じることもあるが、『謝罪』自体にはなんの価値もない」となる。本当に、その存在意義が理解できないんだよなぁ。

いや別に、例えば遅刻してきた人が「ごめんごめん」みたいに軽く言ってくるみたいなのは別に全然いい。そういう「ライトな謝罪」に不愉快さを感じることはないのだが、「ちゃんと謝る(謝られる)」みたいな行為には本当に嫌悪感しかない。僕にとってまったく意味のない行為なので「しないでほしい」とさえ思っているぐらいだ。

そもそもだが、僕の基本的な発想は「謝られなくても許すし、謝ったって許さない」である。人や状況によって、「別にこの人なら全然許す」とか「こういう状況ならいくら謝られたって許さない」みたいなことが決まるというわけだ。または、「謝って済む程度のことなら謝らなくたって許すし、謝っても許されないようなことなら謝る意味なんてない」とも思う。僕にとって「謝罪」の価値は劇的に低いので、そんな価値の低い行動によって起こる程度の変化なら無くても大差ないというわけだ。

あるいは、相手の認識で分類することも出来る。例えば、「悪いと分かっててやった」のなら、やった後で謝罪することに意味なんかないだろう。一方で、「悪いことだと分かっていなくてやった」のならそれはしょうがないし、だからやはり謝罪を求めるようなマインドにはならない。

また、これは特に「自分が関わりたいと思う人」の場合の話だが、「謝られると淋しい」みたいな感覚もあったりする。宇多田ヒカルの『Flavor Of Life』って曲の歌詞に「ありがとう、と君に言われるとなんだかせつない」というフレーズがあるが、感覚としてはかなりこれに近い。これってたぶん、「距離が縮まったと感じてる君からの『ありがとう』は、ちょっと距離を感じさせるからせつない」みたいな意味だと思うんだが、「ごめんなさい」にも似たような雰囲気があるだろう。僕は「関わりたいなと思う人」から謝られると、「『謝らないと許してくれない人』って思われてるのかな」と感じてちょっと切なくなる。

で、これに近い話だと思うのだが、僕は「女性同士の仲直りのスタイル」がかなり好きだ。小説や映画などでの「わだかまりを抱えた女性同士が歩み寄る」みたいなシーンにおいては、大体の場合そこに「謝罪」はなかったりする。最近観た映画では、『左利きの少女』にそういうシーンがあったので、その感想の中で僕が書いた文章を丸々コピペしておこう。

小説でも映画でも時々出てくるが、「険悪だった女性同士が、直接的に謝ったりしないまま、何かのきっかけを得て仲直りする」みたいな状況が僕は凄く良いなと思う。これってたぶん凄く高度なコミュニケーションがなされていて、「相手はたぶん仲直りしたいと思ってるよな」「今このタイミングならきっと大丈夫だろう」「『ごめん』みたいなことを言ったら大げさな感じになっちゃうよな」的なことをお互いに考えていて、阿吽の呼吸みたいな感じで元の感じに戻っていく感じが、なんか凄くリアルに思える(まあ僕は男なのでリアルかどうかの判断は出来ないが)。

女性同士の場合はたぶん、「謝る」という行為に対してより複層的で高度な意味を感じ取っていて、だからこそ安易には使えないんじゃないかという気がするし、それ故に「『謝罪』を経ずに関係を修復していく」みたいなハイコンテキストなやり取りが成立しているんだろうと思う。そして僕は、「こういうコミュニケーションが存在する」という事実を知っているが故に、余計「謝罪に何の意味があるんだ?」と感じられてしまうのだ。

また、「謝られるとめんどくさい」という側面もある。僕が一番嫌だなと感じるのは、「許す/許さないのボールが渡されること」だ。「謝った」という事実があると、「謝った人を許すかどうか」というボールが謝られた側に渡る。で、僕はこの点が「謝罪」におけるかなり嫌なポイントに感じられるのだ。「いやいや、なんでそんなボールを、謝られる側が受け取らなきゃいけないんだよ」と思う。これは特に、「どうでもいい人からの謝罪」に対して感じることだ。

