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2026幎 幎間第16䞻日A幎

簡単な解説

第1朗読 知恵の曞 12ç« 13、1619節

「知恵の曞」は、旧玄聖曞の䞭でも数少ない、ギリシア語で著された曞物です。玀元前1䞖玀ごろ、゚ゞプトのアレクサンドリアに䜏むナダダ人の共同䜓に向けお曞かれたず考えられおおり、圓時の町を満たしおいたギリシア哲孊の語圙ず論法を甚いながら、むスラ゚ルの神ぞの信頌を匁明するずいう性栌を垯びおいたす。党19章のうち第10章から19章にかけおは、出゚ゞプトの出来事を軞に、歎史のうちに働く知恵が語られおおり、今日の朗読箇所である12章もこの郚分に属したす。文脈ずしおは、むスラ゚ルの敵であったカナンの人々に察しおすら神が瀺された寛容ず、その理由を告げる箇所からずられおいたす。

「すべおに心を配る神はあなた以倖におられない」知恵12・13ずいうずきの「心を配る」にあたる語は、メレむ(Όέλει)ずいうギリシア語の非人称動詞で、「気にかける」「配慮する」を意味するメロヌ(Όέλω)から来おいたす。神があらゆるものを、䞀぀ひず぀気にかけずにいられない方ずしお描かれる出だしです。続く「あなたの力は正矩の源」知恵12・16における「源」は、アルケヌ(ጀρχή)ずいうギリシア語で、単なる始たりではなく、そこから物事が発し続ける根拠そのものを指す語です。力が正矩から切り離されお独り歩きするこずなく、正矩そのものの根っこずしお力があるずいう構図がここに眮かれおいたす。

さらに「䞇物を支配する」ずいうずきの「支配する」は、デスポゟヌ(Ύεσπόζω)ずいう語で、家の䞻人を意味するデスポテヌス(Ύεσπότης)に由来したすが、この曞物では、その支配する力が「知り぀぀挑む者の高慢をずがめられる」知恵12・17)ずいう゚レンコヌ(ጐλέγχω、ずがめる・明らかにする)の働きぞず向かいたす。力を持぀方が、その力によっお裁きを急ぐのではなく、「力を駆䜿される方は、寛容をもっお裁き」知恵12・18)ずいう゚ピ゚むケむア(ጐπιείκεια、寛容)によっお民を治められるずころに、この曞物の語る神の姿がありたす。「神に埓う人は人間ぞの愛を持぀べきこずを、あなたはこれらの業を通しお埡民に教えられた」知恵12・19)ずいう結びは、神の忍耐そのものが人間ぞの倫理的な招きずなっおいるこずを瀺しおいたす。

第2朗読 ロヌマの信埒ぞの手玙 8ç« 2627節

「ロヌマの信埒ぞの手玙」は、パりロが玀元57幎ごろ、コリントに滞圚しながら、ただ自ら蚪れたこずのないロヌマの教䌚に宛おお曞いた手玙です。ナダダ人ず異邊人ずが入り混じっお圢づくられおいたこの共同䜓に向けお、パりロは自分の宣べ䌝える犏音がどのようなものであるかを、䜓系立おお説き明かそうずしおいたす。8章は、被造物党䜓がうめきながら解攟を埅ち望んでいるずいう壮倧な芖野から始たり、その延長線䞊に、人間の匱さず聖霊の働きが結び぀けられおいく箇所です。

原語で「匱いわたしたちを助けおくださいたす」ロヌマ8・26)の「助ける」にあたる語は、シュンアンティランバノマむ(συΜαΜτιλαΌβάΜοΌαι)ずいう耇合動詞です。これは「共に」を衚すシュン(σύΜ)ず、「向かい合っお支える」ずいう意味を含む語が組み合わさったもので、聖霊が遠くから芋守るのではなく、重荷の反察偎に回り蟌み、共に担っおくださるこずを瀺す動きのある蚀葉です。「“霊”自らが、蚀葉に衚せないうめきをもっお執り成しおくださる」ロヌマ8・26)ずいうずきの「執り成す」は、ヒュペル゚ンテュンカノヌ(ᜑπερεΜτυγχάΜω)ずいう語で、「䞊に、超えお」を意味するヒュペル(ᜑπέρ)ず、「出䌚う、取りなす」を意味する゚ンテュンカノヌ(ጐΜτυγχάΜω)ずが結び぀いた、この箇所にしか芋られないような匷調された圢です。たたここでの「うめき」は、ステナグモむス・アラレヌトむス(στεΜαγΌοῖς ጀλαλήτοις)ず呌ばれ、蚀葉にならない、あるいは蚀葉にできないうめきを意味したす。

「人の心を芋抜く方は、“霊”の思いが䜕であるかを知っおおられる」ロヌマ8・27)ずいうずきの「芋抜く」は、゚ラりナオヌ(ጐραυΜάω)ずいう、隅々たで探り尜くすこずを意味する語です。続く「執り成しおくださる」も同じ゚ンテュンカノヌ(ጐΜτυγχάΜω)ずいう語の系列ですが、こちらにはヒュペルの匷調はなく、聖霊が「神の埡心に埓っお」淡々ず、しかし確かに執り成し続けおいる姿が描かれおいたす。祈りが蚀葉ずしお敎わないずきにも、その内奥はすでに神に知られおおり、聖霊がそのうめきごず担っおくださるのです。

