第三十話「これがラバダブ」
行こう。
そう決めるまでに、何日かかったのかは覚えていない。
でも、一度決めてしまえば早かった。
フライヤーに書かれていた住所を頼りに、名古屋へ向かう電車へ乗った。
窓に映る自分は、どこか落ち着きがなかった。
膝はずっと小刻みに揺れている。
携帯を開いては閉じ、また開く。
ライブへ向かうのに、こんなに緊張したのは初めてだった。
今日は出演者じゃない。
誰もぼくのことなんて知らない。
一人で知らない場所へ行く。
それだけで心臓が速くなっていた。
名古屋駅で電車を降り、人の流れに乗って繁華街を歩く。
フライヤーの地図と街並みを何度も見比べながら歩いていると、一軒のクラブが見えてきた。
LOOP。
ここか。
階段を上がるたび、床の向こうから重たいベース音が伝わってくる。
ドアを開ける。
低音と一緒に熱気が体を包んだ。
受付で料金を払い、手の甲にスタンプを押される。
パンッ。
乾いた音と一緒に、黒いインクが肌へ残った。
キャッシャーを抜けた瞬間、そこは別世界だった。
煙草の煙で白く霞んだフロア。
酒と汗が混ざった匂い。
床まで響く重低音。
誰も気取っていない。
飾ってもいない。
煙たくて。
いなたくて。
泥臭い。
でも、その全部が格好よかった。
「こんな世界があるんや……。」
思わず見入っていた。
ステージではダンサーがショーケースをしていた。
音が鳴るたびに歓声が上がる。
客席も自然と体を揺らしている。
誰も無理して盛り上がっているようには見えなかった。
この空間そのものを楽しんでいた。
ダンサーのショーケースが終わると、次はLiveだった。
初めて見る名古屋のDeejayたち。
知らない名前ばかりだった。
それでも、マイクを握った瞬間に空気が変わる。
言葉の切れ味。
リズムの乗り方。
客を巻き込む力。
一人終わるたびに歓声が上がる。
次が出ても、また凄い。
その次も。
「やばいな……。」
思わず声が漏れた。
豊橋で見てきた景色とは何もかも違う。
ぼくは、自分がどれだけ狭い世界しか知らなかったのかを初めて知った。
時計の針が朝方へ近づく。
サウンドマンがマイクを持った。
「ラバダブ、ジョスタート!」
その一言で、フロアの空気が変わった。
談笑していたDeejayたちが、一斉にステージへ視線を向ける。
聴いたことがあるイントロが流れる。
Come Down Riddim。
次の瞬間だった。
フロア中にいたDeejayたちが、一斉にステージへ駆け出した。
「えっ……。」
ぼくは目を疑った。
マイクは一本。
なのに十人以上がステージへ飛び乗っている。
一人が歌い始める。
横から別のDeejayがマイクを奪う。
奪われたほうは、すぐに奪い返す。
肘で押し込みながら歌う者。
マイクコードを引っ張る者。
肩で割って入る者。
隙を見つけてマイクを奪う者。
順番なんてなかった。
譲り合いなんてなかった。
歌いたい。
ただ、その気持ちだけで全員がマイクへ飛び込んでいた。
ステージは戦場だった。
それでも誰も怒らない。
客席は大歓声だった。
「ウォーッ!」
「powpow!」
「ブラっブラッ!」
フロア全体が揺れていた。
ぼくは壁にもたれたまま、一歩も動けなかった。
これがラバダブ。
これが、自分でマイクを取りに行くということ。
ぼくが思い描いていた「オープンマイク」とは、まるで別物だった。
マイクを取りに行こうなんて気持ちは、一瞬で消えていた。
「……無理や。」
心の中で、小さく呟いた。
ぼくは最後まで、壁から一歩も動くことができなかった。
