何をやっても『ダメな人』ほど、こころが温かい。『完璧な人』には一生わからないお話。
壊れたタイマーと、金曜日のアップルパイ
正解という名の息苦しい透明な部屋
画面の中で、
折れ線グラフが冷たく上下を繰り返している。
エンゲージメント率、クリック単価、CVR。
都内のWEBマーケティング会社で働く結衣(28歳)の世界は、
朝起きてから夜眠るまで、
すべて「1分1秒の効率」と「数字」で
細かく切り分けられていた。
「このプロモーション動画、
1.5倍速で再生しても要点が残るようにテロップ詰めておいて。
無駄な間(ま)や空白は全部カットでお願い」
「あ、はい。すぐ対応します」
先輩の乾いた指示に、
キーボードの打鍵音だけで短く答える。
毎朝の通勤電車に乗り込めば、
隣に立つ就活生がAIの提示する
「おすすめ求人」を
死んだような目つきで高速スクロールしている。
オフィスに到着すれば、
配属されたばかりの新人が
「調べれば一瞬で分かる効率的な業務手順書」を渡され、
自らの頭で迷ったり失敗したりする隙間すら
奪われて作業をこなしている。
画面を開けば、
SNSには「最短で成果を出す方法」や
「タイムパフォーマンスを劇的に上げる生活術」
といった、
鋭い刃物のような言葉が
溢れかえっていた。
「早く、正しく、無駄なく」
損をしない完璧な選択を重ね、
失敗のない最短距離を
走り続けているはずだった。
けれど、
そうやって選択肢を削ぎ落とせば落とすほど、
胸の奥は砂漠のようにからからに乾き、
いつからか浅い息しか
吸えなくなっていた。
何か大切なものを、
自分の手でひとつずつゴミ箱に捨てているような、
静かな息苦しさ。
金曜日の夜、
小雨が降りしきる路地裏へと
逃げるように足を踏み入れた結衣は、
シャッターの降りた静かな商店街の端っこに、
ぽつんと琥珀色の温かい
明かりが灯っているのを
見つけた。
ガラス扉の上には、
かすれた金色の文字で
『テンプス』
と書かれている。
吸い寄せられるように
取っ手に手をかけると、
カラン、
と澄んだ真鍮の鈴が
店内へ優しく響いた。
「毎日ちがう時間」を刻む、ちいさな機械
「いらっしゃい。外は冷えるでしょう」
奥から現れたのは、
白いエプロンをつけた初老の店主だった。
店内に一歩足を踏み入れた瞬間、
香ばしいシナモンの香りと、
発酵バターのまろやかで甘い香りが
結衣を包み込んだ。
木製の小さな陳列棚には、
飴色に焼けた焼き菓子が
ほんの少しだけ
並べられている。
「あの……まだ大丈夫ですか?」
「ええ、ちょうど明日のパイ生地を仕込んで、
寝かせようとしていたところですよ。
よければ、
温かいお茶でも飲んでいきませんか」
店主はそう言って、
カウンターの奥から手焼きの
不揃いな陶器のカップを取り出した。
結衣は少し躊躇しながらも、
使い込まれた木の丸椅子に
深く腰掛けた。
ふと作業台を見ると、
そこには最新のデジタルスケールや
液晶画面のタイマーの姿はなかった。
代わりに置かれていたのは、
真鍮の金属部分が鈍く光る、
手のひらサイズの
ぜんまい式キッチンタイマー
だった。
店主がカチカチカチ、
と手首を回してネジを巻き上げると、
静かな店内に
「チクタク、チクタク」と、
どこか不揃いで間の抜けたような
規則正しい音が広がり始めた。
「あの……それ、ゼンマイですか?」
つい問いかけると、
店主は愛おしそうにその
小さな機械の頭を撫でた。
「そうですよ。もう四十年近く一緒にいる相棒です。
ただね、こいつは本当に気まぐれでね。
しっかりネジを巻いたつもりでも、
部屋の寒さやゼンマイの機嫌で、
毎日ちょっとずつ時間がズレるんです」
「えっ……ズレるんですか?」
結衣は思わず目を丸くした。
「ええ。昨日は32秒遅れたし、
今朝は1分半も早く鳴ってしまってね。
デジタルみたいに
『絶対に正確な三十分』なんて、
一度も刻んでくれたことがない」
結衣の頭の中に、
冷たい衝撃が走った。
1秒の狂いもなく正確に時間を刻み、
少しの誤差も許さない
スマートフォンのタイマー。
それに比べて、
この機械は「時間を測る道具」として
不完全そのものではないか。
「そんなに誤差があるなら……
タイマーの意味がないんじゃないですか?
お菓子作りって、時間が命ですよね」
質問というより、
動揺に近かった。
効率と正確さだけを信じて
自分を締め上げてきた結衣にとって、
その「適当さ」は
恐怖すら感じさせたのだ。
けれど店主は不快な顔ひとつせず、
目元に優しい皺(しわ)を刻んで
ふっと笑った。
不完全だからこそ、体温が宿る
「確かに、寸分の狂いもない正解を求めるなら、
デジタルの方がずっと優秀です。
でもね、生地の状態だって毎日違うんですよ。
湿度が高い日もあれば、
粉が冷えている日もある。
それなのに、
時計だけが完璧な正解を突きつけてきたら、
私たちは
自分の手や目の感覚を
信じなくなってしまうでしょう?」
店主はそう言って、
作業台の上で冷えたバターと生地を
丁寧に折りたたんでいく。
「それにね、
このチクタクという不器用な音を聞いていると……
『ああ、今日もこの子は不完全に、
一生懸命時間を進めているんだな』って
思えるんです。
きっちり一秒狂わず進む時間って、
なんだか人間を追い詰めるでしょう?