犏音朗読 マタむによる犏音曞 13ç« 2430節

「毒麊のたずえ」は、マタむ犏音曞だけが䌝えるたずえ話です。先週の「皮を蒔く人」のたずえに続く箇所で、聖曞孊の議論では、たずえ話そのもの24-30節ず、埌にむ゚スが匟子たちにその意味を解き明かす郚分36-43節、今日の朗読には含たれないずが、もずもず別の局ずしお重ねられおきたのではないかずも考えられおいたす。今日読たれるのは前半のたずえ話そのものであり、そこには、良い麊ず毒麊ずが入り混じっお育っおしたったマタむの教䌚の珟実が映し出されおいるようです。

「ある人が良い皮を畑に蒔いた」マタむ13・24)の「蒔く」は、スペむロヌ(σπείρω)ずいうギリシア語ですが、続けお敵が行う「蒔いお行った」マタむ13・25)は、単なるスペむロヌではなく、゚ピスペむロヌ(ጐπισπείρω)ずいう、「䞊に、埌から」を意味する゚ピ(ጐπί)を䌎う語です。すでに蒔かれた畑の䞊に、こっそりず埌から蒔き加えるずいう動きが、この䞀語のうちに刻たれおいたす。「毒麊」にあたるゞザニオン(ζιζάΜιοΜ)は、若い時期には小麊ずほずんど芋分けが぀かず、成長するず根が絡み合っおしたうため、途䞭で抜き取ろうずすればかえっお良い麊たで傷぀けおしたう毒草です。「僕たち」ず蚳されるドゥヌロむ(ΎοῊλοι)が「行っお抜き集めおおきたしょうか」マタむ13・28)ず申し出るずき、そこには自分たちの刀断で正しさを実珟しようずする熱心さがにじんでいたす。

これに察しお「䞻人」、オむコデスポテヌス(οጰκοΎεσπότης、家の䞻人)は、「刈り入れたで、䞡方ずも育぀たたにしおおきなさい」マタむ13・30)ず答えたす。この「育぀たたにしおおく」にあたるアフィ゚ヌミ(ጀφίηΌι)は、新玄聖曞では「赊す」を語るずきにも甚いられる語で、無理に匕き離さず、そのたた解き攟っおおくずいう響きを持っおいたす。刈り入れ、テリスモス(ΞερισΌός)の時たで、麊であるか毒麊であるかの芋分けさえも神の手にゆだねられおおり、僕たちに求められおいるのは、抜き取る刀断ではなく、䞻人ぞの信頌のうちに畑の成長を芋守るこずなのです。

カテキズム

ペリコヌぺ

刈り入れたで、䞡方ずも育぀たたにしおおきなさい

神は党おを知っおおられる

毒麊をも芋぀めおおられる父なる神

今日の犏音は、䞀぀の䞍思議な問いから始たりたす。善ず悪ずが入り混じるこの䞖界を前にするずき、人は「なぜ父なる神は悪をそのたたにしおおかれるのか」ず問い続けおきたした。今日の犏音は、その問いに人間の感情からではなく、父なる神のたなざしから答えおいたす。私たちは今起きおいる出来事しか芋るこずができたせん。しかし父なる神は、始たりから終わりたでを䞀぀の救いの歎史ずしお芋通しおおられたす。その違いこそが、人間の刀断ず神の裁きずを決定的に分けおいたす。

「人々が眠っおいる間に、敵が来お、麊の䞭に毒麊をたいお行った」ずいう出来事は、単なる蟲䜜業 の倱敗ではありたせんマタむ13・25。父なる神が良いものずしお造られた䞖界に、神に敵察する者が入り蟌み、人間を神から匕き離そうずしおいる珟実が瀺されおいたす。毒麊は偶然に生えたものではありたせん。「敵」がたいたものです。この犏音は、悪を抜象的な抂念ずしおではなく、神に反抗する存圚の働きずしお語っおいたす。

それゆえ毒麊は、ただの怍物のこずではありたせん。父なる神から離れ、悪魔の支配䞋に眮かれた人間の姿でもありたす。悪魔は、毒麊を甚いお麊ぞ絡み付き、ずもに滅びぞ匕き蟌もうずしたす。悪は決しお䞀人では滅びず、できる限り倚くの人を巻き蟌み、神から匕き離そうずするのです。そのために悪魔が怍え付ける最倧の毒麊が「自分は正しい」ずいう心です。これが高慢であり、分裂の始たりです。この高慢の根は目に芋えたせんが、心の䞭で静かに広がり、やがお人を自分自身の正矩から善悪を刀断する生き方ぞず導いおいきたす。

先週の䞻日では、同じ皮がたかれおも、受け入れる土地によっお実りが異なるこずが瀺されたした。皮が倉わるのではなく、土地が倉わるのです。今日の犏音では、その畑そのものに敵が入り蟌みたす。耳を閉ざした心は、やがお悪が根を䞋ろす堎所ずなりたす。父なる神の蚀葉を聞かなくなった人間は、自分の考えを神の蚀葉よりも優先し始めたす。そのずき、人は聖霊によっお導かれるのではなく、自分に正矩を眮き、神ではなく自分を䞭心に眮く「肉」に支配される生き方ぞず傟いおいきたす。その結果、分裂、裁き、嫉劬、高慢、共同䜓の砎壊が起こりたすガラテダ5章参照。

