日々俳句鑑賞425 「新米の其一粒の光かな」 高浜虚子
秋というと、どこか寂しさを帯びた季節として詠まれることが多い。しかし、この句の秋には、その寂しさがない。
茶碗に盛られた炊きたての新米。一粒一粒がふっくらと立ち、その中の一粒に目が留まる。
「新米の一粒」ではなく、「其一粒」。
まるで、目の前の一粒を指差すようである。
そして、
「其一粒の光かな」
と来る。
ここがこの句の面白いところだ。
「一粒が光っている」とは言わない。
一粒の「光」である。
外から光を受けて輝いているのではない。その一粒そのものが、光になっている。
しかも、一粒に目を凝らすことで、茶碗いっぱいの新米まで見えてくる。一粒を鮮明にすることで、無数の粒すべてが光を宿しているように感じられる。
小さな一つに光を当てることで、多を輝かせる。
そして、この「光」は単なる米の艶ではない。
新米とは、秋の実りである。
春から夏を越して育った稲が、実を結び、収穫され、いま炊きたての一粒になっている。そこには、季節を生き抜いて実ったものの充実がある。
だから、この句の秋は、寂しさの秋ではない。
実りの秋。
結実したものが放つ、生命の光である。
秋という季節が、一粒の米にまで凝縮され、その一粒が光そのものになる。
虚子が見つめたのは、新米の一粒。
しかし、その一粒に、秋の実りが光っている。
季語解説参照・例句引用:『角川俳句歳時記 第五版』
