掟シリーズ第十六話:「深夜、ダムの水位を覗き込んではならない」
掟シリーズ
第十六話:「深夜、ダムの水位を覗き込んではならない」
そのダムは、山々に囲まれた巨大なコンクリートの壁だった。
戦後に建設され、三つの村が水底へ沈んだ。
だが地元には、完成当時から残る掟がある。
―― 深夜、ダム湖の水位を覗き込んではならない。
監視員たちは、今でも夜間巡回の際、水面を直視しない。
理由を聞けば、皆同じように答える。
「数が合わなくなる」
その言葉を聞いた瞬間、若い技師の白石は、妙な寒気を覚えた。
どこかで聞いた。
川原の石積み。
あの古い伝承と、同じ言葉だった。
白石は、国の水資源管理機構から派遣されていた。
目的は、旧式ダムの完全自動化。
監視員を減らし、AI制御へ移行する。
「人間の感覚に頼りすぎです」
会議で彼はそう言った。
「水位は数値です。誤差はありません」
だが年配の監視主任だけは、無表情で返した。
「昔も、同じことを言った人がいました」
その夜。
白石は単独で巡回を行う。
午前二時。
山は霧に包まれていた。
巨大なダム湖は、闇の中で静かに広がっている。
風もない。
波もない。
まるで、巨大な黒い穴だった。
白石はタブレットを確認する。
水位正常。
異常なし。
だが。
数値が一瞬、揺れた。
【EL.247.3】
【EL.247.3】
【EL.247.3】
次の瞬間。
【EL.248.9】
白石は眉をひそめる。
ありえない。
数秒で上がる量ではない。
彼はフェンス越しに、ダム湖を覗き込む。
水面は静かだった。
だが。
暗い湖面の下に、“灯り”が見えた。
白い。
ぼんやりした灯り。
一つではない。
無数。
まるで、沈んだ村に、まだ家々の明かりが灯っているみたいだった。
白石の喉が乾く。
そのとき。
湖の底から、鐘の音が響いた。
ゴォン……
低い。
水の中とは思えないほど、はっきりした音。
すると水面に、人影が浮かび始める。
老人。
女。
子ども。
全員、水の中に立っている。
肩まで沈みながら、こちらを見上げている。
監視主任の言葉を、白石は思い出す。
“数が合わなくなる”
違う。
合わなくなるのは、水位じゃない。
“沈んだ人数”だ。
白石は後退する。
だがタブレットが、勝手に警告を表示し始める。
【現在水位:247名】
【現在水位:248名】
【現在水位:249名】
数字が増えていく。
湖面の人影も、増えていく。
白石は息を呑む。
あれは水位ではない。
“中にいる数”だ。
その瞬間。
湖面の中央が、ゆっくり盛り上がった。
巨大な何かが、下から立ち上がろうとしている。
黒い。
異様に大きい。
そして表面には、無数の家屋の影が張りついている。
まるで、村そのものが、一つの生き物になっているみたいだった。
水の中から、大量の声が響く。
「まだ沈んでいない」
「まだ終わっていない」
「数が足りない」
白石は走った。
背後で、ダム全体が軋む。
ゴゴゴゴゴ……
コンクリートが震える。
警報灯が赤く点滅する。
そして。
管理室のモニターに、最後の表示が現れる。
【境界水位、上昇中】
翌朝。
ダム湖の水位は、なぜか三メートル下がっていた。
原因不明。
だが湖底調査では、存在しないはずの“村道”が発見された。
水の底へ向かって、新しく伸びていたのである。