キリストは、そのような私たちの心の畑にも、良い皮をたき続けおおられたす。それでも私たちは、目ず耳を閉じたたたでいるず、い぀しか自分に郜合の良い声を、神の声だず思い蟌んでしたいたす。心を閉ざしたたたの私たちのずころには、い぀でも敵が入り蟌む隙がありたす。「畑には良い皮をおたきになったではありたせんか。どこから毒麊が入ったのでしょう」ずいう驚きは、二千幎前の畑だけの問いではありたせんマタむ13・27。教䌚にも眪があり、家庭にも争いがあり、自分自身の心にも神を求めながら神に背く思いがあるずいう珟実を前にするずき、誰もが同じ問いを抱きたす。「敵の仕業だ」ずいう短い答えによっお、私たちがたず芋぀めるべき盞手が瀺されたすマタむ13・28参照。

この畑の初めから終わりたでを、すべお芋通しおおられる方がそこにおられるからです。しかし、私たちは目の前の悪に耐えかねお、すぐに自分の手でそれを排陀しようずしたす。「では、行っお抜き集めおおきたしょうか」ずいう申し出は、人間の正矩から芋ればもっずも正しい刀断に思えたすマタむ13・28。しかし、それは父なる神の正矩ではありたせん。私たちは珟圚しか芋るこずができたせんが、父なる神は、その人が恵みによっお立ち垰る未来たでも芋通しおおられたす。だから悪魔が最も恐れるのは、父なる神を信頌する謙遜な心なのです。

珟代は「䞖俗化した荒れ野」であり、その荒れ野の䞭でキリストず出䌚うこずが犏音理解の出発点ずなりたすペヌれフ・ラッツィンガヌ『ナザレのむ゚ス』序文参照。今日の畑もたた、その荒れ野です。毒麊があるから父なる神がおられないのではありたせん。毒麊が生い茂る䞖界だからこそ、父なる神は埡子を遣わされたした。悪が珟実であるからこそ、救いもたた珟実なのです。「刈り入れたで、䞡方ずも育぀たたにしおおきなさい」ずいう蚀葉は、私たちの焊りを静かに制したすマタむ13・30。麊なのか毒麊なのか、育っおいる途䞭で正しく芋分けるこずは、私たちにはできたせん。無理に抜こうずすれば、これから倉わるこずのできる人たで、根こそぎ抜いおしたうかもしれたせん。同じ畑に混じったたたにされおいるのは、芋お芋ぬふりでも、いい加枛さでもありたせん。ただ実る望みのある心を、最埌たで芋捚おない父なる神の忍耐です。

教䌚は、良い麊ず毒麊ずを抱えながら歩んでいたす。教䌚は、この地䞊を歩んでいるかぎり、正しい人だけを集めた枅らかな共同䜓ではありたせん。なお途䞊にある者たちを、内に抱えたたた歩む矀れです。神の囜は、眪人を䞀人残らず取り陀いおから始たる、きれいな集たりではありたせん。あらゆる人が、この神の囜に入るように招かれおいたす。神の蚀葉が、良い土地にたかれた皮のように受け入れられるずき、その人はすでに神の囜の呜にあずかっおいたす。ただ育っおいる途䞭の人を、そのたたの姿で迎え入れる囜なのです。

神の囜は、貧しい人、小さい人たちのものです。キリストは「貧しい人に犏音を告げ知らせるために」遣わされ、かいばおけから十字架たで貧しさず枇きを味わわれたしたルカ4・18参照。そしお「倩の囜はその人たちのもの」ず宣蚀されたのですマタむ5・3。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、眪人を招くためである」ずいう蚀葉の通り、神の囜の門は、自分がただ道の途䞭にいるず分かっおいる人にこそ倧きく開かれおいたすマルコ2・17。

キリストのたずえ話は、倩の囜の秘密を隠すための謎かけではなく、聞く人の姿をそのたた映し出す鏡のようなものです。皮をたく人のたずえマタむ13・3-9参照や、畑に隠された宝マタむ13・44参照の話は、聞く人に生き方の倉革を迫りたす。蚀葉だけを聞いお分かった気になるこずず、それを受け入れお生き方を倉えるこずずは別です。今日のたずえを聞く私たちも同じように問われおいたす。自分は麊の偎に立っお毒麊を裁きたいのか、それずも毒麊のような自分を認めるのか。たずえ話は答えをすぐには教えず、私たちの心に小さな問いを残しおいきたす。

畑で働く人たちが感じた驚きは、今の私たちの驚きでもありたす。自分の教䌚や家庭に、なぜこんな困った人がいるのか、あの人さえいなければず思う瞬間は誰にでもありたす。しかし、今日の犏音は、その感じ方に静かに埅ったをかけたす。麊か毒麊かを決めるのは、私たちの圹目ではありたせん。すべおを知っおおられる神にその刀断をゆだねるこず。そこから、私たちの信仰の歩みは始たっおいきたす。以前の犏音は、耳を開いおくださいずいう願いから始たりたした。今日の犏音は、その開かれた耳で䜕を聞き取るのかを問いかけおいたす。神の声ず、悪魔の声は、はじめはよく䌌た顔をしお近づいおくるこずがありたす。だからこそ、すべおを知っおおられる方に、この刀断をゆだねる姿勢が求められたす。それが、これから続く道のりを貫く土台になっおいきたす。

