肢体を奪われた桜子の表情
第一章 路地裏のバーで
夜の十時を回ると、路地裏のバー「シエル」のカウンターは、いつもどこか湿り気を帯びた空気に満たされる。ガラス細工のランプから落ちる橙色の光が、磨き抜かれた木目を柔らかく撫でていた。
「桜子さん、今日の酒は少し甘めにしましょうか」
マスターの佐伯が、低い声でそう囁く。彼はグラスを拭く手を止めず、チラリとこちらを見た。その視線には、長年この店で様々な男たちを見てきた男特有の、諦念と観察眼が混ざり合っている。
「お願いするわ。少し、胸の奥が渇いているの」
私がそう答えると、店の隅のテーブル席から小さな衣擦れの音が聞こえた。
そこには、小一時間ほど前から一人でブランデーを傾けている男がいる。名は神谷。出版社の編集者だと名乗っていたが、私にとっては、私から何かを奪い取る愉しみを持つ支配欲を満たしたい男性の一人に過ぎなかった。
神谷は、私がカウンターの端でノートを開くたび、その手元を食い入るように見つめてくる。彼の視線は私が紡ぎ出す「言葉」そのものを撫でまわすことで、私そのものを掠め取りたいように感じた。
「千葉さんの新刊の詩集、読みましたよ」
神谷がグラスを持ち上げ、ゆっくりと私の隣の空席へ移動してきた。彼の纏う煙草と柑橘系のコロンの香りが、一瞬だけ鼻腔をくすぐる。
「ありがとう。どうだった?」
「罪な文章ですね」
神谷は自嘲気味に微笑み、氷の溶けかけたグラスを唇に当てた。
「言葉の端々から、まるで素肌が覗いているような生々しさがある。濡れた髪をかき上げる仕草や、首筋に落ちる汗のひとしずく……直接的な描写なんて一つもないのに、読んでいるこちらが試されているような気になる。男性の、一番浅ましい部分の欲望を、静かに引きずり出してしまうんですよ。あれは毒です」
私は静かに笑い、佐伯が差し出したカクテルに手を伸ばした。甘く、どこか苦い、桃と薬草のリキュール。グラスの縁に触れた自分の唇が、ランプの光を浴びてほの暗く光っているのがわかる。
「毒だなんて、心外だわ」
私はペンを持ち直し、小さなノートの余白に一筋の線を引いた。
「私はただ、見えたままを、感じたままを描いているだけ。そこに何を見るかは、読む人の心の中にあるものでしょう? あなたが私の文章の中に『肌』を見るのなら、それはあなたの中に、最初から触れたいという欲望があったからよ」
「……そうやって、いつも逃げる」
神谷の声が、一層低くなった。彼は私の手元、ペンを握る指先を見つめている。白く、細く、紙の上をすべっていく私の指先を。
「逃げてなんかいないわ。私はいつだって、言葉の真ん中にいる」
私はノートを少しだけ彼の方へ傾けた。そこには、いま書きつけたばかりの数行の詩が踊っていた。
夜を撫でる指先に
まとわりつく光の糸
手繰り寄せると白い素肌
影を帯びて冴え冴えとする
あなたがそこに触れると
吐息が重ね合わさり
二つの世界の異なる彩に
欲望が放たれる
神谷の目が、その言葉を追う。彼の喉仏が、ゴクリと大きく動いた。まるで、文章を読むこと自体が、私との密やかな行為であるかのように、彼の呼吸がわずかに荒くなる。
彼の息遣いを感じ取りながら、この人に裸を晒して抱かれるなら、舌を噛んだ方がいいと少し思った。
男性たちはいつもそうだ。私が書くスタイル、余白が多く、感情の輪郭を揺らした文章の中に、自分の憧憬や欲望を投影する。優しく包み込まれたいという甘えと、力任せに暴きたいという衝動。その両方を、私の詩や小説の行間に見出して、乱暴に私を扱いながら、優しく包まれたいと考えている。
「千葉さん……君は、自分がどんなに恐ろしいことをしているか、分かっていない」
「分かっているわ」
私はペンを置き、神谷の目を真っ直ぐに見つめ返した。
