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嵐と凪 -吉本ばなな一節との再会

高校生のころ、30年くらい前、おおまか映画『息衝く』に描いたような環境の一部がもとで不眠になった。当時強い皮膚疾患があり通院していて、それだけでも嫌だった。もう自分につく診断名を増やしたくなく、精神系には行かなかった。そんなことを知ってか知らないでか、同じクラスの友人が渡してくれたのが吉本ばなな『キッチン』だった。
おれは好きだから 読んでみなよ そんな流れだったと記憶している。

すぐに読み切り、あの時期の曇天のような胸中で、美しいなと思った。
その友人はあと2冊ほど貸してくれて、それも読んだが、もうほぼ内容を覚えていない。

記憶にいまも残っているのは、『キッチン』の男女が最後食事をしていて、なぜあなたと一緒に食べるとこんなに美味いのかな、と男性が言い、女性は、食欲と性欲がいっぺんに満たされるからじゃない、とどこかニヒルに答えて、男性は「家族だからだよ」と答える一節だ。
鮮烈だった。
いま確認する気力もわかず、正直いえば確認の意味自体もいま自分のなかでみつけがたく(言葉は記憶のなかで生き、あるいは死に、あるいは変わる)、正確ではないかもしれない。

このnoteにはさまざまな反応があるが、自分などはいまその“記憶の一節”を合わせ、ただ情けないくらい、身体の反応に負け、泣いている。
おそらく20代の吉本ばななは、その言葉を全力で信じていた。
このnoteをいま書く信念と、もう違っていることは多々あるかもしれないが。

家族とは、嵐と凪を、嵐と寛解とを繰り返すのかもしれない。
ある家族にとっては日があたる日が多く、ある家族にとってはどしゃぶりが多い。

人間関係であるならば、
ああ、あいつとはもう何年も会ってないよ、
元気かね、会いたいな
何年かぶりで会ったがまあ変わってなかったな、だめだ、
変わったなあいつ、だめだ、
まあ楽しかったな、
結局どんなやつだったかね。
そういったことが多々できるかもしれないが
家族ではそれが恐らくものすごく難しい。
ハルノ宵子と糸井重里との、「家族というものは、ほんとうの力をみんなが発揮したら壊れるようにできてる。」という言葉でもそれを思った。

もう少し自身の家族観について書くべき、それがこの文章へのせめての応答なのかもしれない。しかしいまそれができない。言葉が長い永い記憶をさかのぼってなで続け、身体が硬直するような読書時間だった。家族の間でも、まずひととひとして一線を越えている、と思うこと。加害/被害の恐ろしいくらいの反転と継承。共犯性。相手に抱く情というものが、知らぬ間に刷り込まれていることでもあることを教えてくれた。

嵐と凪を繰り返す場にいつづけるなど、本当に力と意思とを要することだ。
ともにいることのみでなく、自身の肉体とともにいることも。「どうすればよかったか」は外部からはいくら言いきれても、それを生き続ける人間にはわからない。

常に変動しているのが人生だし、ある意味それに波のように乗って解決していくのが人生の楽しみや喜びそのものだ。どう変化していっても、常に対応し、楽しみや人間味や周囲の人たちへの愛を失わないことが。

吉本ばなな『クラウディクラウドファンディング』

いまはこの一節に、僥倖のような、ただただ優しさを感じている。先日お会いした方に教えてもらったことにも遠くでつながっている。
読んでいま思えることとは、途中で嘔吐も、正視もできない瞬間もあったが、言葉にしてくれてありがとう、ということだ。

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