例えば、謝られなければ、相手のことを「マジであいつクソだな」みたいに思ってもいいだろうが(思わなくてもいいが)、謝られると「許す/許さない」の話になってしまう。で、よほどのことでもない限り、「謝ったんだから許そうよ」みたいな風潮が世の中にあるが故に「許す」みたいな選択をせざるを得なくなるのだ。相手が「どうでもいい人」であればあるほど、むしろ「マジであいつクソだな」って思えている方がいいと僕は感じる。これはつまり、「相手への態度を自分で選択できる」ということなのだが、「謝られた」という事実があるとその選択肢が極端に狭まってしまうのだ。個人的には、どうしてそれが良しとされているのか理解できない。

さらに、謝罪というのはどうしても「正しい側を確定させる」みたいな効用を持ってしまうもので、それも嫌だなと思う。僕は大体の状況において、「どっちかが100%正しくて、どっちかが100%間違ってる」なんてことはあり得ないと考えている。しかし「謝罪」という“儀式”が間に挟まることで、あたかも「一方的にどちらかが悪かった」みたいな雰囲気になってしまうのだ。なんかそれも凄く気持ち悪いんだよなぁ。

もちろん、裁判などのように「正しい側を確定させる」ことが必要な状況もある。あるいは仕事の場においても、色んな事情から「正しい側を確定させる」ことが求められもするだろう。しかし、そういう状況を除く日常生活のほとんどの場面において「正しい/間違ってる」が一方的に決まることはないだろうし、だから「正しい側を確定させる」ことにも意味がないように思えるのだ。そしてさらに言えば、本来的には副次的であるはずの、謝罪における「正しい側を確定させる」という効用を主目的にしている人もたぶんいて、そういう人に対してはより不快感を抱かされてしまう。

とまあ色々書いたが、僕が嫌なのは要するに「謝罪が記号化している」ということなんだろうなと思う。「何か悪いことをした」という場合に、多くの人が反射的に無思考に「謝罪」を求めてしまうみたいな雰囲気に嫌気が差しているのだろう。「謝罪にどんな機能や効用があり、それがどのような形で相手に伝わるのか」みたいなことがあまり考えられておらず、「悪いことをしたんだから謝れよ」という解像度の低い主張がポンと置かれてしまう状況が不愉快で仕方ないというわけだ。

で、どう考えたって、「謝罪」よりも「状況の分析」や「再発防止策」の方が重要だろう。もちろん人によっては、「『ごめんなさい』という言葉には、『過去に対する反省』や『同じことをしない決意』を含めています」みたいな人もいるとは思う。しかし、「過去に対する反省」も「同じことをしない決意」も結局「気持ち」でしかない。で、僕にとっては別に「気持ち」なんかどうでもいい。「間違いがあったとして、その状況を的確に分析できているか?」「もう二度としないという決意を持っているとして、実際にそれが実現する再発防止策を考えられているか?」という「思考」の方が圧倒的に重要だからだ。「気持ち」なんか伝えられても「あっそ」ぐらいにしか思えない。先述した通り、「謝られなくても許すし、謝ったって許さない」わけで、だから「状況の分析」や「再発防止策」も別に無くたっていいのだが、「どうせ『過去』や『未来』に言及するなら、『気持ち』じゃなくて『思考』を提示してよね」と思う。

さて、ソースを確認できなかったので匿名にするが、僕は以前ある小説家が似たようなことをエッセイで書いているのを読んだ記憶がある。出版社が何かミスをしたとかで、編集者がその作家に「謝罪にお伺いしてもいいですか?」とすぐ連絡してきたそうなのだが、作家は「謝罪のためなんかに来ないで」と断った、みたいな話だ。いや、ホントそうだよなと思う。たぶん編集者としては「まずはとにかく謝らないと」みたいな発想だったのだろうが、作家的には「再発防止策を整えてから話に来てよ」という感じだったようだ。メチャクチャ分かる。再発防止策もないのに謝罪だけされても、意味なんかないよなぁ。しかもその作家は別のエッセイの中で、「謝り慣れている人は結局、よくミスをする」みたいにも書いていて、そういう観点からも本当に意味なんてないよねと思う。