毒麊であった私たちを癒すキリスト

今日の犏音が芋぀めおいるもう䞀぀の倧切な䞭心は、毒麊そのものの恐ろしさではありたせん。その毒麊を自らの手で癒されるキリストの姿にありたす。私たちは自分自身の姿を静かに芋぀めるずき、生たれたずきから党く汚れのないきれいな麊だったわけではないずいう事実に気づかされたす。私たちの心の内偎には、悪魔ずいう敵によっお、い぀の間にか毒麊の暗い根が深く入り蟌んでいたした。この毒麊ずは、単に道埳的に悪い行いをする人ずいう意味ではありたせん。それは、悪魔の支配䞋に眮かれ、神ではなく自分を䞭心に眮いお生きる「肉」に支配された人間の姿にほかなりたせん。自分に正矩を眮き、「自分は正しい」ず思い蟌む高慢な心こそが、悪魔が怍え付ける最倧の毒麊であり、共同䜓を壊す分裂や裁き、嫉劬の始たりずなるのです。悪魔はこの毒麊を甚いお、呚りの良い麊に激しく絡み付き、ずもに滅びぞず匕き蟌もうずしたす。それでもキリストは、私たちをすぐに抜き取っお滅がす方ずしおではなく、傷぀いた魂を憐れんで癒すために近づいおこられたす。「医者を必芁ずするのは、䞈倫な人ではなく病人である」ずいう蚀葉は、私たちの内にある肉の支配ずいう病に向けられた、深い慈しみを瀺しおいたすマルコ2・17。

犏音曞には、キリストに觊れようずしお我先にず抌し寄せる矀衆の姿が䜕床も出おきたすマルコ3・10、6・56参照。人々は、倧勢の䞭の䞀人になっお遠くからキリストを眺めおいるだけでは、自分たちの本圓の救いにはならないずはっきりず分かっおいたした。キリストに近づくこず、その䜓に盎接觊れるこず、そのそばに寄り添うこず。私たちが信じるずいうこずは、決しお頭の䞭の理屈や抜象的な考えだけで枈たせられるものではありたせん。それは、私たちの䜓ごずキリストぞず向かっおいく具䜓的な動きそのものなのです。私たちが今日、それぞれの生掻の堎から教䌚ぞず足を運び、ミサの行列に静かに䞊んでご聖䜓をいただくずいう䞀぀ひず぀の小さな動きの䞭にも、党く同じ信仰の願いが蟌められおいたす。自分を䞖界の䞭心に眮く肉の支配によっお、神の蚀葉に察しおも心が頑なになり、耳は聞こえおいおも本圓には悟らない私たちの姿に察しお、犏音はキリストず盎接觊れ合うこずによる決定的な転換を提瀺しおいるのです。

耳の聞こえない人のずころに来られたキリストは、その䞡耳に自らの指を差し入れ、倩を芋䞊げお深く息を぀かれたした。「゚ッファタ、぀たり『開け』」ずいう蚀葉によっお、人間の閉ざされた心を内偎から開かれたすマルコ7・34。この人が他者ずの亀わりから切り離されお耳を閉ざしおいたのは、本人の悪い心のせいではなく、生たれ぀きの病のためでした。それでもキリストは、遠くから声をかけるだけで終わらせず、その耳に盎接觊れられたした。さらに、぀ばを䜿ったり、泥を塗ったり、氎で掗ったりずいった、目に芋える物や象城的な動䜜を甚いお癒しを行われるこずも倚くありたしたペハネ9・6-15参照。病んでいる人の偎からも、必死の思いでキリストに觊れようず手を䌞ばしおいたした。「む゚スから力が出お、すべおの人の病気をいやしおいたから」ですルカ6・19。この驚くべき癒しのわざは、遠い過去の出来事ではありたせん。今もキリストは、教䌚が執り行う具䜓的な秘跡を通しお、私たちに盎接「觊れ」、私たちの心を瞛る眪や肉の支配から癒し続けおくださるのです。䞻の癒しの埡手に察しお、自らの正しさに固執する高慢を捚お、キリストに身をゆだね、その癒しに玠盎に身を任せるこずこそ、私たちが捧げるこずのできる最も謙遜な信仰の応答ずなりたす。

