Photo by
pasteltime
『試着室の前』
『試着室の前』
服を買う気は、 そんなになかった。
見るだけ。
たぶん見るだけ。
そう思って店に入る人間ほど、 なぜか買う。
青年はシャツを一枚手に取った。
鏡を見る。
合わせてみる。
戻す。
また別のシャツを見る。
戻す。
服選びというものは、 決断より迷いの方が長い。
店内は静かだった。
休日の午後。
人はいる。
だが混んではいない。
そのとき、
試着室のカーテンが開いた。
女性が出てくる。
新しいワンピースを着ている。
だが誰かに見せるわけではない。
店員を呼ぶわけでもない。
ただ鏡の前に立つ。
少し離れる。
近づく。
横を向く。
また正面を向く。
真剣だった。
驚くほど真剣だった。
青年は思う。
人が自分自身を見つめる姿には、 独特の美しさがある。
誰かの評価ではない。
流行でもない。
SNSでもない。
ただ、
「私はこれを着たいだろうか」
という静かな対話。
女性は袖を触る。
裾を見る。
首を傾げる。
そして少し笑う。
たぶん気に入ったのだろう。
その笑顔は、
誰かに向けたものではなかった。
鏡の中の自分に向けたものだった。
青年は視線を戻す。
シャツを見る。
鏡を見る。
自分を見る。
なんだか急に、 服をちゃんと選びたくなった。
五分後。
女性は試着室へ戻る。
カーテンが閉まる。
店内は元の静けさへ戻る。
青年は一枚のシャツを手に取る。
さっきまで迷っていたのに、
なぜか今は少しだけしっくり来る。
会計を済ませる。
店を出る。
夕方の光が歩道に伸びている。
袋は軽い。
風も軽い。
青年は歩きながら思う。
人はときどき、
誰かの横顔に惹かれるのではなく、
誰かが自分自身を好きになりかけている瞬間に、
心を動かされるのかもしれない。
