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宮野真生子・磯野真穂『急に具合が悪くなる』(晶文社)

 哲学者・宮野真生子と人類学者・磯野真穂の往復書簡。宮野が癌の闘病中であり、医者に「急に具合が悪くなるかもしれない」と言われたことがタイトルになっている。濱口竜介の監督により映画化され、その作品がカンヌの女優賞を初めて受賞したということでニュースになった。(同じ日、2026年5月14日に今村聖奈騎手が女性騎手として初のG1勝利を挙げたことと並んでニュースになっていた。)これを見て、映画を見たい、先に原作も読んでおきたい、と思っていたところ、本屋で最後の一冊になっていたこの本に出会い入手。私にしては珍しいことだが、買って早速読んでみた。映画の封切りが近いからなのだが。
 感想はまあ、うーん、と言うところ。人が生死を賭けて書いた文だから、感動はもちろんあるのだが、何か難しいというか。普通の哲学書に比べたら破格の易しさだと思うのだが、それでもその思考の筋道が難しい。これもっとストレートな言葉で簡単に言えるんじゃない?と思ったり。それと編集者に言いたいが、大切と思うところを太字にするのやめて欲しい。どこが大切かは読者が決めるから。
 感動はしました。感動するべき本だから。これを映画化するっていうのもかなり無茶というか、濱口監督がどう料理したか、楽しみだ。
 感動したところを少し引いておく。
これから読む予定の人は引用ですので注意して下さい。
 ↓  ↓  ↓ 

(磯野真穂)
 〈宮野さんの返信を読み、不幸と不運の何が違うのか自分でも考えてみたのですが、不運は点、不幸は線と考えるとすっきりすると感じます。(…)は不運だけど、それを自分の人生の中にどう位置づけするかでその意味付けが大きく変わり、不幸にも、笑い話にも、取るに足らない出来事にすることもできる。その意味で、不運は他にもありえた可能性を横一列に並べて指差すことで作られます。
 一方で、不幸は起こった出来事を過去と未来の中に位置づけ、そこに意味を与えた結果の産物です。〉(P124)
(筆者の感想)
ということは、「不運」を自分の人生の時間軸の中で位置付け、「不幸と意味付け」したことにより、「不幸」となる、ということか。「不運」の段階ならスルーすることもできたのに?要は考え方、みたいな?

(磯野真穂)
 〈宮野さんはよく哲学者の業と言いますが、人類学者に同じものがあるとするのなら、他人の人生をテキストに変換し、社会的意義とかいいながら、本当はただ自分のために、陳列物として並べることなのでしょう。8便で宮野さんはおぞましいという言葉を使っていましたが、物語の中で生きることと、それを聞き取って描き、果ては業績にすることの本質的な違いを身を以て感じる今、私は自分のやってきたことのおぞましさを痛感します。〉(P216) 
(筆者の感想)
 この文脈で言うと、そのおぞましさを一番体現しているのは文学者だろうと思う。文学者は他人の物語を使い、自分の物語を使い、さらに(人類学者と正反対に)虚構の粉をまぶして、元ネタが分からないようにするが。人類学者という仕事が実際にはどんなことをするのか、この本を読んでも良く分からなかったが、人生をテキストに変換し・・・の部分は文学と重なると思った。

(宮野真生子)
 〈たしかに私は自分が他人の物語に巻き込まれたり、自分の物語に他者を巻き込んだりすることを嫌っていますし、それを怖れます。でも、それは「一方的に」巻き込む/巻き込まれることへの拒否であって、自己と他者が出会い、その出会いから、それぞれが自らの物語をどう立ち上げていくのか、そこからどんなふうに各自がラインを引いてゆくのか、それこそが大事であり、その立ち上がりが見たいのだと強く願っています。
 なぜなら、そうやって引かれたラインにつながると感じられたとき、私たちは生きて行く力を受けとることができると感じるからです。〉(P220-221)
(筆者の感想)
 この後、この「ライン」の喩えが繰り返し使われる。分かるような分からないような喩え。どのように生きるか、とかではだめなのだろうか。

(宮野真生子)
 私たちが生きる人生には偶然が充ちています。というか、そもそも偶然しかありません。(…)でも、その偶然を引き受け、私たちは生きねばならない。そのとき、自分で決めることの難しさに私たちは気づきます。
 そもそも「決める」とはどういうことなのでしょう。いくつかの選択肢のうち、いずれかを選んで、自分が納得することでしょうか。(…)
 (…)「決める」とは、あるいは「決める」ことの手前にある「選ぶ」とはどういうことなのでしょう。
 (…)選ぶためには選択肢が必要で、それが決まっていない=不確定な状態でなければなりません。つまり、選ぶとは不確定性、偶然性を許容することなのです。(…)
 結局、私たちはそこに現れた偶然を出来上がった「事柄」のように選択することなどできません。では、何が選べるのか。この先不確定に動く自分のどんな人生であれば引き受けられるのか、どんな自分なら許せるのか、それを問うことしかできません。そのなかで選ぶのです。だとしたら、選ぶときには自分という存在は確定していない。選ぶことで自分を見出すのです。選ぶとは、(…)「選び、決めたこと」の先で「自分」という存在が産まれてくる、そんな行為だと言えるでしょう。〉(P220-222)
(筆者の感想)
 運命の分かれ道というか、選択をしなければならない場面で、一つの選択をする。後で、「ああこれを選ばなければ良かった」とか「もう一つの可能性を選べば良かった」等と思うことは多くあるだろう。私の思考はほとんどその「別の可能性」を追求してその周囲をぐるぐる回っていると言ってもいい。しかし、ある一つの選択をしたことによって、自分は変わってしまったし、その後の人生は流れてしまっている。もう一度元の場所に戻っても、もうその時の選択肢は無いのだ。選んだことによって事態も自分も変わったのだ。それをこの宮野の発言を読んで思った。宮野はこの後でも、偶然が必然になり運命になる、という主旨のことを言っている。そうするのは「選択」なのだ。

(宮野真生子)
 〈九鬼周造は『偶然性の問題』の結論で、偶然を生きるとは「出会う」ことであり、(…)。
 この「出会い」とは、いったい何なのでしょう。何と出会うのでしょう。当たり前ですが、出会うためには、私とあなたという異なる二人がいなければなりません。でも、そこで出会う私もあなたも、この偶然の出会いによって変わってしまった二人のはずです。(…)偶然を引き受けるときに私たちは自分という存在を発見するのだから。そこで自分が産まれてくるのだから。だとすると、私は、出会った他者を通じて、自己を生み出すのです。〉(P230)
(筆者の感想)
 過去のトラウマの周囲をぐるぐる回って、こうあり得たかもしれない人生を色々想像するよりも、そこで自分は変わったのだという自覚を以って、新たな偶然を引き受けるために前を向くことが、自分にとって良いのでは、と思わせてくれた一節だ。

 「魂」という語、観念が嫌いな私は、最後の方で連発される「魂の分け合い」云々には閉口したが、それを別の表現で表している部分には共鳴することができた。特に最終章の、選ぶ、に関する部分からは、大いに新しい物の見方を得ることができた。

参考文献よりメモ:
木村敏(2000)『偶然性の精神病理』岩波現代文庫
九鬼周造(2012)『偶然性の問題』岩波文庫

晶文社 2019.9. 定価:本体1600円+税 (2026.6.12.読了)