また、結局大事なのは「普段の振る舞い」だったりする。何か過ちが起こったとして、そこに至るまでの相手の「普段の振る舞い」が、その「過ち」に対する評価に大きく影響するということだ。分かりやすい話で言えば、例えば「普段からよく盛大に遅刻する」みたいな人がいるとして、その人が「(遅刻ではない)何か小さなミスをした」場合、結構印象が悪くなるかもしれないし、「これからもうしません」という言葉にも説得力が生まれなかったりもするだろう。一方、普段は遅刻もしないし特段ミスもしない人が「何か大きなミスをした」場合、僕なんかは割と「あら、珍しいね」みたいに感じるだろうし、相手から謝罪的な言葉がまったくなくてもたぶん気にならないと思う。

さらに言えば、僕が「謝ってほしい」という思考にならないのは、「相手を変化させてまで関わろうと思わない」という感覚があるからだろう。僕の基本スタンスは、「自分が相手に歩み寄る」か「諦める」かの2択である。例えば、ちょっとしたミスをメチャクチャする人がいるとして、僕がその人と「関わりたい」と思うなら別に相手を変えようと思わないし(ミスを許容して関わる)、「関わりたくない」と思うなら諦めるだけだ。「自分が望むような形に相手を変える」という発想が基本的にないので、それで「謝罪してほしい」みたいな感覚にもならないんだろうなと思っている。

そんなわけで「謝ってほしい」とは思わないのだが、多少の例外はあるなと思う。例えば「関わりが薄い相手」。相手がどんな人なのかあまりよく分かっていない場合、そもそも「この人はこの言動を『悪い』って認識してるのかな?」という点が判然としない場合がある。そういう時は、「謝罪した」という事実によって、「ちゃんと認識してたんだな」と理解できるというメリットはあるだろう。仕事の場合は、こういう観点からも謝罪が求められるのだろうなと思う。

あるいは、「個人同士の関わりではない場合」を挙げてもいいだろう。例えば僕が組織や団体の一員だった場合、僕自身は「相手に謝ってもらう必要はない」と感じていても、「組織・団体としては謝罪が必要」ということは起こり得る。そういう場合はまあ、謝罪を享受するしかないよねと思う。

みたいな例外は多少あるものの、基本的には「謝ってほしい」なんて感じることはない。そして僕がそういう発想の人間だから、「謝らせようとする人」は概ね好きになれないのだ。

そもそもだが、「謝ってくれたらすべて解決」みたいな発想を持っている人は嫌いである。そんなの、解像度が低すぎないか? また、前述した通り、謝罪には「正しい側を確定させる」という効用があるので、「謝られることで自分が『正しかった』と思い込める」みたいな状況を意識的にせよ無意識的にせよ整えている感じも好きになれない。いや、無意識である方がより問題なんだよなぁ。「謝罪」が必然的に持ってしまうそういう効用に対する感度が低いってことだから。裁判などにおいて戦略として意識的に「正しい側を確定させる」みたいなやり方をしているなら全然マシだなと思えるんだけど。

で、僕はこの記事であれこれ書いたような感覚を持っているので、自分が謝る側になるのも得意じゃない。「もし相手が自分と同じような感覚を持っていたら……」と考えてしまうからだ。その場合、「謝罪」には意味がないどころか、逆効果にさえなり得る。もちろん、これはどんな言動でも同じだが、「『謝罪』に対する感覚が共通している間柄」であれば何も問題ない。ただ、「相手の『謝罪観』」を知る機会はそうそうないし、また先述した通り、僕は「悪いことをしたら謝れよ」的な発想の人とはあまり関わりたくないので、そう考えると、「『関わりたいと思える人』には基本的に謝らない方が安全」みたいな思考になるというわけだ。

だから逆に、「この人との関係はもう終わってもいいな」という相手には別に謝ってもいい。「謝る」という行為に何の意味も感じていないので、別に謝ろうと思えば全然できる。うん、そうだな、「謝罪=諦め」だな、僕にとっては割と。本当に悪いと思っている時にはむしろ謝らないだろうなぁ。「本当に悪いと思ってる」ってことが「謝罪」なんかでは伝わらないと思っているから。

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