でも、このズレる時間の中にいると、
不思議と『少しくらい間違えてもいいんだ』って、
心が緩むんですよ」
チクタク、チクタク。
少しずつテンポが遅くなったり、
急に思い出したように
刻みが早くなったりする機械音。
その「曖昧で、不完全なゆらぎ」に
耳を澄ませているうちに、
結衣の身体から、
すーっと余計な力が
抜けていくのが分かった。
スマホの画面を見るたび、
結衣は「1分1秒を無駄にするな」
「最短距離で成果を出せ」と
常に監視されているような圧迫感を感じていた。
完璧なシステム、狂いのない正解。
それらに追いつめられ、
息を詰めて生きていたのは
自分自身だったのだ。
「私……ずっと、失敗するのが怖かったんです」
名前も名乗っていない初対面の店主に向かって、
気づけば「言の葉」がこぼれ落ちていた。
店主もまた、
結衣の名前を尋ねようとはせず、
ただ静かに作業の手を止めて
耳を傾けてくれた。
「最短距離で
正解を出さなきゃいけないって、
数字やデータに遅れないように必死で……。
予定通りにいかない自分や、
遠回りする自分を、
ずっと責めていました」
チクタク、チクタク。
不揃いな音が、
二人をつなぐ静かな空間を
優しく満たしていく。
「人間はね、精密機械じゃないんだから」
店主は温かい声で言った。
「毎日同じように
完璧に動ける人間なんていませんよ。
日によって気分が乗らなかったり、
途中で迷って遠回りしたりする。
でもね、
その『思い通りにいかない不完全な時間』の中にしか、
その人だけの体温や、
生きてきた手触りは
残らないんです」
店主は使い込まれた作業台を撫でた。
「効率や正解の物差しから見れば、
それはただの『誤差』や『無駄』に
見えるかもしれない。
けれど、
時間をかけて
手探りで過ごした不器用なプロセスこそが、
誰にも奪えないあなただけの
大切な資産なんですよ」
ジリリリリ、
と間の抜けた金属音が店内に響いた。
設定した時間より、
きっと少し早く鳴ったのだろう。
けれど、
店主がオーブンから取り出したパイは、
ふんわりと金色に膨らみ、
豊かなバターの香りを
店内いっぱいに広げていた。
完璧じゃない時間の、豊かな味わい
「さあ、焼き立てです。召し上がれ」
差し出されたお皿から、
フォークで端を一口切り取る。
サクッ、と音を立てて生地が崩れ、
口の中にシナモンの香りと、
じっくり煮詰められた
リンゴの甘酸っぱさが広がった。
「……おいしい」
サクサクとした
何十層もの生地の重なりを感じるたび、
胸の奥の固く結ばれていた結び目が、
ふっと解けていくのが分かった。
名前も知らない店主の前で、
結衣の目からポロポロと
温かい涙が溢れ出て、
止まらなくなった。
1秒の誤差も許さないデジタルの中には
絶対に存在しない、
「曖昧で、温かい手触り」が、
この少し形の歪な
アップルパイには詰まっていた。
「おいしいです……すごく、温かいです」
「それはよかった。
今日という時間には、
今日だけの味わいがありますからね」
店主は満足そうに目を細め、
温かいお茶を静かに
注ぎ足してくれた。
帰り道、
小雨は完全に上がっていた。
結衣のバッグの中には、
小さな紙箱に入ったアップルパイの切れ端と、
あの古びたぜんまい式タイマーが
入っている。
スマートフォンを開けば、
相変わらず1秒単位で更新される通知や、
効率を煽るニュースが画面を埋め尽くしている。
明日からもきっと、
オフィスへ行けば正確さと
成果を求められる現実は
変わらないだろう。
けれど、結衣はもう、
あの完璧すぎる時間に
心を明け渡したりはしない。
コートのポケットの中で、
結衣は静かにタイマーのネジを少しだけ回してみた。
カチ、カチ、カチ。
手のひらに伝わるゼンマイの心地よい抵抗感と、
不揃いなチクタク音。
明日は数分、遅れるかもしれない。
あるいは早く鳴ってしまうかもしれない。
けれど、その「毎日違う誤差」を
愛せる余白こそが、
私という人間を
もう一度呼吸させてくれるのだ。
結衣は夜の澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込み、
不完全で愛おしい自分の時間へと、
確かな足取りで歩き出した。
唐栗こころ
「がんばらない」
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【だらだら倶楽部】
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仕事に、家事に、人間関係――。
私たちはいつの間にか、
「効率よく」「完璧に」こなすことばかりを求められて、
心の中にたくさんのざわめきを
抱え込んでしまいがちです。
でも、
ここには「正解」も「成果」も
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