63 知らないままで…
まぁ、また昔話だ。
…俺は18になったばかりで、川崎にいた。
いろんな経緯があって、そこにいる。
仕事の一環で、ビラ配りをしていた。
その時の話だ…
…街は木枯らしが吹く中、歓楽街のざわめきが光をまとってる
俺は道の端に寄り、コートの襟を立てながらビラを配っていた。
受け取る人。
すぐに捨てる人。
もう一度見せてと言って、笑いながら受け取る人。
俺にとってはどうでもよかった。
手持ちのビラがなくなれば、それでいい。
そんな1995年の年末。
俺の中の孤独を、少しだけ照らす人がいた。
同じ時間帯、同じ道。
キラキラと灯りを抱えながら、アクセサリーを売っている女性。
たまに立ち上がって、客と楽しそうに話す。
鼻歌を歌いながら、軽くステップを踏む。
そんな姿を、いつの間にか目で追っていた。
寒さが増していく12月
その日も、いつものように身震いしながら立ってる
――その日は、違った
『よく見る人だね、少しお願いがあるんだけどいい?』
声をかけてきた
彼女は日本人ではなく
異国の女性
『少しトイレに行きたいから、ここ見ててくれない?』
英語だ
ほとんど分からない
それでも、なんとなく理解して、ジェスチャーで頷いた
それがきっかけだった
あの日から、あの場所はただの仕事じゃなくなる
俺は夜の仕事をしていた
だから昼間はほとんど動かない
彼女と会うのは、いつも同じ夜の時間だけ
いや、会うというより、ただ横で仕事をしていただけかもしれない。
それでも
目が合って、微笑まれるだけで胸が高鳴る
言葉なんて分からないのに、声のトーンだけで嬉しくなっていた。
24時になると、彼女たちは片付けて仲間と帰っていく
そんな仲間の男性とも、少し話すようになった
彼は日本語が少し出来たからだ
『12月が終わったら、俺たちはアメリカに行く
また日本に来るかは分からない』
そうなんだ、と
その場では、それだけだった
でも帰り道、なんとなく街が静かに感じ
別に追いかける理由もない
仕事を始めたばかりだったし、どこかへ行くなんて考えてもいなかった
そういうもんか、と
その場ではそう思っていた
日を追うごとに、気づけば視線はあの場所に向いている
ビラを配る手が止まることもある
何も知らない
名前は教えてくれた
そして向こうも、俺の名前を呼んでくれていた
だけど、それ以上は何も知らない
どこに住んでるのかも、
どんな日常を過ごしているのかも
ただ、同じ時間に同じ場所にいる
それだけの関係だった。
それでも
目が合うだけでよかった
いや、本当はもう少し見てほしかったのかも
イスラエル出身の23歳。
金髪で、青い目
この街には、少し似合っていないような人だ
ただ横にいただけのはずなのに
気づけば、見惚れていた
仕事が早く終わった日は、ホットココアを買って
彼女は笑って受け取ってくれた
代わりにキャンディをくれたりもする
それだけで、距離が縮まった気がしていた
何も分かっていないのに
いずれ終わりが来ること
それは変わらないんだと
たぶん…
そんなある夜
『もうすぐ終わるでしょ、この時間
最後に、何か私にくれない?』
いつもの英語
でも、そういう意味に聞こえた
俺は迷った…
彼女は5つ上
ずっと、姉さんみたいな人に見えてて
何を渡せばいいのか分からなかった
「何が欲しい?」
『次は寒いところに行くから、暖かい服が欲しい』
なんか、おかしくて笑う
そんな答えが返ってくると思っていないし
でも、その笑顔で全部どうでもよくなった
俺は白のニットを手に取り
サイズも分からない
高いものでもない
それでも、これがいいんだと
そうして、最後の夜
いつもの時間
俺は少し早く仕事を終えて、その場所に向かった
彼女たちは、もう片付けを始めてて
仲間の一人がこちらに来て話しかける
『これで俺たちは日本を離れる
友達になれてよかった。
また会えたらいいな』
握手をしながら
「いつかまた」と
彼女もこちらに気づいて歩いてくる
『最後だね。悲しくない?寂しくない?』
寂しいさ。
でも、そんなことは言えない
持っていた袋を、そのまま渡した
『これ、本当にくれるの?
軽い約束だと思ってたのに』
そう言って、強く抱きしめてくれた
初めて感じる温もりと、甘い香り
少しだけ、時間が止まった気がした
仲間が声をかける
もう行かないと、と
街はまだ光っていた
ざわめきは少し落ち着いて、夜の奥へ沈んでいく
車に乗り込んでいく人たち
短い時間だったけど、言葉を交わせた人たち
見送って、またいつもの日常に戻る
そう思っていた
……その時
車の方から、彼女が走ってくる
どうしたんだ、と思う間もなく
もう一度、強く抱きしめられる
そして、街のど真ん中で
唇を奪われた
……
『ありがとう』
日本語
…俺は、何を返せばいいのか分からなかった
「オレもだよ…」
それだけ
彼女はそのまま走って戻ってゆく
その姿が見えなくなるまで、ずっと見ていた