倚くの苊しみに心を痛められたキリストは、病人が觊れるたたにさせおおかれるだけではありたせんでした。「わたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った」ずあるように、人々の苊しみをご自分のものずされたのですマタむ8・17。「わたしが病気のずきに芋舞っおくれた」ずいう最埌の審刀における蚀葉の奥には、苊しむ人ずご自身ずを完党に重ね合わせる、深い愛がありたすマタむ25・36。ただし、キリストはこの䞖のすべおの病人をその堎で癒されたわけではありたせん。なぜなら、キリストによる病気の治療は、神の囜がすでに到来しおいるこずを瀺すための䞀時的なししるしだったからです。これらのしるしは、より根本的な癒し、すなわち、キリストの死ず埩掻による眪ず死に察する決定的な勝利をあらかじめ告げるものでした。キリストは十字架の䞊で、悪魔がこの䞖界に怍え付けたすべおの悪の重荷をご自分の䞊に背負い、䞖の眪を取り陀かれたした。病気や苊しみは、神から離れた人間の眪がもたらした結果の䞀぀の圢にほかなりたせん。キリストは十字架䞊での受難ず死を通しお、私たちの無意味に思える苊しみに党く新しい意味を䞎えられたした。苊しみはもはや滅びの呪いではなく、私たちをキリストに䌌た者ずし、キリストのあがないの苊しみに私たちを深く䞀臎させるこずができるようになったのです。今、私たちの心や䜓に痛みが残ったたただずしおも、そこで神に芋捚おられおいるわけではありたせん。むしろ、その苊しみのただ䞭にこそ、キリストが最も近くにいおくださいたす。

キリストは、私たちが自らの匱さを認めお信頌しお願う祈りを、い぀も豊かに聞き入れおくださいたす。む゚スぞの祈りは、キリストの死ず埩掻の力を先取りする奇跡を通しお、すでに地䞊を歩たれおいた宣教の掻動䞭にも数倚く聞き入れられおきたした。それは、蚀葉に出しお衚明された「ダビデの子よ、わたしたちをあわれんでください」ずいう目の芋えない人々の切なる願いだけではありたせんマタむ9・27。出血の病に苊しみながら「せめお、あの方の服にでも觊れるこずができれば」ず人混みの䞭でそっず服のすそに觊れた女性の、蚀葉にならない沈黙の祈りも等しく聞き入れられたしたマルコ5・28参照。声に出した願いであっおも、涙だけで䌝えた声にならない願いであっおも、キリストの前に区別はありたせん。

悪魔は今も毒麊を蒔いおいる

キリストが行われた奇跡は、神の囜がすでに到来しおいるこずを瀺すしるしでしたマタむ12・28参照。しかし、そのしるしを芋おもなお、高慢によっお心を閉ざし、それを悪魔の業ず決め぀ける人々もいたしたマルコ3・22参照。

奇跡そのものよりも、それを芋぀める私たちの心のあり方が、垞に問われおいるのです。む゚スが人々を飢えや病気、死ずいった様々な䞍幞から解き攟たれたのは、この䞖のあらゆる困りごずをなくすためではありたせんでしたルカ12・13-14、ペハネ18・36参照。キリストがもたらされた真の解攟は、人間を内偎から蝕む最も重倧な隷属、すなわち、悪魔の支配䞋にある眪の奎隷ずいう悲惚な状態からの氞遠の解攟ですペハネ8・34-36参照。この䞖の支配者ず呌ばれる悪の力に察する決定的な倧勝利は、む゚スの十字架の死ず埩掻においお、すでに完党に、決定的に打ち建おられたしたペハネ12・31参照。「神は朚の䞊から支配されたした」ずいう叀い賛歌の矎しく力匷い響きが告げるように、十字架は敗北の印ではなく、悪に察する絶察的な勝利の印ずなったのですノェナンティりス・フォルトゥナヌトゥヌス䜜の賛歌「王の旗は」より。悪魔は今なお、私たちの畑に毒麊の皮を蒔いお、䞀時的な混乱や苊しみをもたらすこずはできおも、キリストによっおあがなわれたこの畑そのものを神の埡手から奪い返すこずは、もはや䞍可胜なのです。

神ぞの信仰が冷え切り、生きたキリストぞの信頌を蚀葉に衚すこずさえ困難になった、今のこの䞖俗化された荒れ野のような䞖界のただ䞭にあっおも、このキリストの決定的な勝利の珟実に揺らぎはありたせん。私たちが自らの心の砂挠の䞭で、也きず誘惑にあえぎながらも、その荒れ野で生きお働いおおられるキリストを呌び求め、キリストずの生きた人栌的な結び぀きをもう䞀床深く結び盎すこず。それこそが、今この困難な時代を生きる私たちに差し出されおいる唯䞀の、そしお確かな救いの道です。悪魔が今この瞬間にもこうか぀に皮をたき続けおいるずいう厳しい珟実を盎芖するこずず、それでもなお、神の囜のほうがずっず倧きいず信じるこず。この二぀の事実は、私たちの信仰においお矎しく調和しおいたす。聖霊に埓うのか、それずも悪魔に埓うのかずいう二者択䞀の問いは、遠い歎史のどこかや他人の遞択ではなく、今日ずいう䞀日の極めお小さな刀断の䞭で、私たち䞀人ひずりの魂に厳粛に突き぀けられおいたす。

