『名前のない対話』
『名前のない対話』
秋の終わり、冷たい風が商店街の旗を揺らしていた。
古書店「文庫堂」の店先で、榎本透は段ボールを解いていた。
古本の束の中に、言葉のない絵本があった。
文字は一切なく、鉛筆の線だけで描かれた物語だった。
ページをめくっていると、足音がした。
顔を上げると、店の入口に青年が立っていた。
二十歳前後だろうか。
背が高く、少し不安そうな顔をしている。
青年は何も言わず、店の中を見回した。
「いらっしゃいませ」
透が声をかけると、青年は小さく頭を下げた。
言葉は返ってこない。
代わりに、ポケットから小さなメモ帳を取り出した。
ゆっくりと文字を書く。
にほんご まだ むずかしい
透はカウンターの下から鉛筆と紙を出した。
「だいじょうぶ」と言い、丸を描いた。
その横に、自分を指さして書く。
とおる
青年は少し驚いた顔をしてから、笑った。
そして紙に書く。
アミル
透はその名前を声に出した。
「アミル」
青年は嬉しそうに何度も頷いた。
アミルは店内を歩き回り、一冊の本を手に取った。
動物の写真集だった。
彼はページを開き、犬の写真を指さした。
「……ドッグ」
「いぬ」
「いぬ」
次に猫のページを指さす。
「キャット」
「ねこ」
「ねこ」
少しずつ、音と音が渡されていく。
アミルはしばらく店内を見回してから、胸に手を当てた。
「……ライク」
透は本棚を指し、笑顔で言った。
「本、好き」
アミルの顔が明るくなる。
「ライク! ライク!」
透は胸を指さした。
「あったかい」
言葉は通じていないはずなのに、アミルは頷いた。
アミルは店の奥の椅子に座り、言葉のない絵本を開いた。
雨の絵。
傘の絵。
一人の人物。
もう一人の人物。
最後のページで、二人は同じ傘に入っていた。
アミルは最後のページを指さし、透を見た。
「……ライク?」
透は少し笑った。
「うん。たぶん好き」
アミルは胸に手を当てて頷いた。
帰る前、アミルは紙に書いた。
ありがとう
少し歪んだ文字だった。
「覚えたの?」
アミルは照れたように笑う。
透は答えた。
「ありがとう」
二人は少しだけ頭を下げ合った。
ドアベルが鳴り、静けさが戻る。
透は机に座り、ノートを開いた。三年前の丸と線の図が残っている。
その横に、今日の日付だけを書いた。
窓の外では、夕暮れの光がゆっくりと薄れていった。
【終】