「でもね、神谷さん。書くということは、私のすべてを差し出すことなの。紙の上で私は、どんな服を着ているよりも裸に近い。それを覗き込もうとするなら、あなただって無傷ではいられないでしょう?」
神谷は息をのんだ。彼の瞳の奥に、眩暈のような揺らぎが見えた。伸ばしかけた彼の手が、空中で一瞬止まり、やがて諦めたようにグラスへと戻っていく。
触れられないからこそ、欲望は高まる。
私は神谷に乱暴に抱かれることになる気配を感じた。
紙一枚、言葉ひとつの隔たりが、世界で一番深い深淵なのだ。
半死半生の目に合う可能性も、天国も地獄も一枚の薄い紙切れの差。
「もう一杯、もらおうか」
神谷が佐伯に向かって声をかけた。その声は少しだけ震えていた。
私は満足して、再びノートに向き直った。ペン先が紙を撫でる静かな音が、バーの空間に溶けていく。夜はまだ深く、私の中の言葉たちは、誰かの心を惑わすために、静かにその艶を増していくのだった。
第二章 夫の眼差し
夫は私の顔を見るのが好きだ。
私を抱いている時、彼の大きな手が私の顎をすくい上げ、視線を逃がさないように固定する。彼の瞳の奥には、いつも熱っぽい欲望と、それに相反するような、どこか途方に暮れた暗い色彩が混ざり合っていた。
「桜子……そんな顔をするなよ」
荒い息の合間に、彼が低く掠れた声で呟く。
私がどんな表情をしているのか、自分では分からない。ただ、彼の激しい律動に身を委ねながら、天井の木目を追うでもなく、ただ彼をじっと見つめ返しているだけだ。苦しいわけでも、心地よいだけでもない。言葉になる前の、名前のない感情が身体の奥から溢れ出し、それがそのまま私の目元や唇の形を作っているのだと思う。
彼にとって、その表情は「たまらない」ものらしい。
私という人間の肌に触れ、肉体に深く入り込んでいるはずなのに、彼の瞳に映る私はどこか遠くにいるように見えるのだと言っていた。いくら強く抱きしめても、どれだけ乱暴に指を絡めても、私の瞳の奥には静かな別の世界から見ている気配が残っている。それが彼をいらだたせ、同時に酷く興奮させるのだった。
「君を抱いているとさ」
彼が私の首筋に顔をうずめ、肌を強く噛む。小さな痛みが走り、思わず私の喉から「あ……」と短い吐息が漏れた。彼はその音を味わうように深く息を吸い込み、耳元で囁く。
「美しい絵画に墨をぶちまけているような気分になるんだ。綺麗で、静かで、誰も踏み込めないような君の場所を、俺の汚い手でぐちゃぐぐちゃに壊している感じがする」
彼の言葉は残酷だったけれど、私はただ彼の背中に回した腕に力を込めた。
男たちはいつも、私の中に聖域を見出したがる。私が書く言葉や、私の醸し出す雰囲気に、勝手に幻想を重ね合わせるのだ。高貴で、汚れていなくて、静かな詩情を纏った存在。だからこそ、私をベッドに押し倒し、汗と体液で汚すことに恍惚を覚える。
自分自身の手で、美しいものを「穢している」という背徳感。崇高なものを「引きずり下ろしている」という支配欲。
それこそが、彼らを突き動かす最大の欲望なのだということを、私は誰よりも知っていた。
「……汚れてなんて、いないわ」
私は彼の髪に指を入れ、優しく撫でた。
「あなたがいくら私を乱しても、私はここにいる。あなたが触れているのは、私の皮膚と、骨と、息遣いだけ」
「そうやって……そうやって、いつも俺を見下ろすような目をする」
彼は吐き捨てるように言うと、さらに激しく私を求めてきた。シーツが擦れる音が、部屋の静寂を破っていく。カーテンの隙間から差し込む月の光が、重なり合う私たちの肌を白く浮かび上がらせていた。
彼は私を穢しているつもりでいる。自分の欲望の泥の中に、私を沈めていると思っている。
けれど、本当は違う。
