【映画感想】「愛人 ラマン」| 哀しい愛の気づき
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マルグリット・デュラスの自伝的小説を、ジャン=ジャック・アノー監督が映画化した作品です。
主演は、この作品で銀幕デビューを飾ったジェーン・マーチ。
そして相手役を演じるのは、香港スターのレオン・カーフェイです。
ふたりの役には、劇中で名前が与えられていません。
ナレーションと、成長した主人公の声を担当するのはジャンヌ・モロー。
1992年公開当時、その官能的な描写も大きな話題になった作品です。
あらすじ
1929年、仏領インドシナ――現在のベトナム。
サイゴンの寄宿学校に通うフランス人少女は、休暇を利用してヴィンロンで暮らす家族のもとを訪れていた。
教師として働く母の小学校官舎には、ふたりの兄も住んでいる。
上の兄ピエールは横暴な男で、阿片窟にも出入りするチンピラ。
母や使用人のお金を盗むことも日常茶飯事なのに、母の愛情はなぜかこの長兄にばかり向けられている。
一方、弟のポーロは気が弱く、ピエールの横暴にも黙って耐えていた。
少女はそんなポーロをいつも心配している。
貧しさと恐怖に支配された家庭。
少女は、そんな場所が嫌いだった。
休暇が終わり、サイゴンへ戻る船の上。
少女は甲板に出て、濁ったメコン川の流れや周囲の景色を眺めていた。
さまざまな荷物を積んだ船の上に、場違いなほど立派な黒塗りの高級車が乗っている。
少女は、その車の後部座席から降りてきた身なりのいい中国人青年に声をかけられる。
青年は彼女に興味を持ち、寮まで車で送ると申し出る。
少女はその誘いを受けた。
青年は華僑の富豪の息子で、32歳。
財産があるため働く必要もなく、無職だという。
年齢を聞かれた少女は「17歳」と答える。
本当は15歳だった。
車の中で青年に手を握られ、少女は目を閉じる。
やがて手は内ももへ。
少女は官能に戸惑いながらも、車を降りて寮へ戻った。
この学校で白人は、少女ともうひとりの生徒エレーヌだけ。
そのためふたりは親しくしており、その夜、エレーヌから売春をしている生徒がいることを聞かされる。
見ず知らずの男と関係を持つこと。
少女はそこに、恐怖とは少し違う、憧れにも似た感情を抱くのだった。
そして翌日。
寮の前に、見覚えのある高級車が停まっていた。
少女は自ら、その車へ近づいていく。
感想
この映画の官能性は、公開当時もかなり話題になりましたね。
ジェーン・マーチが本当に華奢で小柄で、15歳の少女に見える。
そんな “純真そうな女の子が大胆な濡れ場を……” ということで、当時はかなり興味を惹きつけられたものです。
しかも、少女は貧しい家庭の出身。
一張羅の服を着回し、三つ編みのおさげ髪にシンプルな生成りのワンピース。
そこへビジューのついた少し大人びた靴、さらに男性用の帽子。
ちぐはぐともいえる格好なのですが、これが妙に絵になるんですよね。
折れそうなほど細い腕や脚がのぞくことで、少女らしい危うさが際立っています。
そんな少女に近づいてくるのが、華僑の富豪青年。
働かなくても生活できるため、暇を持て余している男です。
彼は少女と関係を持ったあと、「自分には婚約者がいる」「君とは結婚できない」と何度も言い聞かせます。
こういうズルい男、いるんだよな~。
カラダ目当てだから、目的を達成したら「結婚はできないからね」と牽制してくる。
でも相手が自分に本気になるのは、むしろウェルカム。
自分が愛されることで、プライドはしっかり満たされる。
クソ男めが……。
ドブ川に蹴り落としてもいいですかーー!?
(メコン川はドブ川じゃねー! ( ・`ω・)⊂彡☆))Д´) パーン)
……と、私は青年に対してかなり辛辣な目線で観ていたのですが😤、このふたりの関係は、単純な「金持ち男と貧しい少女」の話ではありません。
青年から「遊びだから結婚できると思うな」と釘を刺されても、少女は特に傷ついた様子を見せません。
むしろ、ご馳走してもらった食事を黙々と食べる。
まるで、
「お金目当てだから、結婚なんてどうでもいい」
と態度で示しているようです。
実際、彼女がお金だけを目的にしていたのかというと、そこは本人にもよく分かっていなかったのではないでしょうか。
ただ、彼女には青年にはないハングリー精神があります。
少女の家が貧しくなったのには理由がありました。
父親を亡くしたあと、母親が騙されて、使い道のない土地を買わされてしまったのです。
その結果、一家は貧困へと転落。
母は周囲から「うそつき」などとさんざん責められ、失意の底から抜け出せずにいます。
少女は、横暴なピエールのことは嫌っている。
それでも、母とポーロのことは助けたい。
そんな思いが、彼女の芯になっているように感じます。
青年のような裕福な家に生まれ、何不自由なく育った女性には、たぶん持ち得ないものです。
だからこそ、青年はそんな少女に惹かれていく。
結婚できないと分かっていながら、彼のほうが本気になってしまうのです。
とはいえ、これを単純な「身分違いの恋」と呼ぶのも少し違う気がします。
そこには身分だけではなく、人種の壁もありました。
1929年。
まだ人種差別が色濃く残っていた時代です。
少女が中国人男性の愛人になっていることは、家族にとって大きな屈辱でした。
ところが、青年の持つ「お金」の力を目の当たりにすると、母親の態度も変わっていきます。
長兄の借金を返し、生活費まで援助してくれる。
中国人だからと見下していた相手に助けられ、母親は次第に自分自身を恥じるようになります。
結局、力のない人間は札束の前にひれ伏すしかない。
そんな現実も、この映画では容赦なく描かれています。
そして少女自身も、学校で孤立していきます。
誰からも話しかけてもらえない。
ボールをぶつけられても謝ってもらえず、まるで少女に触れたボールまで汚染されたかのように、生徒たちは嫌悪感をあらわにする。
中国人男性と関係を持った。
ただそれだけのことで、少女を取り巻く世界は大きく変わってしまいました。
やがて青年は結婚し、少女はフランスへ帰ることになります。
ふたりは別れ、もう二度と会うことはありません。
そう考えれば、彼らの関係はそこで終わりです。
ゼロに戻った。
少女自身も、そう思っていたのかもしれません。
ところが、帰国する船の中でショパンの音楽を耳にしたとき。
彼女の中で、押し込めていた感情が一気にあふれ出します。
自分は、彼を愛していたのだ。
少女はそこで初めて、そのことに気づき、嗚咽するのです。
性愛から始まった関係だったからなのか。
それとも、まだ若すぎたからなのか。
愛していたことに気づいたときには、もう遅かった。
その「遅すぎた愛の気づき」こそが、この物語のいちばん切ないところなのだと思います。
そして彼女は、この愛をこれから自分の中で昇華していくことになります。
儚げで、どこか夢の中にいるような美しい雰囲気が、全編を包んでいる作品です。
身分違いの恋でありながら、決してシンデレラストーリーではない。
お金、人種、家族、貧困、そして若さ。
さまざまなものに翻弄されたふたりの愛だからこそ、ラストの気づきが胸に沁みました。
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