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第八十四話「DIRECT」

次に待っていたのは、今までとは桁の違う景色だった。

 名古屋、栄。

 ビルが立ち並ぶ街のど真ん中で開催される野外レゲエフェス、

「DIRECT」。

 そのステージに、ぼくも立たせてもらえることになった。

 人生で初めての野外フェス。

 しかもトップバッター。

 若手枠として、最初のステージを任せてもらった。

 出演が決まった時は、ただただ嬉しかった。

「マジか。俺、DIRECT出るんや。」

 何度もフライヤーを見た。

 そこには、今まで雑誌やフライヤーで見てきた名前が並んでいる。

 その中に、

 ちーかまん。

 自分の名前がある。

 嬉しくてTwitterにも載せた。

 知り合いにも言った。

 でも、本番の日が近づくにつれて、

 嬉しさの中に少しずつ別の感情が混ざり始めた。

 怖い。

 今までのクラブとは違う。

 何十人でもない。

 何百人でもない。

 その先にいるのは、

 何千人という人間だった。

 当日。

 会場に着いた瞬間から、落ち着かなかった。

 栄の街に巨大なステージが組まれている。

 いつもなら車や人が行き交う街の中に、

 巨大なスピーカー。

 照明。

 鉄骨。

 柵。

 無数の機材。

 スタッフが慌ただしく動き回り、

 その向こうには開演を待つ人たちが集まり始めていた。

 見慣れた名古屋の街が、

 今日だけ巨大なライブ会場になっている。

 そこに自分が出演者としている。

 それだけでも、まだ現実味がなかった。

 バックDJは康二郎くんだった。

「ちーか、大丈夫か?」

「……大丈夫っす。」

 そう答えた。

 全然、大丈夫じゃなかった。

 本番5分前。

 ステージの裏で待つ。

 この5分が、

 異様に長かった。

 外から聞こえてくる人のざわめき。

 スタッフの声。

 機材を確認する音。

 風が吹く。

 そのたびに、野外なんだということを嫌でも意識した。

 心臓だけが、

 もう先にステージへ出ている。

 ドクン。

 ドクン。

 胸の内側を強く叩いている。

 手のひらが湿る。

 口の中が乾く。

 何度も歌ってきた曲なのに、

「……最初なんやったっけ。」

 一瞬、歌詞が飛んだ。

 いやいや。

 何回歌ってんねん。

 大丈夫。

 いつも通りやればいい。

 そう自分に言い聞かせる。

 でも、

 いつも通りなわけがなかった。

 ステージ袖から、

 少しだけ客席を覗いた。

 目の前にあったのは、

 壁でも、

 天井でもなかった。

 空だった。

 名古屋、栄のど真ん中。

 ビルに囲まれた野外ステージ。

 そして、その向こう。

 人。

 人。

 人。

 ずっと奥まで人がいる。

「……うわ。」

 思わず声が漏れた。

 今まで立ってきたクラブなら、

 暗闇が客席の奥行きを隠してくれた。

 何人いるのか分からないことが、

 ある意味では救いでもあった。

 でも今日は違う。

 空の下、

 何千人という人間が見える。

 自分のことを知っている人なんて、その中のほんの一部だろう。

 ぼくの曲を知らない人。

 名前すら知らない人。

 たまたまトップバッターを見ている人。

 その全員の前に、

 今から出ていく。

 足の裏が少し頼りなくなった。

 本当に俺がここで歌うんか。

 数年前まで、

 小さなクラブで歌詞を飛ばして、

 声も出なくて、

 誰にも知られていなかった自分が。

 今から、

 ここに出る。

「あと1分です!」

 スタッフの声が飛んだ。

 1分。

 さっきまであんなに長かった時間が、

 急に速くなる。

 喉を鳴らす。

 深く息を吸う。

 マイクを握った。

 手汗で少し滑った。

 握り直す。

 怖い。

 めちゃくちゃ怖い。

 でも、

 ここに立ちたくて音楽を続けてきたんじゃないのか。

 そう思った。

 康二郎くんがDJブースについた。

 目が合う。

「ちーか。」

「はい。」

「いくぞ。」

 ぼくは頷いた。

 リディムが鳴った。

 その瞬間、

 もう考える時間はなくなった。

 名前を呼ばれる。

 息を吸う。

 そして、

 ステージへ飛び出した。

 視界が一気に開けた。

 空。

 ビル。

 そして、

 何千人という人。

 ステージの上から見ると、

 さっき袖から覗いた時より、さらに多く見えた。

 人の頭が地面を埋めている。

 その向こうには名古屋の街がある。

 不思議な光景だった。

 ぼくはマイクを口元へ持っていった。

 声を出す。

 巨大なスピーカーから放たれた自分の声が、

 天井にぶつかることなく、

 そのまま栄の空へ抜けていった。

 返ってくる。

 歓声。

 手が上がる。

 遠くの方でも、

 誰かが身体を揺らしている。

 さっきまで胸の中を占領していた緊張が、

 少しずつ別のものへ変わっていった。

 楽しい。

 もっと歌いたい。

 もっとこっちを見てほしい。

 身体が勝手に動く。

 声が出る。

 いつものライブでやってきたことを、

 ただ、

 何千人に向けてやればいい。

 そう思えた瞬間、

 怖さが消えた。

 目の前に広がっている人数じゃない。

 1人ずつに歌えばいい。

 いつもと同じだった。

 違うのは、

 その1人が、

 今日は何千人いるということだけだった。

 ライブが終わった。

 ステージの裏へ戻る。

 張り詰めていたものが一気に切れた。

「はぁ……。」

 大きく息を吐いた。

 手を見る。

 まだ少し震えていた。

 耳には、

 さっきまで浴びていた歓声の残響が残っている。

 終わった。

 ちゃんと歌えた。

 何千人の前で。

 ぼくが。

 それまでのぼくにとって、

「何千人の前で歌う」

 なんて、

 テレビやライブDVDの中にある景色だった。

 売れている人。

 有名な人。

 自分とは違う場所にいる人。

 そういう人間だけが立てる場所だと思っていた。

 でも今日、

 自分の足でそこに立った。

 マイクを握った。

 自分の名前を名乗った。

 自分の歌を歌った。

 そして、

 最後までやって戻ってきた。

 その事実が、

 ぼくの中では何より大きかった。

 この日、

 何かの賞を取ったわけじゃない。

 急に有名になったわけでもない。

 明日から人生が変わるわけでもない。

 でも、

 自分の中に引いていた線が、

 少しだけ遠くへ動いた。

「俺でも、ここに立てるんや。」

 それは、

 誰かから褒められるよりも強い実感だった。

 自信というものは、

 最初から持っているものじゃないのかもしれない。

 怖くて仕方ない場所へ出ていって、

 震えながらでも最後までやり切って、

 あとから振り返った時に、

「俺、あれ出来たやん。」

 そうやって、

 少しずつ自分の中に積もっていくものなのかもしれない。

 何千人の前で歌った。

 その経験だけは、

 もう誰にも取り上げられない。

 DIRECTのステージを降りたぼくは、

 5分前までのぼくより、

 少しだけ、

 自分の可能性を疑わなくなっていた。

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