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七夕から始まった物語(1)

その日は、年に一度の七夕だった。

朝からじりじりと照りつける太陽は、本格的な夏の到来を告げるかのように容赦がない。小学生の子供たちと夫をそれぞれ学校や会社へと送り出し、私も一息つく間もなくパートの支度を整えた。近くのドラッグストアでの品出しとレジ業務。いつも通りのありふれた、だけど少しだけ慌ただしい一日の始まりになるはずだった。

「よし、行こう」

玄関を出て、アパートの駐輪場に向かう。私の相棒は、もう10年以上も乗り続けている年季の入ったママチャリだ。子供の送り迎えに買い出し、そして今のパート先への通勤。カゴは少し錆びて、サドルも色褪せ、フレームの水色もところどころ剥げ落ちてきているが、私の生活をずっと支えてきてくれた相棒でもある自転車だった。

鍵を外し、スタンドを跳ね上げてペダルに足をかける。グッと踏み込んだ瞬間だった。

ガツン。

鈍い衝撃とともに、足を踏み外して、ペダルが何の抵抗もなく虚しく空回りした。 「え…?」 嫌な予感がして視線を落とすと、案の定、油を吸って真っ黒になったチェーンが、あるべき歯車から完全に外れて、だらりと地面に向かって垂れ下がっていた。

頭の中が真っ白になる。パートの始業時間まではあと15分。今から歩いて行けば確実に遅刻してしまう。かといって、チェーンの直し方なんて分からない。これまでに何度か外れたことはあったけれど、その都度、夫に直してもらっていたのだ。自分でやろうとして手を汚し、結局直せなくて時間を無駄にする未来が容易に想像できた。 スマートフォンの画面を見つめながら、パート先に遅刻の連絡を入れようか、それとも無理を承知で走ろうか、駐輪場の片隅で完全に途方に暮れていた。

「どうかしましたか?」

突然、頭上から低く落ち着いた声が降ってきた。 驚いて顔を上げると、そこに立っていたのは同じアパートの上の階に住む男性だった。 年齢は30代半ばくらいだろうか。回覧板の受け渡しや、ゴミ出しの時に軽く会釈を交わす程度の、いわゆる「顔見知り」の住人さんだ。

今日の彼は、いつものラフな部屋着姿とは全く違っていた。仕立ての良さそうな、シワひとつないピシッとしたネイビーのスーツを身に纏い、活力やエネルギーを感じさせるワインレッドのネクタイもきれいに結ばれている。これから大事な仕事、あるいは商談にでも向かうのだろう。都会的な、大人の男の雰囲気が漂っていた。

「あ、ええと……チェーンが外れてしまって。パートに行かなきゃいけないのに、困っていたんです」

私が情けない声で言うと、彼は私の足元と、無残に垂れ下がるチェーンに視線を落とした。

「見せてください」

彼はそう言うと、躊躇うことなく、その場に膝をついた。
「えっ、ちょっと待ってください! スーツが汚れてしまいます!」
慌てて止めようとした私の声は、彼の耳には届かなかったようだった。彼はジャケットのボタンを器用に外し、スラックスの膝が地面につかないよう絶妙な体勢を維持しながら、ママチャリの油まみれの心臓部に手を伸ばした。

「大丈夫ですよ。これくらい、すぐに直りますから」

彼の長い指が、真っ黒な自転車のチェーンに触れる。 見ているこちらがハラハラした。彼の着ているシャツの袖口は、眩しいほどに白い。それが油汚れで真っ黒に染まってしまったらどうしようと、自分の自転車のせいで彼の大事な服を台無しにしてしまうのではないかと、心臓がバクバクと音を立てた。

しかし、彼の動きには一切の迷いがなかった。 汚れることも厭わずに奥の方に手を伸ばして、チェーンを軽く引っ張り、後輪の歯車に噛み合わせる。そして、もう片方の手でペダルをゆっくりと、だけど力強く逆回転させた。

ガタ、ガタガタ……カチャッ。

ものの数十秒だったと思う。心地よい金属音とともに、チェーンは吸い込まれるように元の位置へと収まった。

「よし、これで大丈夫です。乗ってみてください」

彼は立ち上がり、満足そうに微笑んだ。
「あ、ありがとうございます…!」
私は言われるがままに自転車にまたがり、ペダルを軽く回してみた。先ほどまでの虚しい空回りが嘘のように、確かな手応えが足の裏に伝わってくる。完全に直っていた。

