名画鑑賞 1 『生きる』 黒澤明

※本記事は、映画『生きる』の結末や演出に関する重大なネタバレを含みます。未見の方はご注意ください。

『生きる』は、死を宣告された一人の市役所職員、渡辺勘治の物語である。だがこの映画は、単なる「余命もの」でも、「感動の人生讃歌」でもない。むしろ黒澤明は、一人の人間が、人生の終わりになって初めて「本当に生き始める」瞬間を描こうとした。

主演の志村喬が圧倒的である。長年役所の机に埋もれ、書類のように生きてきた男。その疲労と諦念が、顔や背中から滲み出ている。しかし映画は、ただ暗い絶望へ向かわない。

そこへ現れるのが、若い女工の生命力である。彼女は、陽気に笑い、軽やかに動き、「生きるって面白いじゃない」と身体全体で語っているようだ。黒澤映画はしばしば、異なるエネルギーの衝突によってドラマが生まれる。この映画でも、死へ向かう渡辺の静かな絶望に、若い生命の光がぶつかることで、止まっていた人生が再び動き始める。

特に忘れ難いのは、喫茶店の二階の場面である。暗く座る渡辺。若い女工とのやりとり。渡辺の言葉にならない焦燥。たじろぎなからも真摯に答える女工。鬼気迫る2人演技。その背後に見知らぬ人々が誕生日をお祝いする準備をしている。女工はウサギのおもちゃを出して「ただ私はこんなもの作ってるだけ。課長さんもなんか作ってみたら」。渡辺の絶望の顔に希望の光が差し立ち上がる。足早に階段を下りる。「ハッピーバースデー」が流れている。一歩間違えば臭くなりかねない演出だが、志村喬の存在が、それを超えてしまう。他人たちの祝祭の歌声が、死を前にした男を、逆に「生」の側へ押し戻していくのである。翌日長く無断欠勤していた渡辺は出勤する。書類の山から町の婦人連合会による「暗渠修理及埋立陳情書」を探し出し動き始める。渡辺は新たに誕生した。

そして場面は、誕生日から葬式へ転じる。

ここが『生きる』の凄みである。普通の映画なら、主人公の達成を直接称えるだろう。しかし黒澤は、渡辺の死後、周囲の人間たちの曖昧な会話の中で、その人生を浮かび上がらせる。社会は変わらない。役所もまた元へ戻る。それでも渡辺は、自分のやるべきことをやった。貧しい人々のために公園を作り、役人としての矜持を最後に取り戻したのである。

この映画は、実に俳句的でもある。

黒澤は人生論を語らない。雪の夜、公園のぶらんこに揺られる渡辺の姿を置くだけだ。しかしその小さな具体の中に、人間の生のすべてが封じ込められている。

大きな英雄ではない。世界を変えたわけでもない。ただ一つの小さな仕事を、初めて本当に誰かのために成し遂げた。その静かな達成が、観る者の胸にいつまでも残る。

『生きる』とは、死の映画ではない。
人間が、ようやく自分の人生を生き始める映画なのである。


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