誰かを寛倧に赊すのか、それずも心の䞭で冷酷に裁き続け、憎しみの毒を育おるのか。玠盎に「ありがずう」ず䌝えるのか、それずも自分の思い通りにならない䞍満をブツブツず぀ぶやくのか。日々の生掻におけるこうした極めお小さな遞びの積み重ねが、私たち自身の畑に、神の恵みに実る良い麊を育おるのか、それずも悪魔に支配された毒麊をはびこらせるのかを決定しおいきたす。む゚スはたた、旧玄の時代に起こった出来事にも、神の囜の完成を指し瀺す党く新しい、決定的な意味を䞎えられたした。か぀お奎隷の地゚ゞプトを脱出した際の過越の食事は、キリストご自身の過越の神秘を通しお、眪の奎隷状態から人類を氞劫に救い出す新しい意味を持぀出来事ぞず高められたのです1ペハネ5・6-8参照。キリストは、パンやぶどう酒ずいった身近な自然の物や、手を眮く、あるいは䜓を掗うずいった具䜓的な身䜓の動䜜を甚いお、神の囜の恵みを今も教䌚の兞瀌ず秘跡を通しお䞎え続けおおられたす。しかし、キリストがこの䞖に来られたからずいっお、私たちが盎面するすべおの病気や、絶え間ない争い、あるいは䞍条理な苊痛が、地䞊からいっぺんに消えおなくなったわけではありたせん。病気は今も厳然ずしお残り、䞖界各地での悲惚な争いも䟝然ずしお続いおいたす。神の囜はキリストによっおすでにこの地䞊に始たっおいたすが、未だ終末における最終的な完成には至っおいないのです。畑に毒麊が残されたたたであるのず同様に、この䞖界にも、そしお私たちの歩む巡瀌の旅路にも、未だ解決の぀かない深い痛みや涙が残されおいたす。しかしながら、その痛みのただ䞭にあっお、すでに勝利しおおられるキリストが共にいおくださり、絶えず働いおおられるずいう事実を、私たちは片時も忘れおはなりたせん。

自分自身の内にある「肉」の支配や匱さに気づくたびに、自分は神に喜ばれる麊ではなく、滅がされるべき䞍実な毒麊の偎なのではないかずいう深い䞍安に襲われるこずもあるでしょう。しかし、その自らの眪を深く悔い、恐れる心の揺らぎそのものが、実は聖霊の慈悲深い働きによるものなのです。悪魔は決しお、人間を䞭途半端な堎所にはずどめたせん。悪魔は眪を犯した人間を、自らの正矩を䞻匵しお居盎らせる高慢ぞず向かわせるか、あるいは「自分はもう救われない」ず絶望させお神から遠ざけるか、そのどちらかの砎滅ぞず容赊なく匕っ匵ろうずしたす。しかし、聖霊の働きは党く異なりたす。聖霊は、私たちに自らの本圓の匱さず眪深さをはっきりず自芚させながらも、決しお絶望の闇に突き萜ずすこずはせず、神の果おしない慈愛を信頌させお、もう䞀床恵みのうちぞず立ち䞊がらせようず優しく促しおくださるのです。今、自分自身の内にはびこる毒麊の醜い根に気づいお心が深く痛み、神の赊しを求めお嘆いおいるのであれば、それは芋捚おられおいる蚌拠ではありたせん。むしろ、その痛みのただ䞭で、神の忍耐匷い愛によっお、良い麊ぞず新しく育おられおいる確かな蚌拠なのです。

神は眪人が垰っお来るこずを埅っおおられる

畑の䞻人が毒麊を今すぐ抜き取ろうずなさらないのは、畑ぞの無関心や怠慢からではありたせん。ただ倉わるこずのできる未熟な人間を、最埌の瞬間たで決しお芋捚おないずいう、父なる神の底知れない忍耐の珟れです。私たちは、目の前の悪に察しおすぐに癜黒を぀けたがり、自らの手で裁きを䞋そうずしたす。しかし、神の寛容を忘れた、焊る気持ちから生たれる人間の正矩感こそ、悪魔が奜む「肉」のわなです。「神の豊かな恵みず、忍耐ず広い心」に気づかないたた、それを軜く芋おはならないのであっお、この忍耐こそが、眪人が過ちに気づき、悔い改めぞず向かうための尊い時間を提䟛しおいるのですロヌマ2・4。この神の忍耐は、匷制的に良い麊ぞず䜜り倉えるような倖的な力ではなく、人間が自らの意志で神の愛を慕い、自発的に立ち垰るのを静かに芋守り続ける愛の深さなのです。

神が時が満ちるたで埅たれるのは、人間が立ち垰るかどうかを自分自身で遞び取るための神聖な自由を、決しお奪おうずなさらないからです。だからこそ、神に埅たれおいる慈悲の時間の最䞭にあっおも、人間が頑なに心を閉ざし続け、滅びぞず向かう遞択をするこずはなお可胜なたたです。神の忍耐を、眪人が自らの眪深さに気づき、神の赊しのうちに立ち垰るための恵みの時ずしお理解するこずは、教䌚が叀くから保ち続けおきた信仰の栞心です。私たちが「自分は正しい麊であり、あの人は排陀されるべき毒麊だ」ず決め぀けるずき、そこには悪魔が怍え付けた最倧の毒麊である「高慢」が芜吹いおいたす。自分が正しいずいう思い蟌みこそが、すべおの分裂ず共同䜓砎壊の始たりであり、これこそが神ではなく自分自身を䞖界の䞭心に眮く「肉」の支配に囚われた姿そのものなのです。

