建築のパースペクティブ 【番外】 9/3 #Netflix感想文 映画『アメリカンサイコ』『ファイトクラブ』をみて 男の部屋
※ラストのネタバレを含んでいます。
いつもは実在の建物の話をしていますが、たまには映画のセットを肴にさせてください。かなりの長文です。お時間あるときに最後まで読んでもらえれば幸いです。※3,500字くらいあります(^^;
歳のせいか、Netflixで観た二本の映画の「男の部屋」が、妙に頭から離れない。『ファイト・クラブ』と『アメリカン・サイコ』。どちらも世紀の変わり目あたりに撮られた、男の暴力の話だ。ストーリーはずいぶん違うのだが、爺さんの目はどうしても、登場人物が「どんな部屋に住んでいるか」ばかりを追ってしまう。職業病である。
二本を観終えて、心に残ったのは、四つの部屋だった。この四つをたどってみたら、案外、いまの私たちの住まいの話にまで地続きだった。これはその散歩の記録である。
一部屋目、二部屋目 ――埋めた部屋と、剥き出しの家
『ファイト・クラブ』の主人公は、IKEAの通販カタログで自分を組み立てる男だ。どのソファを選ぶか、どの食器で食卓を揃えるか。カタログの番号を諳んじ、届いた家具で部屋を一分の隙もなく完成させていく。完成された、美しい、そして誰もいない部屋。家具什器で埋め尽くすことで、空白を隠している――そういう部屋だ。
その部屋が、物語の序盤であっけなく吹き飛ぶ。
男が次に転がり込むのが、朽ちかけた廃屋である。雨漏りがし、床は抜けかけ、家具などあってなきがごとし。カタログの部屋とは正反対の、空白をそのまま剥き出しにした空間だ。
面白いのは、この二つの部屋の温度感が逆さまなことだ。完成されたカタログの部屋には人の気配がなく、壊れかけた廃屋のほうに、なぜか人が生きている手触りがある。所有物で武装した城は無人で、何も持たない廃墟に体温がある。監督はここで、「所有を手放したときに人間性が回復する」という方向へ物語を進めていく。
建築を生業にしていると、この反転はよく分かる。人が本当に暮らしている家というのは、たいてい少し散らかっているものだ。完璧に整った完成予想図(パース)のような部屋は、竣工写真のなかにしか存在しない。写真の部屋には、住人がいない。
三部屋目、四部屋目 ――白い部屋と、もう一つの白い部屋
さて『アメリカン・サイコ』のほうは、もう一段ややこしい。
主人公のヤッピーが暮らすのは、白と鏡とガラスでできた高層マンションの一室だ。これもまた「完成された無人の部屋」なのだが、よく見ると、あれは住まいというより実験室か工場に近い。朝の身支度の場面を思い出してほしい。顔に氷のパックを当て、大量の美容液を塗り重ね、腹筋の回数を数える。あれは生活ではなく、製造工程だ。彼は毎朝あの部屋で、「ベイトマンという製品」を一から組み立て直している。人が暮らす場所ではなく、人を加工して出荷する製造ラインなのである。
そして『ファイト・クラブ』と決定的に違うのは、この映画には廃屋にあたる部屋が出てこないことだ。逃げ場としての、体温のある空間が、どこにもない。
そのことが際立つのが、主人公が同僚を手にかけたあとの場面だ。彼は死体を、殺した相手のアパートへ運び込み、あっさりとそこに住みついてしまう。自分の白い部屋と、他人の部屋。二つの部屋は、もはやどちらが誰の住処か区別がつかない。彼はそこで、また惨劇を繰り返す。名刺の出来栄えで人間の格を競い合うこの世界では、部屋も、そして住む人間さえも、交換可能なのだ。
そして、この映画でいちばん背筋が寒くなるのが、その後始末に戻る場面である。皮肉なことに、殺した同僚の部屋のほうが、主人公の無菌室より明らかに人間くさい手触りをしていた。ところが死体を片づけようと戻ると、そこはもう空っぽで、売りに出ている。血の痕も、臭いも、何もない。やってきた不動産屋は「ここはあの人の部屋ではない、二度と来るな」と彼を追い払う。人が何人消えようと、部屋は何事もなかったように磨き上げられ、次の買い手を待っている。器だけが残り、中身は静かに入れ替わる。殺人よりも、この「なかったことにされる」冷たさのほうが、爺さんには恐ろしかった。
『ファイト・クラブ』は「埋めた部屋」と「剥き出しの家」の対比だった。つまり、逃げ道があった。ところが『アメリカン・サイコ』は「完成された部屋」と「もう一つの完成された部屋」で、どちらも無人。逃げ場がない。主人公には、廃屋に相当する救いの場所が用意されていない。だから最後まで、彼のなかの空白は閉じないままなのだと思う。
