映画「ふつうの子ども」“ふつう”であって普通でない
“ふつう”であって普通でない
10歳の子ども三人を中心にして起きる日常の延長線上の事件。
令和の空気や世界観はあるのに、なんだが過去の自分も掘り返されるような気がして生生しい。
むしろ今の小学生はこの映画をどう感じるのかな?
小学4年生の唯士(ゆいし)
作文発表でクラスメイトの心愛(ここあ)が「地球温暖化は大人のせいだ」と訴えるのを耳にする。
大人顔負けに環境問題を語る心愛に惹かれた唯士は、ちょっと問題児の陽斗(はると)を加えた3人で“行動”を始める。
ビラを作り、町に貼り、少しずつ周囲を巻き込みながら、遊びとも本気ともつかない活動が広がっていく。
けれどその行動はエスカレートしていき、やがて学校や家庭を巻き込み、大人社会との摩擦を生んでいくーー。
SNS世代なのに、町内で大騒動
もし本当に現代の子どもが「大人にメッセージを届けたい」と考えるなら、まず選ぶのはSNSや動画サイトだろう。
だけど唯士たちの手段はビラ貼り。
手作りの犯行声明のようなビラを、車や商店の店先にゲリラのように貼っていく。
なんだかんだ活動は町内の騒動に終始する。
(ニュースにはなるけど)
リアルさを欠くようでいて、逆に観客に“自分の子ども時代”を呼び起こす仕掛けになっていた。
監督が語った「日本でショーン・ベイカーをやりたい」という言葉通り、ドキュメンタリーのように子どもを撮りながら、フィクションとして物語を“変な方向”へ転がす。
その絵の取り方は確かにショーンベイカー監督の『フロリダ・プロジェクト』を想起させる。
演技の凄さもさることながら、撮影のナチュラルさも凄い。
引き込まれてしまう( *´艸`)
芸能人起用の功罪
教師役に風間俊介、母親役に蒼井優、そして心愛の母を瀧内公美が演じる。
どの演技も素晴らしいが、あまりに有名な俳優が顔を揃えることで、無意識に「この人たちは決して突き抜けて壊れないだろう」という安心感を感じる。
もし無名の俳優だったら、家庭の不穏さや教師の無力さはもっと生々しく刺さったかもしれない。
芸能人の起用は観客を引き込む力を持つと同時に、作品の危うさを“安全圏”に収める作用も働いていた。
悩ましい問題だなあと映画好きとしても思ってしまう( ´~`)
以下ネタバレ
ナイショ(´・×・`)
あーだこーだ
三人の子ども、それぞれの“ふつう”
物語を引っ張っていく唯士・心愛・陽斗の三人は、同じ小学生という枠の中にいながら、それぞれまったく違う「ふつう」を抱えている。
まず主人公の唯士(ゆいし)。
彼は初恋の相手である心愛に惹かれて行動を始めるが、自分の意見をはっきりと言えない。
モゴモゴと口ごもりながら、相手や周囲の空気を気にしてばかりいる。
その姿には、優しい家庭で育てられた子どもの“善良さ”と、“波風を立てない”ことを何よりも優先する現代日本の大人社会の縮図のようなものが重なって見える。
彼にとっての「ふつう」とは、誰かを傷つけないこと、角を立てないこと。
だがそれが、物語が進むにつれて彼の弱さとして立ち現れてくる。
一方で心愛(ここあ)は、まるで別の方向を向いている。
環境問題を声高に訴え、教室で堂々と大人顔負けの発表をする姿は、どうしてもグレタ・トゥーンベリを思い起こさせる。
だがその原点にあるのは、世界の未来そのものではなく、家庭での寂しさや母への反発ではないかと思わせられる。
環境問題は“大人への怒りを表明しても許される題材”であり、彼女はそれを巧みに利用しているように見える。
だからこそ、牛小屋を解放した後にふっと冷めて引き上げる態度に、どこか大人びた諦念が漂う。
大義を掲げながらも「そこまで本気ではない」現実的な冷静さを持っているようだった。
そしてヤンチャでほぼ言い出しっぺの陽斗(はると)。
彼は家庭と外の顔をはっきりと切り替える子ども。
家では「良いお兄ちゃん」でいなければならないと母から言われ、その期待に応えようとしている。
けれど外に出れば一転して乱暴で、多動気味に見えるほど活発に振る舞う。
その二面性の根っこにあるのは、「お兄ちゃんだから」という呪縛の言葉だろう。
母の口から繰り返されるその一言は、彼を縛り、同時に外で暴れることでしか自分を解放できない子どもにしてしまっている。
だからこそ、今作の冒険ごっこのリーダー格として振る舞いながらも、いざというときには真っ先に親に泣きつく。
その矛盾が、彼の“ふつう”を形作っている。
ゆいし・ここあ・はると
音だけ聞くとわりとキラキラネームな感じはする。
