パート帰りの午睡を狙われて(1)
1. 帰宅
ガチャリと鍵を回し、重い玄関扉を押し開ける。
「ただいま」
誰もいないリビングに向かって、いつもの癖で小さく声をかけた。返ってくるのは、低く唸る冷蔵庫のモーター音だけ。それでも、一歩足を踏み入れれば、平日のこの時間帯は、自分だけの絶対的な聖域だった。
時計の針は十一時半を回ったところ。
今日も朝の八時から、近くのスーパーの品出しパートをこなしてきた。開店前の静かな店内に重いコンテナや段ボールを運び、棚にジャムや缶詰をきれいに並べ直す。開店してからは、お惣菜のパックに値札を貼り、息つく暇もなく動き回る。立ちっぱなしの四時間は、想像以上に足腰へずしりと重みを残していた。
ポロシャツの襟元を引っ張ると、じっとりとした汗が皮膚に張り付いているのがわかる。梅雨が明けたばかりの七月。外の空気は早くも本格的な夏の熱気を孕んでいた。
「あつ……」
カバンを床に放り出すなり、私は身につけているものを一枚ずつ脱ぎ捨てた。パートの制服代わりのチノパン、汗を吸って重くなったポロシャツ、そして靴下。最後に残ったのは、薄手のスリップを兼ねたカップ付きのキャミソールと、お腹まで、すっぽり包む綿の下着だけ。
誰に見られるわけでもない、一人きりの部屋だ。
この解放感のために、午前中の肉体労働を耐えていると言っても過言ではない。ブラジャーのワイヤーから解放された胸が、深く息を吸い込むたびに緩やかに上下する。
私はそのままリビングの大きな掃き出し窓へと歩み寄り、サッシを左右に大きく開け放した。
2. 準備
窓を開けた瞬間、わっと部屋の中に流れ込んできたのは、夏の匂いを含んだ乾いた風だった。
地方の県庁所在地の隅っこの、何の変哲もない袋小路の古い住宅。田畑に面した部屋の東向きの部屋は遮るものがなく、通り抜ける風だけはいつも贅沢だった。
「さて、お昼どうしようかな」
下着姿のままフローリングを裸足で歩く。ひんやりとした床の感触が、火照った足の裏に心地いい。
台所に立ち、冷蔵庫を開ける。丁寧な料理を作る気力は残っていなかった。目に入ったのは、一昨日買った食パンの残り、それから卵、少し萎びかけのミニトマト。
フライパンを火にかけ、バターを落とす。じゅわ、と泡立つ香ばしい香りが狭いキッチンに広がった。ボウルで素早く溶いた卵を流し込み、菜箸で大きく円を描く。余熱で仕上げた半熟のスクランブルエッグ。それと、トースターでカリッと焼いた食パン。
お皿にそれらを適当に盛り付け、マヨネーズを少し絞ったミニトマトを添える。
「よし、これで十分」
マグカップに冷たい麦茶をなみなみと注ぎ、お皿を持ってリビングのローテーブルへと運んだ。
テレビはつけない。ただ、開け放した窓から聞こえる、遠くのセミの声と、時折通り過ぎる車の走行音だけがBGMだった。
サクッ、とトーストを噛みしめる。バターの塩気と、卵の優しい甘みが口の中に広がる。お腹が空いていたことに、その時になってようやく気がついた。冷たい麦茶が喉を鳴らして落ちていくたびに、身体の奥の熱がすうっと引いていくような気がした。
美味しかった。だけど、最後の一口を飲み込んだ瞬間、急激にそれはやってきた。
満腹感。そして、静寂。
身体中の血液が、一斉に胃袋へと集まっていくのがわかる。まぶたが、まるで鉛でも仕込まれたかのように、じわじわと重くなってきた。

3. 微睡み
「……ちょっとだけ、横になろう」
片付けは後回しだ。私はローテーブルに食器を置いたまま、窓際に敷いた薄いラグの上にごろりと横たわった。
枕の代わりに、ソファにあったクッションを引き寄せて頭を乗せる。
仰向けになると、天井の白いクロスがいつもより遠くに見えた。
窓からは、絶え間なく風が吹き込んでいる。窓辺に吊るした真っ白なレースのカーテンが、風をはらんで大きく膨らみ、生き物のようにゆらゆらと揺れていた。
光を透かした白が、視界の端で踊っている。
フワリ、とカーテンの裾が私の剥き出しの足首をかすめた。
ひんやりとして、柔らかい。
下着姿の肌に、直接触れる風は、衣服というフィルターを通さない分、驚くほど鮮烈で、そして優しかった。汗ばんだ首筋や、太ももの裏を、風が撫でるたびに、身体の輪郭がじわじわと部屋の空気に溶け出していくような錯覚に陥る。
「あぁ……気持ちいい……」
声にもならない吐息が漏れた。
遠くで鳴いているセミの声が、波の音のように聞こえる。規則正しく寄せては返す、夏の音。
レースのカーテンが揺れるたびに、部屋の中に落ちる影が形を変える。木漏れ日のような、あるいは水底のような、静かで優しい光の明暗。
瞼を閉じると、今度は五感がさらに研ぎ澄まされ、風の動きがよりリアルに伝わってきた。
そよそよ、と頬を撫でる風。
カーテンのランナーが、シャ、シャ、と擦れる小さな音。
自分の規則正しい呼吸の音。
脳の芯が、心地よい痺れに包まれていく。
パート先での「ありがとうございました」という自分の声や、レジの電子音、台車の軋む音。そんな午前中の喧騒が、遠い過去の出来事のように霧散していく。
今、この世界には、揺れるカーテンと、心地よい風と、下着姿で横たわる私しかいない。
衣服を脱ぎ捨てた身体は、何の鎧も持たない。だからこそ、自然の恵みをそのまま受け止めることができる。
贅沢だな、と思う。
どんなに高級なホテルのスイートルームよりも、今のこの、何もない部屋で風に吹かれている時間が、私にとっては最高に贅沢で、愛おしい。
意識の境界線が、だんだんと曖昧になっていく。
考えていることの形が崩れ、まとまらなくなる。
カーテンが大きく揺れた。一段と強い風が、私の全身を包み込んだ。
「ん……」
私は寝返りを打ち、クッションを抱きしめた。肌に触れるタオルの質感が心地いい。
もう、まぶたを開けることはできなかった。深い、深い、夏の微睡みの海へと、私はゆっくりと沈んでいった。
4. 覚醒
「……っ」
ふと、意識が浮上した。
完全に目が覚めたわけではない。ただ、肌に触れる空気の温度が、先ほどよりも少し下がったような気がして、薄く目を開けた。
時計を見ると、一時を過ぎたところだった。時間にして、わずか三十分ほどのうたた寝。
だけど、頭は驚くほどすっきりとしていた。身体に溜まっていた重い疲労感は、あの風がどこかへ連れ去ってくれたかのように軽くなっている。
窓辺を見ると、相変わらずレースのカーテンが、優しく揺れていた。
太陽の位置が少し変わり、部屋の奥まで差し込んでいた光のラインが、短くなっている。
私はしばらく、下着姿のまま床に大の字になって、天井を見つめていた。
動き出すには、あとほんの少しの猶予が必要だった。
だけど、心は満ち足りていた。
「よし」
小さく声を出して、上半身を起こす。
窓からの風が、また私の背中をそっと押した。
まずは食器を洗って、それから、お気に入りのワンピースに着替えよう。
私の、静かで愛おしい夏の午後が、これからまた始まろうとしていた。
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