見出し画像

『未着地』

『未着地』
夜の小さな空港ターミナルには、
到着より先に、
「どこにも降りない時間」が漂っている。
二十三時十八分。
女は、
出発ロビーの端で椅子に座ったまま、
何も持たずに人の流れを見ていた。
チェックインカウンターは静かだ。
照明は明るいのに、
声だけが少し遠い。
スーツケースの車輪が床を転がる音。
それだけが、
移動していることを証明している。
掲示板には、
出発と遅延と欠航が並んでいる。
どれも同じ文字の密度で表示される。
女は、その列を見上げる。
どの便も、
まだ「途中」に見えた。
以前、誰かが、
「移動って、“離れること”じゃなくて、“まだここにいることの延長”だよね」
と言っていた。
その言葉を、
今になって少しだけ思い出す。
誰かが行く。
誰かが戻る。
その間にいる自分は、
どちらにも完全には属していない。
その曖昧さが、
不思議と落ち着く夜がある。
自動ドアが開く。
閉じる。
また開く。
風が少しだけ流れ込む。
空港という場所は、
いつも風の出入り口だけが忙しい。
女は立ち上がらない。
ただ、
誰かの“出発しきれなかった時間”を見ている。
ガラス越しの滑走路は暗い。
けれどその暗さの中で、
まだ動き出していない何かだけが、
静かに待機していた。

いいなと思ったら応援しよう!