だが、映画を観ると、単に流行を追った名前ではなく、監督が意図的に選んだ“記号”として効いてる気がする。
唯士(ゆいし)は「唯」という字がすでに“ただひとつ”を強調していて、彼の「心愛しか見えていない」偏りを暗示しているように思える。
モゴモゴしながらも、方向はひとつに決まっているという皮肉。
心愛(ここあ)は言うまでもなく“心を愛する”。
でも作中の彼女は、心から世界を愛する子ではなく、むしろ「大人に愛してほしい」「見てほしい」少女。
名前と実態のズレが、映画全体の「ふつうと普通でない」の二重構造に呼応している。
陽斗(はると)は「陽の光」と「闘う」を連想する。
けれど実際の彼は、家庭では“陽”を演じ、外では“闘”に走ってしまう。
明るさと暴力性の両立。
名前に仕込まれた二面性を体現しているように見えた。
三つの家庭、それぞれの縮図
唯士の母親を演じるのは蒼井優。
彼女は息子の自尊心を大切に守るために育児書を読み漁り、「決して叱らない教育」を貫いている。
夫にもその方針を強く説き、仕事に忙しい彼は口を挟まない。
結果として、唯士は人の気持ちを慮る優しい子に育っているが、その一方で決断できず意見を濁してしまう性格も形作られてしまった。
息子が問題を起こしても、母の反応は「なんてことを」と怒りをぶつけるのではなく、「どこで間違えたのだろう」と反省しながら寄り添おうとする。
そこには、正しさを信じて導いてきたがゆえの戸惑いと誠実さが見える。
心愛の母を演じるのは瀧内公美。
かつては娘と「お揃いのジェラピケ」で過ごすような甘い時間もあったが、今は仕事に追われ、首筋のタトゥーや荒んだ雰囲気が彼女の過去と現在を物語っている。
とはいえ、娘を嫌っているわけではない。
むしろ娘を“もう大人”として扱い、距離を置いている。
だからこそ、謝るべき場面では素早く謝罪し、娘にも罪を認めさせる。
父親の姿は一切なく、生活を背負い込む母の姿だけが際立つ。
心愛の反発は、そんな母への寂しさから滲み出ているように見える。
陽斗の母は、その両者とは対照的だ。
彼女はいつまでも息子を「お兄ちゃん」でありながら「子ども」のままだと思い込んでいる。
息子が主犯格となって牛小屋を解放したことすら認められず、「誰かに言われたからやっただけ」と庇い立てをする。
母にとって息子は、あくまで従属的で“うちの子は悪くない”という幻想の中に存在している。
父親は現代的なイクメンとして描かれるが、実際には関与を避け、育児の表面をなぞるだけだ。
三つの家庭像を並べると、それぞれが現代の日本の縮図になっているのが見えてくる。
過剰に正しさを求める家庭、生活に追われ子どもを大人扱いする家庭、そして子どもを庇い従属的に囲い込む家庭。
父の不在や距離の取り方も含め、この対比が子どもたちの「ふつうであって普通でない」行動を導いている。
活動と運動の破滅感
唯士・心愛・陽斗の三人が始めた行動は、最初は小さな“環境活動ごっこ”に見える。
ビラを勝手にそこら中に貼りつける程度なら、まだ「子どものやんちゃ」で済む。
けれど、そこからは加速度的にエスカレートしていく。
車の排気口に布を詰める。
ガソリンスタンドに勝手に環境スローガンの看板を立てる。肉屋に「肉はCO₂を生む」という理由でロケット花火を撃ち込む。
牛小屋の柵を壊し、牛を解放する――。
その過程は、理想を掲げた小さな活動がだんだん「遊びの延長」を超え、誰かの生活を破壊し、やがて洒落にならない暴力へと転じていく構造そのものだった。
牛が小学校のグラウンドに現れるくらいなら「痛快な事件」で終われたかもしれない。
けれど現実には、道路に闊歩した牛に驚いた車が事故を起こし、運転手が重傷を負う。
大義名分を掲げた行動が、関係のない人間の生活を破壊し、取り返しのつかない被害を生む。
その過程に観客は、連合赤軍や学生運動の“破滅の構造”を思い出さずにはいられない。
運動の空しさは唯士の立場に凝縮されている。
彼は活動に違和感を覚え、「本当にそれでいいのかな・・」と小さな否定を口にするが、結局押し切られる。
自分なりの抵抗として「肉を食べない」という小さな実践を試みるが、母親に「大きくなるために必要」とあっさり否定される。
つまり彼の中の「個人的な正しさ」と「社会の中での現実」が噛み合わない。
さらに皮肉なのは、子どもたちが攻撃する対象がすでに環境配慮の工夫をしていることだ。
牛を飼う農家は飼料を調整してメタン排出を抑えようと努力しているのに、子どもたちはその背景を知らずに「加害者」として攻撃する。
これは、社会運動や政治運動がしばしば直面する「大義と現実の乖離」をそのまま反映している。