彼が私を激しく求めれば求めるほど、私を汚そうと必死になればなるほど、彼自身の無防備な孤独が露わになっていくのだ。私を汚すことでしか、自分自身の生を確認できない男の儚さ。私の表情の中に詩の気配を感じ取り、それに嫉妬し、それを踏みにじろうとする愚かさ。
その必死な姿こそが、私にとっては何よりも愛おしく、そして何よりも美しい「詩」そのものだった。
穢そうとしながら私を高めて純度の高い美しいものを見せてくれる。
「もっと……もっと壊して」
私は彼の耳元で、甘く、毒を含んだ声で囁いた。彼の背中に爪を立てる。
「私の言葉も、私の体も、全部あなたが汚してちょうだい。あなたが満足するまで、何度でも」
その言葉は、彼にとって最高の祝詞であり、同時に逃げられない呪いだったはずだ。彼は獣のような声を漏らし、私の中に深く没入していく。
夜が明ける頃、部屋には重い静寂が戻っていた。
隣で疲れて眠りについた彼の横顔を見つめる。彼の髪は汗で額にへばりつき、さっきまでの攻撃的な気配は消え失せ、まるで傷ついた子供のように丸くなって息を吐いていた。
私は静かにベッドを抜け出し、羽織を纏って机に向かった。
月光が照らすノートを開き、万年筆を握る。白地の紙の上に、黒いインクが静かに染み込んでいく。
あなたが私を泥で塗るとき
その泥はひかりを孕み
美しい羽衣に変わる
踏みにじられた花
危機を察して
匂い立つように
私はあなたの腕のなかで
永遠の輪郭を得る
与えられた愛の護りを纏って
書き終え、ふと振り返ると、ベッドの上の彼が身じろぎをした。
彼は目を覚ませば、また私を見て、自分の行為の罪深さに酔い、そして私の変わらない瞳の奥の詩心に絶望するのだろう。私が彼に穢されれば穢されるほど、私の言葉はより一層、透明な艶を増していくのだから。
ペンを置く音が、静かな部屋にカチリと響いた。

第三章
夜の冷気が、開け放たれた窓からしずかに忍び込んでくる。
部屋の中は暗く、デスクライトの丸い光だけが、卓上の原稿用紙と私の手元をぼんやりと照らし出していた。
外套を脱ぎ捨てるより先に、私は万年筆を握り締めていた。
右の脇腹から太ももにかけて、鋭い熱が走っている。衣服の下で、破れた肌からにじみ出た血液が生地を吸い、重たく湿り気帯びて皮膚にへばりついていた。指先は自身の血で赤く汚れ、ペン軸を握るたびにペタリと小さな音を立てた。
本来なら、救急車を呼ぶべきなのだろう。あるいは鏡の前で傷口を確かめ、消毒液をかけるべきなのかもしれない。
けれど、私にとって何よりも優先されるべきは、身体の保全ではなかった。
この胸の奥で荒れ狂い、湧き立ち、形をなそうとしている溢れんばかりの感情——それを、冷めないうちに言葉という器に移し替えること。
肌を刺す痛み、衣服を濡らす温かい生血、そしてなにより、あの男の目。
それらを一刻も早く紙の上に刻み付けなければ、私の存在そのものが霧散してしまうような気がしたのだ。
ペン先が原稿用紙の上を激しく滑る。白刃は光を孕んで落ちる
身体を切り刻まれて
痛みは快楽に
気絶するほどの拒絶を
愉悦として覚え込まされる
溢れるものを抑えられず
開かれた感覚器
意に反するまま灯される
文字を書き連ねるほどに、あの一連の出来事が鮮明に脳裏に蘇ってくる。
時間を巻き戻す。
月も出ない深夜、駅から自宅へと続く寂れた路地裏を歩いていた時のことだ。背後から近づく足音に気づいた瞬間には、すでに遅かった。
影の中から飛び出してきた見知らぬ男。彼の手に握られていたのは、分厚く鋭利なサバイバルナイフだった。
男の目には、理性の光など欠片もなかった。
ただ純粋で、脈絡のない狂気。
通り魔なのか、何らかの快楽殺人者なのかは分からない。私にとっても相手が誰であるかは重要ではなかった。
男は私にナイフを突きつけながら、私の名前をつぶやき、この機会をずっと伺っていたとニヤリと笑った。
