「純潔」はキモいのか
東大新報・倫理問題研究班の「今、純潔がトレンディー」(1995)は、「新純潔運動」を掲げ「結婚するまでは童貞、処女を守る」ことを推進しようとした。
ここでいう「新純潔運動」とは、フリーセックスをやめようと主張するもので、その理由には、エイズ感染者の増加があった。
今はエイズ新薬により、健康な人と変わらない日常生活を送ることができると言われている。
日本の若者の間で「純潔」という言葉が使われていないのは、学校の性教育で、「愛」というものにたくさんの種類があることを教えられないことが問題だという。
愛は時に傷を与え、嫉妬や恨みの情念を抱きもするが、人びとは希望を捨てきれず、愛を求めていくもので、精神的価値を追求する心は、個人における自己実現への欲望のみならず、対人関係において、より円滑な関係を求め、さらによりよい社会、世界を希求することを示唆している。
家庭崩壊や若者の間に性病が広がる今日、だれもが愛について真剣に考えることが、隣人への思いやりに繋がっていくという。
ウィルヘルム・ライヒのオルガスム理論は、性の快楽が人生の幸福を決定するという内容だが、人間には否定できない精神の尊厳性があり、ライヒの性理論は性から愛を分離させてしまったことを嘆く。
倫理的な規範は、人間を拘束し、封建的な人間関係の鎖に縛りつけてきた。
貞操は女性にだけに要求され、男性は妾を持つことが公的に認められた時代があった。
いまでも、「女性向け風俗」が話題になり、女性が買う側になるのは珍しいので注目されるが、女性に性サービスを提供する男性側への関心は薄く、あくまで女性側に視線が向かう。
キャバクラに男性が通うのは自明視され、ホストクラブに通う女性を追う番組なら成立する。
男性の欲望は当然視され、女性は物珍し論評の対象とされる。
女性が身体や性を商品化する時に注目されるのは売る側の女性、男性が商品化される時に注目されるのも買う側の女性(鈴木涼美 2026)である。
身体的な性差が分かりやすいため、言葉が作り出している社会的な構造は、簡単にはかわらない。
いま、愛の種類はどんどん増えて、「親子の愛」「友情」「性的な愛」「ステディ」とか「夫婦愛」、その人が大切にしている人やモノはみんな違っている。
したがって「純潔」が、どの範囲にたいしてどう要求されるのか、ぼんやりしてしてしまう言葉はキモい、うっとおしいような、説教臭い感じなんだろう。
この倫理問題研究班は、「地球家族社会と言えるような未来を作っていくために進んで行こう」と述べているが、継続的な活動の実態はない。