理想が暴走し、現実に生きる人々を傷つけてしまう。
その構造的な空しさが、映画全体を覆っている。
学生運動もそうだった。
理念は正しい、しかし現実の生活に食い込んだ瞬間に摩擦が生まれ、やがて破滅的な方向に向かう。
結束を固めるはずが分裂を招き、声を上げるはずが暴力に呑まれる。
唯士たちの“子ども運動”は、その縮図を鮮やかに再演している。
だからこそ観客は、この物語をただの「子どもの冒険」として笑うことができない。
そこには歴史の苦さと。社会運動が抱える普遍的な矛盾とが、重苦しく横たわっている。
ビワ事件
この映画を観ながら、すっかり忘れていた自分の子ども時代の記憶が甦った。
ド田舎の小学生だった私は、学校の帰りに友達から
「ビワ食べに行こう!!」と誘われた。
既に5人ほどの児童がよそ様の家の木のビワを食べていた。
リーダー格の学年が上のS君が木に登り、下の子ども達にふるまっていた。
最初S君の家なのだと思っていたけど、たぶんアホだったので、そんなに考えてもいなかった。
ビワはとてもおいしかった。
人生で初めての、そして一番おいしいビワだったように思う。
今でもビワは好物だ。(*‘∀‘)
・・・だが、話はそれで終わるわけがない。
月曜全校児童集会で校長先生が「小学生にビワを食べられたと近所の人から苦情がきた」と言われる。
校長の口調が本気で怒っていたように見えた。
心当たりがいる者は申し出なさいと続く。。 心中はバクバクである。
だからこそ、今作の気持ちが痛いほどわかる。
私を呼んだMちゃんは集会中に目くばせをしてきた。
そう、我々が黙っていればバレることはないと。
だが、木登りし「猿蟹合戦」の猿のようにビワを我々に与えてくれた主犯格のS君が罪悪感かなんなのか、さっさと泣きながら自白したので、ビワを食べた全員が校長室呼び出しになった。
そこには自首をしたら、無実のような気持ちで我々を糾弾するS君がいた。
こういう時にどう弁解していいのかわからず無言になる私だったが、
「S君(主犯)に呼ばれていっただけだ」
と反論する者がでる。
その声に共鳴するかのように、S君へ糾弾する他の児童たち。
自分はついていっただけの雑魚気分だったので怒られるのかと怯えていたが、それ以上に人間のカオスな瞬間が怖かった。
司法取引をしたから無罪のようなふりをしていたS君の泣き喚く姿を思い出してしまった。
結局そのあとどうなったかあまり覚えていない。
みんなで謝罪したけど、お咎めはなかったように思う。
親にすら連絡が行かなかった。
緩い時代であった。
今作を観た時、そんな忘れていたビワ事件のことを思い出した。
さっさと主犯が折れる姿が重なりすぎて息が苦しくなった。
罪悪感とスリルの入り混じった感覚。
まさに「ふつうの子ども」が描く空気と重なる。
子どもは大義や倫理のためではなく、友達や空気に流され、少しの背徳感と共に冒険をする。
映画が生々しく胸に迫るのは、この“自分の愚かさと若さ”を強制的に呼び覚まされたのもあったように思う。
How dare you!
ラストに心愛が口パクで唯士に伝える。
2019年グレタ・トゥーンベリが、国連気候行動サミットで気候変動対策を怠る大人たちに対して、強い怒りや非難を込めて発したフレーズ。
「よくもまあそんなことを!」
確かに子どもとして大人たちに言ってみたくなるフレーズとして彼女は丸暗記ひていた。
それは勇気を振り絞った唯士への報いの言葉でもあったけど通じてないまでがセットでいいラストでした( * ॑꒳ ॑*)
私のビワの想い出も、はうでぃあゆー!である(;・∀・)
「ふつうの子ども」は、環境問題を描いた社会派作品に見えて、その実態はもっと複雑だ。
令和の子ども像と昭和・平成の残り香が同居し、観客世代ごとに違う刺さり方をする映画だった。
ラストの方で爆笑してる人がいたけど、世代間の差を感じしまう。
子どもの必死さを耳にせず、黙らせる母の強い一言は私には怖かったしいたたまれない、、(´ºωº`)
背後には、常に子どもだけでなく「親の問題」が存在する。
ふつうであって、普通でない。
それにしても、、、
10歳くらいだとハキハキ話して、知らないことを知っている女の子のほうが好きになるのねぇ。
最終的には駄菓子を一緒に食べて、いつも上機嫌な幼馴染の女の子の方に軍配があがるかも?(´▽`)
ところで、今の子って本当にヤッターメンのアタリで喜ぶのかしら、、。
キャベツ太郎さんを分け合うのは素敵ね。

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