焼き鳥屋の煙の向こう
炭火に落ちた脂の焦げる匂い。濡れた背広、煙草、安い整髪料。仕事を終えた中年男たちがネクタイを緩め、昼間は押し殺していた声で上司や部下の悪口を吐き出している。
六十歳近くなった俺も、その夜は後輩の白井と二人掛けのテーブル囲み、ホッピーを飲んでいた。
「それで部長がまたさあ」
向かいの白井が何か話していたが、俺はほとんど聞いていなかった。
二つ隣の卓に、一人の女性が座っていた。
最初に目に入ったのは、淡い桜色のジャケットだった。
煤けた壁、黒い背広、茶色い卓。くすんだ色ばかりの店内で、その桜色だけが春の光を薄く含んでいるように見えた。
年齢は四十過ぎだろう。若い女ではない。
それなのに、目が離せなかった。
髪は丁寧に整えられ、化粧は控えめだった。首元には白いブラウスが覗き、細い首筋へと続いている。笑うと目尻に小さな皺が寄る。その皺さえ、その女が重ねてきた歳月の艶に見えた。
向かいに夫らしい男。隣には成人した息子らしい若い男性。
家族の祝い事らしかった。
「お父さん、今日は本当にお疲れさまでした。はい、どうぞ」
騒がしい店内でも、その声はなぜか耳に届いた。
低すぎず、高すぎず、柔らかい声だった。
彼女はビール瓶を両手で持ち上げた。ラベルを上へ向け、片手を瓶の底に添える。手首をゆっくり傾けると、黄金色の液体が夫のグラスへ注がれていく。
その一連の動きを、俺は食い入るように見ていた。
細い指。整えられた爪。瓶を支える白い手の甲。
ただ酒を注いでいるだけなのに、妙に艶めかしかった。
夫は照れたように「ありがとう」と言った。
彼女は微笑み、夫のグラスの泡を確かめるように目を伏せた。
その伏せた睫毛と、わずかに緩んだ唇を見た瞬間、胸の奥がざらついた。
あんな顔を、自分に向けてほしいと思った。
「綺麗な奥さんだな」
白井が小声で言った。
「見るなよ。失礼だろ」
そう答えた俺が、一番見ていた。
彼女は息子のグラスにも気づいた。
「和君も、遠いところからありがとう。少し注ぎましょうか」
息子が苦笑しながらグラスを差し出す。
彼女は母親らしい優しい目で息子を見た。けれど、甘やかすような視線ではない。一人前の男になった息子を、少し誇らしく眺める目だった。
その表情に、俺は別の種類の色気を感じた。
若い女の媚びた笑顔とは違う。
男を立てることも、子どもを包むことも知っている女の顔だった。
長い結婚生活の中で、幾度も夫を受け入れ、子どもを抱き、家族のために眠れない夜を過ごしてきた。その身体と心の記憶が、仕草の端々に染み込んでいるように思えた。
俺は無意識に唾を飲み込んだ。
彼女が会話に耳を傾けるため、少し身体を横へ傾ける。
ジャケットの襟がわずかに開き、白いブラウスの下の淡い桜色のブラに包まれた柔らかな胸元の丸みが浮かんだ。下着の刺繍の模様まで、しっかり見えるほどだった。
薄い生地は店内の熱気を含み、息をするたび、ほんのわずかに上下していた。
目を逸らすべきだった。
けれど、逸らせなかった。
夫の話に笑った拍子に、胸元が小刻みに揺れる。その動きは決して大げさではなく、むしろ上品な服装に押さえられていた。だからこそ、布の奥にある生身の柔らかさを想像させた。
喉が渇いた。
俺はホッピーを一気に飲んだ。
「佐藤さん、顔赤いですよ」
「店が暑いんだよ」
そう言ったが、暑さのせいだけではなかった。
彼女の下半身にも目が向いた。
丸椅子に腰掛けた姿勢は背筋が伸びている。膝下まであるプリーツスカートは上品で、脚を露わにしているわけではない。
それでも、彼女が息子や夫の話へ身体を向けたり、脚を組み替えたりするたび、机の下で裾が静かに揺れた。
一瞬、ストッキングに包まれた膝が見える。
さらにその奥、柔らかな太ももの輪郭が覗く。
