見出し画像

核心を見失う人、枝葉に溺れる人

 例えば、「好みの画像はAかBか」と問われたとする。

 その場合、一瞬観察し、自分の価値判断に基づいて、AまたはBを選べばよい。どちらも気に入らないのであれば、代案を示せばよい。それだけの話である。

 ところが、そこに余計な装飾を加え、相手を神輿に担ぐように美辞麗句を並べ始める人がいる。相手の知識量や発想の幅を褒めたいのであれば、「引き出しが多いですね」で十分である。そこに、数十冊のエンサイクロペディアを持ち出す必要などまったくない。

 また、白いシェフコートの清潔感について語られている場面があるとする。その場合、まずは相手の話を最後まで聞き、その上で自分の考えを述べればよい。相手が「白」の意味を語っている最中に、自分好みのシェフコートの色を持ち出す必要はない。それは話の発展ではなく、話の脱線である。

 枝葉の多い人の悪癖は、他者の話を一から十まで聞かず、途中で勝手に別の話題へ接続してしまうところにある。核心が何であるかを掴めていない。脳内で思考を巡らせる前に、反射的に話を切り替える。そして、気づけば自分の話を中心に、だらだらと語り続けている。

 それは、井戸端会議ならまだ許されるかもしれない。しかし、仕事上のディスカッションにおいては致命的である。なぜなら、論点がぼやけ、時間が奪われ、労力が浪費されるからだ。公私の一線、オフィシャルとプライベートの一線が曖昧なまま話すから、場にそぐわない発言となり、空気を読めない語りになってしまうのである。

 論文や感想文を書かせても、枝葉の多い人の文章には同じ傾向が表れる。与えられたテーマに正面から向き合わず、私的な思い出や身内の話を大量に盛り込む。結果として、文章は本来のテーマから離れ、まったく別次元の独白となってしまう。

 以前、若い受講生が、ある書籍について感想文を送ってきたことがあった。しかし、そこに書かれていたのは、書籍の核心ではなく、自分の父親や祖父の言葉、自身の思い出、周囲の人間の話ばかりであった。

 読み進めるほどに、文章は書籍の内容から遠ざかっていく。ベクトルは歪み、結論も的外れなものとなっていた。結局、何のための感想文なのか、理解に苦しむものとなってしまった。

 何事にも「境界線」がある。ところが、枝葉の多い人は、その境界線を見誤る。外見では分かりにくいが、内面に強い自己中心性を抱えていることが少なくない。自己中心的であるがゆえに、一般論を語り合っている場面でも、すぐに自分の親族、知人、友人の話へと変換してしまう。そして、核心からどんどん遠ざかっていくのである。

 視野や思考の範囲は、長い時間をかけて鍛えなければ広がらない。日頃から井戸端会議的な会話に慣れ切っている人は、その感覚をそのままビジネストークに持ち込んでしまう。これは非常に危険な流れである。しかも、当の本人ほど、その危険性に気づいていない。

 では、切れ味の良いトークとは何か。

 まず耳を傾けて聴く。次に価値判断を行う。そして持論を述べる。さらに一般論へ広げ、必要であれば逆説を加え、最後に結論へ導く。この順序を踏めば、話はすこぶる分かりやすくなる。

 聴く、判断する、述べる、広げる、反転させる、結論づける。

 この流れを身につけるだけで、会話も文章も格段に締まる。ところが、この簡単な方程式さえ理解できない人は、語りが曖昧なグラデーションの束となり、何を言いたいのかが相手に伝わらない。そして、結論にも辿り着かない。

 枝葉は、幹があってこそ生きる。

 幹を見失った枝葉は、ただ視界を遮るだけである。話も文章も同じだ。核心を掴めぬまま枝葉を広げれば、そこに残るのは、時間と労力を消耗させるだけの、思考下手な語りのみである。

https://amzn.to/4wTPrlQ

ここから先は

995字

メンバーシップ ¥ 1,500 /月

■なにをするサークルか 自己改革・意識改革を目指すサークル ■活動方針や頻度 原則として、不定期なが…

Well Done Basic Members

¥1,500 / 月

サポート、心より感謝申し上げます。これからも精進しますので、ご支援、ご協力のほどよろしくお願いいたします。