同じ「男の部屋」を描いても、片方はまだ「逃げる」ことを信じられた。もう片方は、逃げた先すら無菌室だった。この差が、爺さんにはずっと引っかかっている。
――そういえば、と思い出す。『ファイト・クラブ』のほうの主人公は、自分の感情すら「これは俺のものだ」とは言わなかった。雑誌で見かけた「私は誰それの延髄です」という臓器の一人称小説を真似て、「私はジャックの浪費された人生だ」「私はジャックの拒まれた心だ」と、自分をまるで他人の部品みたいに突き放して呼ぶのだ。かたや空間で自分を工場化する男、かたや言葉で自分を部品に分解する男。住む部屋は正反対でも、やっていることは案外そっくりなのである。
ここから少し、映画を離れて現実のインテリアの話をさせてほしい。
『ファイト・クラブ』が「所有社会の対極」として廃墟を置いたのは、90年代末のことだ。あの北欧風のフラットパック家具――カタログを見て番号で注文し、自分で組み立てる、あの手の家具――が、ちょうど中産階級の「自分らしさ」の道具になっていった時代である。映画の主人公は、まさにその申し子だった。
ところが、である。
それから十年ほどかけて、インテリアの流行りは面白い方向へ転がっていった。ミニマリズム。そして、いわゆるインダストリアルやロフト趣味だ。
インダストリアルというのは、もとをたどれば「工場」である。使われなくなった倉庫や工場にアーティストが住みついたのが始まりで、天井の配管も、鉄骨の梁も、レンガや打ち放しコンクリートの壁も、本来なら仕上げで隠すところを、あえて隠さずに見せる。あの、天井にダクトが剥き出しで走り、壁がコンクリートむき出しの、少し無骨なカフェを思い浮かべてもらえればいい。未完成のまま完成とする、あの手の内装のことだ。
お気づきだろうか。あの映画のなかで「廃屋」が象徴していたはずの、未完成・素材の露出・剥き出しの手触りが、十年後にはおしゃれな「商品」として売られるようになったのである。所有社会の外に置かれたはずの廃墟の美学が、そっくりそのまま消費社会に回収されていった。皮肉なものだ。反逆の記号ほど、よく売れる。
さて、いまの私たちの部屋は、どちらなのか
現代において「持たない暮らし」「ミニマリズム」「無印的な、白くて何もない部屋」。削ぎ落とした空間が、いまや豊かさの証のように語られている。物を減らし、余白を尊び、生活感を消す。
だが、ここで爺さんは立ち止まってしまう。この削ぎ落とした真っ白な部屋は、いったいどちらなのだろう、と。
物を手放して人間性を取り戻した『ファイト・クラブ』の廃屋なのか。それとも、何もなさすぎて逆に空虚が閉じない、あの『アメリカン・サイコ』の白い無人室なのか。
同じ「何もない部屋」でも、この二本の映画は正反対の意味を持たせていた。片方は救いで、片方は地獄だ。そして私たちがSNSに上げる、生活感を消した美しい部屋の写真は――住人のいない、あの竣工写真に、少しだけ似てはいないだろうか。
余白は、豊かさの証にもなるし、空白を隠す道具にもなる。どちらになるかは、たぶん部屋のせいではない。そこに人の体温があるかどうか、それだけの違いなのだろう。
最後にもう一度だけ、『ファイト・クラブ』の部屋の話をさせてほしい。物語の幕切れで、主人公はこれまでで一番高い場所に立つ。廃ビルの高層階、窓の外には夜の街が広がっている。そしてその眺めのなかで、金融会社のビル群が、一つ、また一つと崩れ落ちていく。人を所有と負債で縛ってきた、あの垂直の塔がだ。
面白いのは、彼がようやく手にした「高い視点」が、積み上げた財の頂上から見下ろす眺めではなく、それが崩れていくのを見届けるための高みだった、という点である。上りつめて得た眺望ではない。すべてが倒れる様を眺める、特等席なのだ。
思えば冒頭で、爺さんはこう書いた。完成予想図(パース)や竣工写真には、住人がいない、と。あれも建物を上から見はるかす俯瞰(パースペクティブ)である。だが人の消えた冷たい俯瞰だ。ところがこの廃ビルの高みには、人がいる。主人公は、これまで頑なに拒んできた自分のもう半分――そう読む向きもある、あの女と、がらんとした部屋で手を取り合っている。垂直に積み上げた所有が崩れ落ちたその跡地に、水平の、体温だけが残る。同じ高みでも、人が消える俯瞰と、人が残る俯瞰があるのだ。
おっと五部屋目でしたね(^^;
猫が徘徊し散らかった我が家を見回して、まあこれでいいか、と爺さんは思うのである。人間性が残る証拠だ。
(了)
読んでいただき、ありがとうございます。
また来ていただけたら、次につながる爺さんです。
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