そして、細道に私の手を強く握りしめながら、強引に押し込んでいく。彼の目的は私の身体の凌辱か、殺人か、それとも別の目的か、間違いなく身体的な欲求を突き付けられることになることは、男の血走った目と、身体から伝わってくる震えから悟っていた。
奥に広がる竹藪のど真ん中に突き転がされると、星空が垣間見えていた。
千葉桜子。詩人ということを把握して、私の帰路を周到に調べて知っていて、狙ったようだった。
ナイフを首元につきつけながら、身体を吟味し、最終確認をするように、刃先で胸元の弾力を確かめたり、お尻をわしづかみして、弾力を確かめたり、耳の後ろに鼻をつけて匂いを感じ取ったり、野性的な感覚で、襲って愉しむに値する獲物かどうかをしばらく吟味していた。
一切の動きを止めて、首元にサバイバルナイフの刃先を当てがえると、迷いなく一言も発さずナイフを振り抜き、私の衣服を縦に引き裂いた。
一筋の銀色が夜を裂き、私の衣服をボタンを飛ばしながら引き裂き、素肌に薄っすらと赤く滲ませた。
「あっ……」
激痛が走る。普通の人間であれば、悲鳴を上げて逃げ惑うか、命乞いをする場面かもしれない。
夫の悲しげな顔が浮かび、やがて消えた。
私の中に広がったのは、恐怖ではなく恐ろしいほどの冷ややかさだった。
次々と、肉体が容赦なく切り刻まれていく。
一本、また一本と、皮膚の上に赤い線が増えていく。
この痛めつけ方は私の体を奪うだけの目的ではない気がした。もっと大きなものへの憎しみや怒りを、暴力的に私を支配して、痛めつけた挙句、快楽として愉しむだけ愉しむ。亡きものにするまで追い込む魑魅魍魎的な強い怨念に突き動かされている気配がした。
冷たい鋼が肉を割き、内部の温かい生が外気へと曝露される感覚。
痛む。
確実に痛む。
身体の神経という神経が、危険を知らせるアラームを限界まで鳴らしている。
しかし、その痛みの激流の中で、私は「何か」を探していたのだ。
人間が極限状態に追い込まれたとき、その衣服や社会的立場、うわべの言葉といった偽飾がすべて剥ぎ取られたあとに残る、剥き出しの「本質」とは何か。
男がナイフを繰り出すたび、私は逃げるどころか、心理的に一歩前へ踏み出していた。
男の目を真っ直ぐに見つめ、その凶行の全てを、痛みの全てを、全身の細胞で受け止めようとした。
言葉を書く人間として、私はいつも真実の輪郭を探し求めている。
男は剥き出しにした私の乳房に唇を這わせながら、私の首根っこに刃先をゆっくりと立てて滑らせる。苦痛に歪むのか、快楽が押し切るのか試すように表情を見つめられていた。
男が私に与える暴力。それは、この退屈で平和な日常を一瞬で打ち砕く、圧倒的な「生の破壊的衝動の存在証明」だった。
硬くなったものが、下着を下ろされて剥き出しになった部分に、かなり強引にねじ込んできた。私の表情が歪みながら、受け入れざるを得ないことを悟ってあきらめていく過程を愉しむように、ずっと私を見つめていた。それは愛でも恋でもない、何か別のものだった。
刃は身体のソフトな膨らみやくびれたラインを選びながら、柔らかさや硬さを愉しむように刃先を立てて滑らせていた。欲望に任せて身体を激しく律動させているので、時折刃先が、素肌に食い込んで、血を滲ませる。奥に深く突き入れられるたび、痛みが強くなるが、私の心身は、痛みを痛みとして拒絶できずに、意に反して、次第に快楽に変換して受け止めようとしていた。
忍び寄る死の恐怖、いつ胸にサバイバルナイフの刃先がつきたてられるのかの危険を全身を震わせるほどに感じ入りながら、壮絶な愉楽として受け入れようとしていた。
いつの間にか、その状態を私の体は震えるほどの歓喜として、覚え込まされていた。
男の瞳は欲望が満たされつつある満足感と、しっかりと獲物を捕らえた野生の爛爛としたえげつない輝きを放ち、荒い息を吐きながら、ボルテージを上げていく。血を流しながらもあえぎもがいている私を組み伏せて動けないようにして、最終段階に入ろうとしていた。