ほんの一瞬だった。
だが、俺の目には、その一瞬が妙に長く残った。
滑らかな布越しの脚。椅子に触れた太ももの丸み。膝を揃え直す慎ましい動き。
本人は、こちらの視線などまるで気づいていない。
家族との団らんを楽しみ、夫の皿を気にかけ、息子の話を聞き、笑っている。
その無防備さが、俺の欲望をかえって煽った。
見せつけられるより、ずっと悪かった。
清潔で、上品で、家族の想いの妻。
そんな女の衣服の内側にも、温度のある肉体がある。
夫だけが知っている匂いがあり、柔らかさがあり、夜の顔がある。
そう考えた途端、腹の底に鈍い熱が生まれた。
「見ろよ」
白井が囁く。
彼女は焼き鳥の串から肉を外していた。
「お父さん、つくね、冷めないうちに食べてね」
「和君、ネギマが好きだったでしょう?」
肉を串から外す指先まで美しかった。
細い指が串をつまみ、肉をひとつずつ滑らせていく。唇を少し開き、家族の話に笑う。耳元の髪を指で払う。そのたびに首筋が露わになった。
俺は、その白い首筋へ口づける自分を一瞬想像した。
馬鹿な妄想だった。
名前も知らない。夫も子どももいる。こちらを見てもいない。
それでも、想像は勝手に膨らんだ。
もし、あの柔らかい声で「佐藤さん、お疲れさまでした」と言われたら。
あの細い手でグラスを満たされたら。
向かいに座り、微笑みながら自分の好物を取り分けてもらえたら。
その先まで考えそうになり、俺は無理に視線を卓へ戻した。
自分を省みて、自宅に帰って、独りぼっちでの暮らしがそこにあった。
女性の肌に触れることのない生活。時々、マッサージで仕事の疲れを取ってもらう時だけが、唯一だった。
けれど、目の前の女性を見て湧き上がったものは、単なる浮気心とも少し違った。
女に触れたいという欲望とも違う。
目の前で夫と子供を目の前にして幸せそうに寛いでいるあの女を自分のものにしたいという、どす黒いエゴにまで発展していた。

あの家庭を壊さずに、あの奥さんだけ手に入れることはできないか。
いや、壊してもいいから、一度だけでも抱きしめてみたい。
そんな風にすら思っていた。
家族が立ち上がっていた。
息子が伝票を手にしている。どうやら会計は彼がするらしい。
彼女はバッグを肩に掛け、ジャケットの裾を整えた。
立ち上がると、プリーツスカートが脚に沿って落ち、腰から腿へかけての柔らかな輪郭が一瞬だけ浮かんだ。
俺は息を止めた。
年齢を重ねた40代の成熟した女の身体だった。
細すぎず、若さを誇示するようでもない。家族を支えながら生きてきた女の、豊かで落ち着いた身体。
そこに俺は、若い娘にはない生々しさを感じた。
胸の中には、まだ熱が残っていた。
触れてみたいと思った。
抱きしめたら、どんな匂いがするのか知りたいと思った。あの落ち着いた顔が、自分の腕の中ではどんなふうに崩れるのか、想像してしまった。
だが同時に、あの女性を美しく見せていたものは、夫や子どもへ向ける愛情なのだとも分かっていた。
彼女から家族を取り去れば、俺が目を奪われた桜色の光も、きっと失われる。
俺は空になったグラスを見つめた。
彼女は車を裏の駐車場まで一人で取りに行くみたいだった。
白井と目が合った。
白井が考えていることも自分と同じであることが理解できた。
私は素早く伝票を取って、白井と共に動いた。
支払いの金額よりも多めのお金をレジのカウンターに置いて、店員に目配せした。
「ありがとうございました。またお越しください」
店員は頭を下げた。
店の外で、白井に耳うちした。
「きっとこの細い路地を奥さんは通る。俺は路地の真ん中ぐらいで潜んでいる。お前は路地の出口で待ってろ。奥様をあいだに挟んで、空き店舗になっているエスニック料理のお店の材料置き場に連れ込もう」
