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び ビー玉と欲求

ビー玉は、手に入らないから光っている

夏の飲み物には、味とは別の記憶がある。

ラムネがそうだ。冷えた瓶を握り、上から栓を押し込む。ポン、という音とともに炭酸が弾け、ビー玉が瓶の中へ落ちる。飲もうとするとビー玉が転がってきて邪魔をする。瓶を傾ける角度を少し間違えるだけで、飲み口を塞いでしまう。

飲料として考えれば、ずいぶん不便である。

ペットボトルならキャップをひねればいい。缶ならプルタブを起こせばいい。それなのに夏祭りでは、ラムネのほうが妙に魅力的に見える。

おそらく私たちはラムネを飲んでいるだけではない。

ビー玉に邪魔されているのである。

そして、その邪魔こそがラムネというエンタメの本体なのだと思う。

昔の縁日は、金魚すくい、射的、輪投げ、ヨーヨー釣りのように、「簡単には手に入らない」ものばかりだった。金魚が欲しいなら破れやすいポイですくわなければならない。景品が欲しいなら当てなければならない。水風船ひとつ手に入れるのにも、紙のこよりと格闘する必要がある。

現代のサービスが徹底的に排除してきた「面倒」が、縁日ではむしろ商品になっている。

最近の夏祭りには、映える食べ物やLEDのおもちゃ、キャラクターくじなど新しいものも増えた。それでも射的や金魚すくいが消えないのは、縁日がモノを売る場所ではなく、「手に入れるまで」を売る場所だからなのだろう。

ラムネのビー玉も同じだ。

普通に飲むだけなら邪魔なのに、あれがなければラムネではない。

考えてみれば、エンタメにはこういうものが多い。

ゲームで最初から最強の武器を渡されたら面白くない。推理小説で最初のページに犯人が書いてあったら困る。ライブのアンコールも、必ずあると知っていながら一度ステージが暗転するから盛り上がる。

エンタメはしばしば、欲しいものと自分との間にわざと障害物を置く。

ラムネの瓶の中で転がっているビー玉は、その最小形なのかもしれない。

子どもの頃、ラムネを飲み終わったあと、あのビー玉が欲しくならなかっただろうか。

目の前にある。

触れそうで触れない。

瓶を振ればカラカラ鳴る。

こちらから見えているのに、取り出すことができない。

だから欲しい。

ところが昔のラムネ瓶なら、ビー玉を本当に取り出そうと思えば、瓶を割るような強引な方法しかなかった。

そして不思議なことに、そこまでして手に入れたビー玉は、瓶の中にあったときほど美しくない。

ただのガラス玉である。

ここに、人間の欲望のかなり意地悪な性質が表れている。

私たちは「欲しいもの」が欲しいのではなく、「まだ手に入っていないもの」を欲しがっていることがある。

恋愛では、それが露骨に出る。

なかなか振り向いてくれない人ほど気になる。返信が遅ければスマートフォンを見る回数が増える。付き合えるか付き合えないかの曖昧な時間には、相手の何気ない一言まで特別な意味を持つ。

瓶の向こう側にビー玉が見えている状態だ。

だから、ときには瓶を割ってでも欲しくなる。

無理に距離を縮める。相手の気持ちを確かめようとする。駆け引きをする。自分のものになった瞬間を想像する。

ところが、いざ恋人になると、あれほど輝いていた相手が急に普通の人間になることがある。

もちろん相手が変わったわけではない。

ビー玉が瓶から出ただけなのだ。

仕事にも似たことがある。

昇進したい。あの部署に行きたい。あの会社に入りたい。あの企画を任されたい。

まだそこにいないとき、その場所には途方もない価値があるように見える。

だから資格を取る。数字を作る。社内政治まで使う。場合によっては誰かを押しのける。瓶の口から取れないなら、瓶そのものを割ろうとする。

そしてようやく手に入れる。

肩書きを得る。

席に座る。

すると翌朝から、それは日常になる。

あれほど欲しかった役職名も、名刺に印刷されてしまえば数文字にすぎない。憧れていた仕事も、自分の担当になった瞬間から締切と責任とメールの束になる。

ビー玉は手のひらに載っている。

「こんなものだったのか」と思う。

しかし、これは欲望が間違っていたという話ではない。

むしろ逆なのだと思う。

手に入らないからこそ生まれる価値が、この世界には確実にある。

恋愛にも仕事にもエンタメにも、「まだ」という時間がある。

まだ付き合っていない。

まだ評価されていない。

まだクリアしていない。

まだ答えを知らない。

まだビー玉は瓶の中にある。

人間はその「まだ」に、驚くほど大きな価値を感じる。

だから厄介なのは、手に入れることそのものを目的にしてしまうことだ。

瓶を割ればビー玉は取れる。

強引に口説けば恋愛が始まることもある。

誰かを蹴落とせば仕事を取れることもある。

けれど、その瞬間に失われるものがある。

欲しかったものではなく、欲しがっていた時間である。

夏祭りもずいぶん変わった。

屋台の食べ物は豪華になり、決済方法まで変わり、スマートフォンで写真を撮ることも祭りの一部になった。

それでも、ラムネ瓶の中ではビー玉が転がっている。

飲むたびに邪魔をする。

欲しいのに取れない。

取れないから、光って見える。

考えてみれば人生には、ビー玉のようなものがいくつも転がっている。

恋人、肩書き、成功、人気、金、評価。

瓶の外から見ていると、どれも宝石のようだ。

だから私たちは、ときどき瓶を割りたくなる。

けれど、本当に欲しかったのはビー玉だったのだろうか。

もしかすると私たちは、瓶の向こうでカラカラと音を立てている、あの距離そのものに恋をしていたのかもしれない。

ラムネを飲み終えたあとに残るビー玉は、そのことを知っている。

手に入らないものは美しい。

そして、手に入った途端にただのビー玉になるものもある。

だから夏祭りのラムネは、毎年同じ小さな問いを瓶の中に閉じ込めている。

それでも、あなたは瓶を割りますか。

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