男の動きが、ふつりと止まった。
男の刃先は、私の喉元をあと一突きで、私という生命を永遠に終わらせることができる絶妙な位置に滞留していた。
男は私を亡きものにするつもりだったのだろう。狂気にとらわれ、肉体を切り刻み、最後には命を奪うことで完璧な破壊を成し遂げる。それが彼の目的だったはずだ。
しかし、男の手がカタカタと震え始めた。
追い詰められれば追い詰められるほど、私が狂気をもって向き返してきたからだ。
怯え、泣き叫ぶはずの犠牲者が、傷口から血を流しながら、恍惚とした笑みを浮かべて自分を見つめている。
痛みを与える側であったはずの男が、いつの間にか、私という存在の底知れない深淵に呑み込まれようとしていた。
「……なんだ、お前……」
男の口から、かすかな掠れ声が漏れた。
狂気を振りかざしていたはずの男の瞳に、初めて「恐怖」の色が宿った瞬間だった。
目の前にいるのは、害される被害者ではない。自分の与える死と痛みを糧にして、より一層妖しく艶やかに咲き誇ろうとする、正体不明の怪物。
男にとって、私を殺すことは、もはや支配ではなく、私という存在に完全に屈服することを意味していた。
男は喉元のナイフをゆっくりと引いた。
まるで、触れてはいけない不可侵の聖域から逃げ出すように。
刃を握る手を血で滑らせながら、男は後ずさりし、そのまま夜の闇の中へと蜘蛛の子を散らすように走り去っていった。
残された私は、夜の路上に一人たたずんでいた。
足元には赤い水たまりができている。
殺されなかったという安堵感などなかった。ただ、あの男との間に交わされた、言葉を超えた狂気の対話が、私の胸を激しく打っていた。
そして、今。私は自室のデスクに向かっている。原稿用紙の上には、黒いインクと赤ぐろい血が混ざり合い、異様な模様を描き出していた。
傷口はなおも疼き、脈打つたびに鋭い痛みが脳を揺さぶる。だが、この痛みこそが、私のペンを動かすガソリンだった。
あの男は、私を穢し、壊そうとした。
けれど、彼が刃を振るえば振るうほど、私は自分の中にある「詩」の純度を高めていった。
恐怖を愉楽へと変換し、暴力を美へと昇華させる。
男性たちが私に触れ、私を泥で汚そうとするとき、彼らは常にこの罠に嵌まるのだ。
私を傷つけているつもりが、いつの間にか私の紡ぐ世界に取り込まれ、自らの小ささと脆弱さを突きつけられて逃げ出すことになる。
「ふふ……」
静かな部屋に、自分の笑い声が落ちた。
傷口を押さえる左手に力を込めると、新たな血がじわりと滲み出し、服を濡らす。
男は私を殺せなかった。
殺せなかったのではない。私が見せたあまりの歓喜と、死をも呑み込む詩心の前に、殺すことが「不可能」になったのだ。
万年筆の先が、最後の行を書き終える。
殺め得ぬ肉体の上に
紅き花弁は散り敷いて
あなたの恐怖こそが
私の永遠を完成させる
ペンを置くと、カチリと硬い音が響いた。
私はゆっくりと立ち上がり、姿見の前に立った。
鏡の中に映る私の姿。乱れた髪、破れて素肌が見える衣類、そして白い肌を切り裂く数々の赤い傷跡。
その痛々しい姿の真ん中で、私の瞳だけが、夜のどの星よりも強く、深く、妖しい光を放っていた。
見知らぬ男が遺していった傷跡は、私にとって新しい言葉の紋様だった。
身体の痛みはいつか癒えるだろう。だが、あの極限の夜に掴み取った狂気と歓喜の記憶は、私の中で永遠に詩として生き続ける。
私は傷口を優しく指先で撫で、血の温もりを確かめた。
胸の奥から、また新しい言葉が、新しい物語の芽が、静かに息吹き始めているのを感じながら。
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