白井はごくりとつばを飲み込んでいた。
そして、まるで何度かこういうことをしたことがあるかのように連携を取って、散らばった。
しばらく待っていると、速足で不安そうに薄暗い細路地を抜けてくる奥様が見えた。待ち構えている俺たちには気がついていないよう。
スカートの裾が歩調に合わせて揺れ、細いヒールが路面を打つ。これから自分がどんな目に遭うか、少しも思うことがないかのように、どんどん近づいて来る。かなり薄暗い路地。本来、女性なら活用しない路地。少しでも夫と息子が待たないで済むようにショートカットするために通り抜ける。
佐藤は奥様なら必ずここを通り抜けるだろうと踏んでいた。まさか自分が男性から狙われるような存在とは露とも思っていないのだろう。怖さよりも家族優先の選択。
しかし、そこが命取りだった。

路地の入口は、街の隙間にぽっかり開いた黒い亀裂のようだった。幅はせいぜい大人一人が通れる程度。二〇メートルほどの薄汚れた道は、昼間でも光が届かず、夜になると異様な深みを増す。
エスニック料理屋の剥げかけた壁からは朽ちた木材の匂いが漂い、足元には不法投棄されたビールケースや濡れたダンボールが散乱していた。躓かないよう足元に気を配りながら、早足で闇の中へと足を踏み入れて、もうすぐ俺の手の届くところまで近づいてきた。
ぬめりを持ったアスファルトに靴底が滑りそうになり、思わず息をのむ。
奥さまは、早くこの気味の悪い場所を抜け出したい
そういう焦りを感じる駆け足だった。
暗がりの中から、不意に声をかける。
「……こんばんは。奥さん」
低い声が路地に響き、奥様は、手を口に当てて驚いた様子で立ち止まった。
壁の影に佇んでいた俺を、しばらく見つめたあと、さっきまで隣で焼き鳥を食べていたおじさんだと気づいたようだった。
認識して、引き返そうかどうか落ち着かない様子で、目を見開いて見ている。
「びっくりさせてごめんなさいね。あんまり魅力的でチャーミングな奥様だったから、待たせてもらった」
男性は路地の真ん中に立ち、彼女の進行方向をゆるやかにふさいでいた。狭い路地だ。すれ違うこともできず、思わず足を止めて一歩身を引いた。壁からはエアコンの室外機が迫り、背後にも逃げ場はない。
「何か……ご用でしょうか」
声を震わせないよう必死で尋ねた様子が伝わってくる。
俺はふっと目を細め、静かな笑みを浮かべた。
「いやね、さっき店内で見かけて……どうしても一言伝えたくて。失礼かもしれないけど、すごく魅力的な方だなと思ってね」
息をとめたまま、絞り出すように何か言おうとしていたし、なんとか無事に逃れられないか探っているような目だった。
「ご主人とお子さんと、すごく楽しそうに召し上がっていただでしょう? でもね、ふとした瞬間に見せる笑顔が……なんというか、すごくチャーミングでね。失礼ながら、とても色気を感じてしまったんです。こんな素敵な奥さんが運転手なんて、ご主人が羨ましいなと思って」
路地の薄暗がりの中、俺に射抜かれたかのように目を見開いて、悪意や乱暴さを見極めようとしていた。だが、丁寧な口調だからこそ、この閉ざされた20メートルの闇の中では異質な生々しさが漂っていた。
奥様の素肌から、香水でも、柔軟剤ではない淡い香りが漂ってきた。シャンプーかリンスのような髪の匂いのような気がした。
褒め言葉の形をした、明らかな危険。背中に嫌な冷や汗が流れた。ここで騒いでも、店の中までは届かないかもしれない。
「ありがとうございます。ですが、家族が待っていますので」
極めて冷ややかに、けれど感情を逆なでしないよう努めて静かに答えようと心がけていた。そして、視線を逸らさずに相手の横のわずかな隙間を見据えた。
「失礼します」
会釈ともつかない動作で頭を下げてきた。
