クリスチャンになると苦しみが増えるのは何故。
クリスチャンになると、人生は思ったようにはいかなくなる。
けれども、思った以上になる。この繰り返しではないかと思う。
日本人の宗教観の根底には、どこかに「無病息災・家内安全」がある。
病気をせず、災いを避け、家族が無事で、穏やかに暮らしたい。
その願いは、決して間違っていない。むしろ、とても人間らしい願いである。
教会の門を叩き、「洗礼を受けたい」と願う人々の中にも、少なからず同じ思いがあるはずだ。病気から解放されたい。人間関係の苦しみから救われたい。経済的な不安。孤独。喪失。行き詰まり。様々な生きる痛みが、人を教会へと導く。
だからこそ私は、牧師として必ず伝えることにしている。洗礼を受けても、「無病息災・家内安全」が与えられるわけではありませんよと。むしろクリスチャンになると苦しみが増えることさえある。聖書が示す価値観と、この社会が当然としている価値観との間にずれが生まれるからである。
クリスチャンになってから病を患う人がいる。
大切な家族を失う人がいる。教会の中で傷つく人がいる。
それらを同時にいくつも経験する人もいる。
私自身もそうだった。夢を諦めることがあった。
大事な人間関係を失うことがあった。
思い描いていた人生から遠く離れていき、キリスト教とは無縁の世界で生きた方が、はるかに幸せだったのではないかと感じたことが、幾度となくあった。
クリスチャンになるとは、人生の試練を避けることではない。それらをすべて取り除いてもらうことでもない。それでも、なぜ、クリスチャンとなるのか。
マタイによる福音書10章で、イエスは選んだばかりの弟子たちに、その現実を告げている。それは、狼の群れの中に羊を送り出すようなものだと。
「わたしが来たのは、地上に平和をもたらすためだと思ってはならない。
平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。」イエスに従う道は、ときに私たちが守ろうとしてきた平和や調和を揺さぶる。
社会的な繁栄を第一にしない。
自分の利益を第一にしない。
家族や友人や共同体との関係よりも、まず神との関係を第一にする。
だから当然、生きにくくなる。
安心して過ごしていた場所に、不和が生まれる。
親しい人との距離ができる。
孤独が深まる。
それでも、なぜ、クリスチャンとなるのか。なぜ、あえて苦しみの渦の中へ入っていくような生き方を選ぶのか。
それは、そこでこそ、キリストと共に苦しみ、キリストと共に生きる道があるからである。
人生の嵐の中で、キリストは共に苦しむ。
共に倒れる。そして、復活したイエスと共に立ち上がる。
クリスチャンになること。洗礼を受けること。それは、苦しみのない人生に入ることではない。苦しみの中で、キリストと共に生き、そしてその中に他者を招き、支えをつくり続ける道なのだ。
イエスは、社会的な地位も力も小さい者たちを選び弟子とした。
「小さな者」たちである。※「小さな者」は、ギリシャ語の mikros に由来する言葉で、「小さい」「弱い」「取るに足りない」「低い立場の」という意味を持つ。
小さいからこそ、人は大きな神の力に頼るようになる。
弱さを知っているからこそ、弱い人のそばに立てる。
痛みを知っているからこそ、痛む人の声を聞くことができる。
限界を知っているからこそ、限界の中にいる人と共に悩むことができる。
小さな者は、その小ささを通して、人を癒し、支え、立ち上がらせる者へと変えられていく。
クリスチャンになると、人生は思ったようにはいかなくなる。
けれども、思った以上になる。この繰り返し。
だからこそ私は、今日も人々をクリスチャンの道へと招いていくのだ。