他人を毒麊だず決め぀けお排陀しようずする前に、私たちは自分自身もか぀お悪魔の支配䞋に眮かれた毒麊にすぎなかったずいう事実を、謙遜に認めなければなりたせん。人を裁こうずする高慢な思いは、自分自身もたた神の忍耐によっお生かされおいる被造物にすぎないずいう忘华から生たれたす。毒麊ずは、自らを神ず成そうずする「肉」の支配に甘んじ、悪魔の道具ずなっおしたった人間の姿です。悪魔は毒麊の鋭い根を良い麊に絡み぀かせ、ずもに滅びぞ匕きずり蟌もうず䌁んでいたす。しかし、「悔い改める䞀人の眪人に぀いお、倩には倧きな喜びがある」ずいう蚀葉の通り、䞀人の眪人が立ち垰るだけでも、倩には倧きな喜びが沞き起こるのですルカ15・7。神は、か぀お呚囲を傷぀けおいた私たちをすぐに抜き取るこずをせず、忍耐をもっお今日たで埅っおくださいたした。この圧倒的な寛容さに盎面するずき、私たちの心には、初めおたこずの悔い改めず、赊されたこずぞの深い感謝が芜生えたす。

キリストに結ばれお生きる者にずっお、地䞊での肉䜓的な死でさえも、神の忍耐ずあがないの物語の幞犏な続きずしお、倧きな意味を持ちたす。「私にずっお、生きるずはキリストであり、死ぬこずは利益なのです」ずいう告癜が瀺すように、死は暗い終わりではありたせんフィリピ1・21。「私たちは、キリストずずもに死んだのなら、キリストずずもに生きるようになる」ずいう蚀葉の通り、掗瀌によっおすでにキリストずずもに神秘的に死んでいる者にずっお、䜓の死はその死を完成ぞず運ぶ至犏の出来事ずなるのです2テモテ2・11。私たちは新しい呜に生きるために、掗瀌によっおキリストずずもに死んでおり、キリストの恵みのうちに死ぬならば、肉䜓的な死はその䞀臎を完成させ、私たちをあがないのわざに完党に組み入れたす。刈り入れが、麊にずっお埅望の実りの時であるように、旅路の果おにある死もたた、滅びではなく、神の埡手の䞭で氞遠の呜ぞず完成される恵みの瞬間なのです。

だからずいっお、䞎えられおいる今日ずいう日を、霊的な怠惰や無関心のうちに挫然ず過ごしおよいわけではありたせん。最埌の刈り入れを恐怖におびえお過ごす必芁はありたせんが、悪魔の誘惑に陥らないよう、目を芚たしお祈り続ける謙遜な姿勢は最埌たで求められたす。最埌に私たちを刈り入れる方は、私たちが皮をたかれた最初の日から、その成長を知り抜いおおられる愛に満ちた父なる神だからです。告解の郚屋の前に座るずき、私たちは自分の倱敗を垳簿のように数え䞊げお自己嫌悪に陥るためにそこにいるのではありたせん。むしろ、即座に抜き取られるこずなく、どこたでも優しく埅たれおきたずいう、神の圧倒的な忍耐そのものに觊れおいるのです。ゆるしの秘跡ずは、眪を機械的に消去する䜜業ではなく、毒麊のようであった私たちを、キリストの愛によっお実り豊かな麊ぞず優しく育お盎しおいく、あがないの物語の欠かせない䞀堎面なのです。

今日ずいう日も、その神の救いの物語の続きずしお、私たちの前に静かに開かれおいたす。先に䞖を去った人々を思うずきにも、神の忍耐ずあわれみは決しお倉わりたせん。キリストに固く結ばれお歩んだ人々にずっお、死は生呜の唐突な断絶ではなく、たかれた皮が䞀床土の䞭で姿を隠した埌に、豊かな実りを結び始めるような、神の埡手の䞭での継続的な歩みなのです。だからこそ、先に旅立った人々のために祈りを捧げ、神のあわれみにゆだねるこずには、深い霊的な意味がありたす。刈り入れずいう蚀葉が審刀の響きを持っお迫るずしおも、キリストに結ばれた魂にずっおは、神の囜での完党な䞀臎ずいう垌望の響きずなりたす。私たちのすべおを知り、愛しおくださる方に、人生の時間ず終末を党面的にゆだねるこず。それこそが、神が備えおくださった忍耐のなかで、私たちが生きるべき最も矎しい姿なのです。

感謝゚りカリスチアが私たちを育おる

毒麊の絡み぀くような暗い根をなお自らの内に抱えたたた、日々の葛藀の䞭に生きる私たちは、このように神の深い忍耐によっお埅たれ、キリストの慈悲によっおゆるされながら、聖霊の働きによっお少しず぀、しかし確実に良い麊ぞずいやされ、育おられおいたす。教䌚が日々絶えるこずなくキリストの蚘念である゚りカリスチア感謝の祭儀を捧げ続けおいるのは、このキリストの限りないあがないの歩みに察する、私たちの最も深い信仰の応答にほかなりたせん。感謝は、宗教的な矩務ずしお行う習慣ではありたせん。自らが悪魔の支配から救い出され、キリストの恵みによっお豊かにゆるされたずいう、驚くべき救いの事実そのものを、自らの党生涯をもっお生き抜く姿勢なのです。

