最後のぬくもり――還る校庭
暑い夏の日に、冬の大阪下町へ帰ってみませんか。
境界線の街
近鉄電車の改札を出ると、肌を刺すような冬の風が、志村孝の白髪を揺らした。 86歳。幸いにして体は十分に動く。
しかし、人生の残り時間をふと考えたとき、胸の奥から急激にせり上がってきたのは、大阪市の東の端、あの泥臭くも愛おしかった小学校時代の記憶だった。
孝にとって、あの頃の風景は「小学校」を境界線として、綺麗に二つの世界に分かれていた。
校門から東側は、長屋の二階建てや、ガタガタと音を立てる下請けの町工場がひしめき合う、濃密な泥臭さに満ちた世界。対して西側は、二十坪ほどの長屋がひしめき合う、一般の住宅を中心とした世界。
大人の目から見ればどちらも似たような下町だったかもしれないが、当時の孝にとって、東と西はまるで異なる空気が流れる「異世界」のような差があった。
進学校へ進んでからは、誰もが明らかな貧富の差にコンプレックスを抱いたものだが、あの小学校のある近隣の地区は、貧しいなりに皆同じような境遇で、家庭の差を意識することのない世界だった。
東の工場町、西の住宅街、孝ら五人は、そんな違いなど気にもせず遊んでいた。
孝は懐かしい記憶をなぞるように、まずは「東側の世界」へと足を向けた。
最初に訪ねたのは、中田勉君の家があった場所だ。 今はありふれた三階建ての建売住宅になっているが、かつてそこは、下請け工場を兼ねた古い長屋だった。
油まみれの手で機械を回し、威勢のいい声で職人たちと家族を切り盛りしていた、あの肝っ玉母さんの顔が浮かぶ。中田君とは、二人だけの秘密の単語を作って暗号遊びをするのが、何よりの愉しみだった。
その少し先、静かな一角に家田友里恵さんの家があった。 クラス一番の秀才で、孝が淡い憧れを抱いていた彼女の家は、ある有名な落語家の家が並ぶ長屋の近くにある、どこか風情のある一軒家だった。今は敷地の大きさだけを残して、別の真新しい家が建っている。
さらに歩き、自転車のチエーンやブレーキの部品を作っていた山中幸一君の町工場跡へ向かう。 いつも鉄を削る火花と油の匂いが立ち込めていたその場所も、今はただのコインパーキングになっていた。
運動が得意で、ドッジボールの時はいつも孝たちのリーダーだった山中くん。機械の音に負けないくらい大きな彼の笑い声が、耳の奥で再生される。
(東側は、みんな、もう跡形もないな……)
孝は歩みを進め、小学校の北側を、いったん国道まで出て「西側の世界」へと入った。
西側に入ると、不思議とあの頃感じていた「少し澄んだ空気」の記憶が蘇る。 西へ進み、再度南へ下っていくと、坂本道代さんの家があった場所へ辿り着く。
彼女の家は、この界隈では少し間口の広めな土間のある家だった。孝と坂本さんの親同士が幼馴染だったこともあり、子供同士もなんとなくいつも一緒にいて、クラスの連中からは「お前ら好き同士やろ」とからかわれていた。仲は、とても良かった。
そして最後に、かつて自分の家があった場所を確認する。職人で酒飲みの父とどちらかと言うと控えめな母、そして三歳上の姉との四人暮らし、小さな家だったが、玄関前のわずかな地面に真っ赤なカンナの花が咲いていたのを今も覚えている。
どの家も、建物そのものは70年以上の歳月を経て建て直されている。長屋だったのが、三階建の戸建てに変わり、ただ、敷地の広さだけが、あの頃のパズルのピースのようにそのまま残っているのが、妙に切なかった。
失われたランドマーク
孝は再び、街の中心である小学校の前へと戻ってきた。 しかし、そこにあったのは変わり果てた光景だった。
通学路の最大のランドマークであり、毎日夕方になると街に湯気を振りまいていた、あの風呂屋「松の湯」がない。
そこには冷たい会社のビルがそびえ立っていた。小学校のすぐ隣にあった歯医者は、もはや開業当時の面影はなく、錆びついた看板だけを残して、ボロボロに朽ち果てた廃屋として放置されている。
何より、校門をくぐった先の光景に、孝は言葉を失った。 かつて門をくぐれば、目の前には広大な土の運動場が広がり、右手には小鳥たちの囀るバードゲージ、左手には放課後に肝試しをして遊んだ、あの薄暗くておどろおどろしい木造校舎がそびえていた。
だが今、孝の視界を塞いでいるのは、運動場を潰して建て増しされた、コンクリートの鉄筋校舎だった。古い木造校舎のあった場所は、無機質な新しい校舎へと繋がって消えていた。
「時代は、変わってしもたんやな……」