「本当に助かりました! あの、でも……!」

私は彼の手に視線を移し、息を呑んだ。 直してくれた彼の手は、手のひらから指先まで、機械油で真っ黒に染まっていた。ピシッとしたスーツ姿に対して、その両手だけが異様なほどに黒く汚れている。そのコントラストが、彼が私を助けるために躊躇なく差し出してくれた親切の証そのものに見えた。

「本当にすみません、こんなに手を汚してしまって……。今、部屋から洗剤か何か持ってきます!」
慌てて自転車を降りようとする私を、彼は片手を軽く挙げて制した。

「いいえ、その必要はありませんよ。カバンにこれが入っていますから」

彼はポケットから携帯用のウェットティッシュを取り出すと、手際よく数枚引き抜き、両手の汚れを拭き取り始めた。もちろん、ウェットティッシュだけで頑固な機械油が完全に落ちるわけがない。爪の間や皮膚の皺には、黒い汚れがうっすらと残ったままだ。

それでも、彼は全く気にする素振りも見せなかった。汚れたティッシュをポケットのゴミ袋にしまい、何事もなかったかのように腕時計に目をやった。

「これくらい、平気です。さあ、あなたもパートに遅れてしまいますよ。気をつけて行ってらっしゃい」

彼は私に向かって、優しく、そして爽やかに微笑んだ。その表情には、恩着せがましさや、服が汚れたことへの不快感など微塵もなかった。 そのまま彼は、長い足を翻して、駅の方へと颯爽と歩き出してしまった。真っ黒になった手を、少しだけ気にしながら。けれどその背中は、どんなモデルよりも、どんな映画の主人公よりも、スマートで格好良かった。

「ありがとうございました」

小さく呟いた私の声は、夏の風にすっと消えていった。 静まり返ったアパートの駐輪場で、私はしばらくの間、彼が去っていった方向をじっと見つめていた。

胸の奥が、じんわりと熱い。 ただの親切、と言ってしまえばそれまでかもしれない。同じアパートの住人が困っていたから、手を貸してくれただけ。だけど、あの完璧なスーツ姿でありながら、自分の汚れを一切厭わずに手を差し伸べてくれた彼の潔さと、手際の良さ。そして、助けた後のあの引き際の鮮やかさ。

「かっこいい……」

思わず、本音が口から漏れていた。 家族を送り出し、主婦として、母として、ただ淡々と日常をこなすだけの日々。そんな毎日に、突如として現れた非日常のときめき。彼のスマートな振る舞いと、対照的な真っ黒になった手のひらが、頭の裏側に焼き付いて離れない。なんだか、少女漫画のひとコマに自分が迷い込んでしまったかのような、気恥ずかしくも胸が弾む感覚。胸の鼓動が、いつもより少しだけ速くなっているのが分かった。

ぽーっとしたまま、私は自分の頬を両手で軽く叩いた。
「ダメダメ、しっかりしなきゃ。パートに遅れちゃう」

我に返り、私はママチャリに跨った。ペダルを踏み込むと、先ほどまでとは見違えるほどスムーズに、自転車は前に進み出した。チェーンが直っただけでなく、まるで自転車自体が軽くなったかのような錯覚さえ覚える。

ペダルを漕ぎながら、ドラッグストアへと向かう道すがら、私の顔はきっと緩みっぱなしだったと思う。
久しぶりに心から満たされたような澄んだ笑顔だったと思う。
すれ違う人が見たら、怪訝な顔をされたかもしれない。だけど、抑えきれない高揚感が、私を包み込んでいた。

今日は七夕。
織姫と彦星が年に一度だけ会える、ロマンチックな日。 私の元に織姫のような奇跡が起きたわけではないけれど、あの真っ黒な手で自転車を直してくれた「彦星」さんのおかげで、ただの退屈な日常が、少しだけ特別で、鮮やかな色に染まった気がした。

ドラッグストアの駐輪場に自転車を止め、鍵をかける。 鍵を握る私の手は綺麗だけれど、あの人の手はまだ少し黒いままなのだろうか。仕事中、困っていないだろうか。 そんな余計な心配を巡らせながら、私はいつもより少しだけ背筋を伸ばして、パート先の扉を開けた。

「おはようございます!」

心なしか、いつもより明るい声が出た。 今年の七夕は、きっと一生忘れない。真っ黒な手と、最高の笑顔をくれた、あのスマートな彼のおかげで、私の夏は最高のスタートを切ったのだった。

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