「あなたの持っおいるもので、いただかなかったものがあるでしょうか」ず䜿埒が問いかけるように、私たちが日々享受しおいるすべおの呜や時間は、䜕䞀぀ずしお自らの力で勝ち埗たものではありたせん1コリント4・7。それは初めから神の無条件の慈愛によっお莈られた恵みの賜物でした。「神は私に報いおくださった。私はどのように答えようか」ずいう詩線の問いかけに察する真実な答えは、自らの力で䜕か倧きな業瞟を差し出すこずではありたせん詩線116・12。ただ、神の前にひざたずき、おそれず喜びをもっお感謝を捧げるこず、ただそれだけなのです。

神の囜は、自らの正しさを誇る完璧な者だけを集めた堎所ではありたせん。か぀お悪魔に支配され、䞍和ず分裂の根を匵る毒麊にすぎなかった私たちに察しお、キリストは今も倉わらず、埡蚀葉ず秘跡を通しお深く觊れ、傷぀いた霊魂を絶えずいやし続けおくださっおいたす。悪魔がどれほど絶えず私たちの畑に毒麊を蒔き、人間を滅びの闇ぞず匕きずり蟌もうずしおも、キリストの十字架によっお決定的に打ち建おられた神の囜の光のほうが、はるかに力匷く茝いおいるのです。隣人を自らの狭い正矩感で裁く前に、たず自分自身がどれほどの眪を抱え、それでもなお神の忍耐匷い愛に生かされおいるかを認めるこず。この神のあわれみに満ちた巡瀌の旅路においお私たちが捧げ埗る最も矎しい祈りは、ただ感謝するこずだけなのです。

悪魔が私たちの魂に怍え付けようずする毒麊ずは、䞍平䞍満や自分こそが正しいずする傲慢、他者に察する容赊のない裁きです。自分ず呚囲を絶えず比范する䞍毛な比べ合いや、隣人の恵みをねたむ心も、悪魔が奜む「肉」の支配にほかなりたせん。自分を䞖界の䞭心に眮く「肉」の生き方は、必ず家庭や共同䜓に分裂をもたらしたす。これに察しお、聖霊が私たちの内に育おようずする尊い実りこそが、あらゆる出来事の䞭に神の恵みを芋出す感謝です。感謝する人こそが、悪魔の誘惑を退け、神の愛に実を結ぶ、たこずの良い麊ずしお力匷く育っおいくのです。

「パンは䞀぀だから、私たちは数は倚くおも、䞀぀の䜓なのです。皆が䞀぀のパンを分けお食べるからです」ずあるように、ミサで䞀぀のキリストの䜓を分け合う神秘的な行為は、本来ばらばらであった私たちを、䞀぀の神聖な䜓ぞず固く線み䞊げおいきたす1コリント10・17。感謝に生きる歩みは、祭壇の䞊での分かち合いの恵みを、日垞の極めお平凡な暮らしの隅々にたで、豊かに行き枡らせおいく具䜓的な歩みなのです。

「どんなこずにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・む゚スにおいお、神があなたがたに望んでおられるこずです」ずあるように、感謝ずは良いこずが起こった時だけの条件付きの感情ではありたせん1テサロニケ5・18。いかなる困難に遭遇しようずも、その背埌にある父なる神の慈悲深い忍耐ず倧いなる救いの歎史を信頌する、揺るぎない生き方そのものです。倚忙さに心を奪われ、私たちの祈りが也ききっおしたうような寂しい日にこそ、「目を芚たしお感謝を蟌め、ひたすら祈りなさい」ずいう䜿埒の勧めが、私たちの疲れた魂に静かに戻っおきたすコロサむ4・2。

自分の蚈画が思うように進たなかった䞀日、傷぀き、倱望し、涙をこらえた䞀日であっおも、それらの時間は決しお感謝から芋捚おられ、締め出されおいるわけではありたせん。むしろ、そのような詊緎に満ちた暗闇の䞀日にこそ、私たちは神の沈黙を信頌し、それでも「ありがずうございたす」ず感謝をささげるこずができるかどうかの、静かな信仰の詊みがなされおいるのです。

感謝の祈りは、特別な兞瀌のためだけにあるのではなく、私たちの日垞ず深く繋がっおいたす。家庭での手仕事も、職堎での地道な劎働も、誰かのためにささげる隠れた劎苊も、すべおがキリストぞの感謝ず結ばれ、十字架のあがないに参䞎する歩みずなっお、キリストの十字架のあがないに䞀臎させられおいるのです。䞀日のどこかで䞀瞬でも、静かに手を合わせ、日々の恵みを思い起こしお「ありがずうございたす」ず父なる神に䌝える時間を倧切に持っおみおください。私たちはもはや、悪魔の支配に囚われお無残に抜き取られるだけの毒麊ではありたせん。神の忍耐によっお埅たれ、キリストの十字架の流血によっおゆるされ、聖霊によっお倧切に育おられおいる途䞊の麊ずしお、今日を確かに生かされおいるのです。

私たちの心の内に朜む高慢を、キリストのゆるしによっお新しくしおいただきたしょう。神の忍耐によっお育おられ、キリストの愛によっお実りを結ぶ歩みは、ミサのたびに新しく䞎えられおいたす。䞍平や裁きではなく感謝を遞び、キリストを芋぀めながら、喜びのうちに信仰の歩みを続けおいきたしょう。

いいなず思ったら応揎しよう