返事も待たずに男性の脇をすり抜けた。
肩が少しだけ触れた。背中に視線を感じながら、俺を振り返らず、アスファルトを強く踏みしめて、先ほどより速足で駆け抜けていく。
カツカツと強く駆けていく足音が遠のいていく。そして細路地を抜け出ることができるところまで来て、少し油断したのかスピードを落として、肩の力を抜いたような仕草になったところで、前から来た大柄な白井に捕らえられた。あっけなく鼻と口をタオルで押えられて、強い力で抑え込まれている。呼吸が出来ずに暴れている。それでも肘鉄を白井の脇腹に食わせると見事あばら骨の下付近にきれいに入って、白井が倒れ込む。掴まれた腕を反対側に決めると外れた。
ふりきって逃げようと駆け出そうとした。後ろから来た俺は、駆けだそうとする奥様のジャケットの襟を掴み、かなりつよい力で引きずり戻した。体勢が崩れながらも、何か武道の心得があるのか、襟を掴んだ手を掴んで、反対方向に決めにいこうとしている。しかし、俺もひるまない。電気的なかなり強いショックを与えて、彼女の動きを完全に止めて、動けなくなった身体をしっかり抱き抱えて、ひきずりながら細路地の真ん中付近まで連れ戻す。
空き店舗に引きずり込んで、雑然と置かれた丸いテーブルに上半身を投げ捨てるように寝かした。
大きな音か響く
目を瞑ったまま動けない奥様に覆いかぶさって、唇を乱暴に貪った。白井が足を引きずりながら、中に入ってきた。
「ひどい目に遭った」
白井はそう言いながらも、奥様の乳房の掌で包んで、もみしだきながら押し返してくる弾力を愉しみながら、ご満悦の様子だった。
意識はあるが動けない身体。
瞼をひくひくと震わせながら、奥様は時折もがこうとしている。
二人で顔を合わせてにやつきながら、目の前の上玉の獲物を貪りつくす愉しみに没頭した。
少しずつ力の戻ってくるだろう身体で、必死で抵抗を試みようとする奥様。がっちりと二人の大男に押さえこまれて、表情を見ながら、感じ入る部分を見極めながら弄ぶ。快楽に溺れそうになるのは俺達かもと思いながら、ぎりぎりまで持ちこたえてから、かなり溜め込んでいたもの奥の方まで流し込めて、限りない気持ち良さに浸っていた。
時間的な余裕はない。
楽しむだけ楽しんで、あとはささっと立ち去る。
それなりに遊び倒してきた白井も、経験ないほどの快楽を得たようで、名残惜しそうに、動画や撮影した写真を見返していた。
衣服はそのままで、目的だけ果たす。
先ほどまでの幸せを上塗りする蛮行で穢す。
ためこんでいたものが暴発して、かなり奥まで注ぎ込まれたはず。
眉根をひそめながら、痛みやら屈辱に耐えているように、表情に陰りが生まれる。最後は壊れるかと思うほど激しく律動されて、意に反して、声を漏らしていたが、今は全く反応をしめさなくなっていた。
獣のように雄叫びをあげる俺と白井に好きなようにされた奥様。目を閉じたまま、何も感じないようにしているのか、ぴくりとも動かなかった。
その奥様の唇に、二人は交互に唇を長く重ねては吸い舌を絡めて、名残を惜しんだ。
月明かりに、乱された衣服から剥き出しにされた白い素肌が照らされて、俺たちに穢されて、くたびれきった顔つきが、焼き鳥屋で見た時よりもずっと退廃的で美しい姿のように感じた。それは女神のようにも感じた。
俺は彼女の個人情報をスマホで撮影してきたので、これからも何かとお相手に付き合って頂く手立てを画策してきた。彼女がどんな風に振舞うのか注視しつつ、あんないい女を抱けたなら、どんな風になっても本望だし、またこれから二度目があるなら、もっと深く、辱めることを楽しめそうだとも思っていた。
それを見届けて、急いで立ち去った。

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