ぽつりと言葉が漏れた。 諦念と寂しさを抱えながら歩いていると、不意に、帰り道によく通った一本の細い路地が目に留まった。 周囲がアスファルトで固められる中、そこだけがなぜか、黒々とした土の地面を晒している。
各家の不要になった甕(かめ)や古道具が雑然と置かれた、あの頃のままの薄暗がり。悪ガキたちが「冒険」と称して、甕の蓋をこっそり開けたり、いたずらしながら帰った、ジメッとした路地だ。
吸い寄せられるように、孝はその路地へ一歩を踏み出した。 その時、湿った土に足をとられ、身体が宙に浮いた。 あ、と思う間もなく、世界が激しく回転し、孝の意識は深い闇の底へと沈んでいった。
薄氷(うすごおり)のぬくもり
……冷たい。 じわじわと体中を侵食してくる強烈な寒さに、僕は目を覚ました。 身を起こすと、手のひらにざらりとした感触がある。泥ではない。白いもの――雪だ。地面のあちこちに、うっすらと雪が残っている。
驚いて周囲を見回すと、すぐ傍らに、見覚えのある古い土甕が置かれていた。 甕のなかの水には、見事な薄氷が張っている。冬の朝、学校へ行く途中に、これを指先でそっと剥がし取るのが僕の何よりの愉しみだった。
寒さも忘れ、僕は夢中になって薄氷の端を爪ですくい上げた。パリパリと、ガラスよりも繊細な音を立てて、美しい氷の結晶が手のひらで解けていく。
「冷た……っ」
その冷気で完全に覚醒した僕は、路地を抜けて表通りへと飛び出した。
「おっしゃ、安いよ安いよ! 蜜柑、買うてってや!」
耳を疑った。さっきまで静まり返っていた街に、果物屋のおっちゃんの野太い声が響き渡っている。
その向かいの文房具店。さっきは看板だけだったはずの店が、ちゃんと引き戸を開け放ち、店先には色とりどりのノートや色鉛筆が並んでいた。奥の薄暗い帳場には、いつものおばあちゃんがちょこんと座って編み物をしている。
小学校の隣の歯医者の家も、まるで今日開業したばかりのようにピカピカの白壁を取り戻していた。
心臓が早鐘を打つ。僕は学校の前へと走った。
「松の湯」の青い暖簾が、冬の風にパタパタと揺れている。 その前には、もうもうと白い湯気を立てる屋台。出汁と薄口醤油、そして大根とじゃがいもが混ざりあった、たまらない匂い――帰りに買食いをしては先生に見つかり叱られた「関東だき」の匂いだ。
そして、小学校の校門。 僕が息を切らせて駆け込むと、そこには鉄筋の壁などひとかけらもなかった。
右手に小鳥たちの羽ばたくバードゲージ。左手には、夕暮れには怪談の舞台となる、あのボロボロの木造校舎。運動場の向こう側には、あの頃のままの給食室の建物が佇み、どこまでも平らな、僕たちの運動場が広がっていた。
校庭には、おかっぱ頭やお下げ髪の女の子たちと、坊ちゃん刈りやスポーツ刈りの男の子たちが、砂埃を上げて縦横無尽に走り回っている。
「志村君―――! こっちやで!」
甲高い、鈴を転がすような声が僕を呼んだ。 振り返ると、校門のすぐそばに、あの頃の姿のままの坂本さんが立っていた。 彼女は白い息を吐きながら、心底嬉しそうに、僕に向かって大きく手を振っている。
「もう、みんな来て、志村くんのこと待ってたんやで」
坂本さんが振り返り、運動場の真ん中を指差す。 そこには、今にもドッジボールを投げつけてきそうな、悪戯っぽい目を輝かせた山中くんがいた。
その隣では、中田くんが僕たちにしか分からない暗号の呪文をブツブツと呟きながら、ニヤリと笑っている。
さらに一歩引いたところから、いつも通り聡明で、凛とした瞳で僕を真っ直ぐに見つめている、憧れの家田さんの姿があった。
「家田さんもな、この前からずーっと、一緒に待っててんよ。さあ、はよ遊ぼ!」
坂本さんが僕の手を引く。その手は驚くほど温かかった。
その時、 はるか遠く、世界の外側のような場所から、奇妙な音が聞こえた気がした。
ピーポー、ピーポー、ピーポー…… 聞いたこともないような、冷たくて、規則正しい機械のサイレン。 誰かが僕の名前を呼んでいるような、騒がしい大人の声。
(……なんやろ、あの音)
僕は一瞬だけ足を止め、遠い空を仰ぎ見ようとした。 けれど、僕の腕を引く坂本さんのぬくもりと、山中くんが掲げたドッジボール、そして家田さんの優しい微笑みが、僕のすべてを惹きつけて離さない。
「今行くわ!」
僕はサイレンの音に背を向けた。 重かったはずの身体は羽のように軽く、僕は一歩、懐かしい土の運動場へと踏み出し、仲間たちの待つ光景の中へと、全力で駆け出していった。
(了)
こちらに一話完結の短編小説を集めています。
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