#96 なぜ八段の先生に小手胴を打ってはいけないと言われるの?
「なぜ八段の先生に小手胴を打ってはいけないのですか?」
失礼だからでしょうか…?
先日、大人になってから剣道を始めて10年に満たない友人から、ストレートに質問されました。
質問の意図を咀嚼しながら、私の今の自分の考えを伝えてみました。
●そもそも私は八段の先生に小手胴を打ちたいと思わないし、せっかくの先生との稽古で、その技に費やす時間とエネルギーがもったいない
●八段の先生と稽古することができるのだから、自分の身になる稽古をしなければ意味がない
――では、小手胴を打ったら身になる稽古にならないのか?
関係性や技前にもよるのかもしれないが、八段の先生に小手胴を決めることができたとして、果たして嬉しいことがあるのだろうか。
そうした技を試し、身につける機会は、八段の先生との稽古でなくてもよいはずだ。
そのような技を出すのであれば、同等または下位のお相手との稽古において、しかるべき機会に出せればよいと考える。
八段の先生は、その剣道人生において厳しい稽古を積み重ね、とてつもない地力を身につけた先生である。その先生の隙をついて技を当てたとき、「まいった」と言ってくださる先生もいるかもしれない。
しかしそこで「まいった」と言わせたとして、何か嬉しいことがあるのだろうか。
私にはない。
仮にそこで小手胴を打ったら、あるいは打ってしまったら、私は後悔するだろう。
八段の先生に懸かるのなら、私は基本を大切に、まっすぐに身体全体を使い、自分から見て最も奥にある面へ打ち込んでいくだろう。
その面が通じるかどうかといえば、おそらく通じないのだが、それでも打ちにいくことで得られるものがあると思うからだ。
ある範士が
「その先生の最も得意とするところを、あえて打ち込む稽古をすることが大事」
と仰っているのを見聞きしたことがある人もいるだろう。
先生の不得意なところや、たまたま生じた隙を探して当てるのではなく、その先生の最も強いところへ、自分のすべてをもって打ち込んでいく。それを繰り返すことによって、「地力」は養われるのだと思う。
その人にとって、地力を養うことよりも、八段の先生に技を当てることの方が大切なのであれば、小手胴を打てばよいのかもしれない。
しかし、私が稽古に求めるべきだと案じるものは、そこにはない。
■怖くても乗り越えようとする「懸かる稽古」
八段の先生ともなれば、構え合っているだけでも怖い。
何も動きがないように見えても、こちらが気を抜けば、すぐに間を詰められて打たれる。
打たれる前にと思い切って出ていけば、その技を返される。なす術がない。
それでも、眼前の高い山をまず一歩登るように、こちらから前へ出ていくしかない。
通じないとわかっている自分の気、攻め、打突を、何度でもぶつけていく。
この繰り返しによって、こちらの気、攻め、打突も少しずつ力を帯びていく。
やがて、自分と同じくらいの力量のお相手と稽古をしたとき、ふと「あれ?」と感じるときがくる。
あれほど先生との稽古で苦しい思いをし、自分の剣道の質の低さを憂いていたはずなのに、今は目の前の相手がさほど怖くない。相手が何をしようとしているのかが感じられる。
地力がついて、余裕が生まれたのだろう。ついた地力を生かして相手を誘い出すことも、技を自在に展開することもできるのかもしれない。
懸かる稽古の成果ともいえるだろう。
ただし、私の場合は、ここから少々話が変わってくる。
■懸かるのか、遣う(つかう)のか
上の先生には、懸かる稽古をしなくてはならないと私は思っている。ときには、上の先生と対等に稽古をしてやろうという欲が出てしまい「待っているだけじゃないか!」と注意を受けることもある。
それでも、上の先生に対して懸かる稽古が必要だということは、頭の中では理解している。
では、自分と同等または下位のお相手との稽古では、どうするのか。
「ほら、打っておいで」というような稽古をするのは、相手に対して失礼だと私は考える。
(癖の矯正や課題の克服など、明確な目的をもって打ち込ませる場合はそうとも限らないが)
しかし、ただ構え、相手が打ってくるのを待っているだけの稽古になってしまえば、お相手に対して失礼であるばかりでなく、自分のためにもならない。
「同等あるいは下手(したて)の相手には、遣う稽古をすること」
それが上達への近道だと言われていることも理解はできるのだ。
しかし私は、同等または下位のお相手に対しても、自分から縁を切ることなく、自分から大きく打って出ていかなくては…と思ってしまう。
そのため、私はどのような相手に対しても、面を主体とした稽古になりがちだ。
臨機応変な技を十分に覚えないまま、時を費やすことになるのかもしれない。
それでよいのだろうかと迷うこともあるのだが、私は実は「それも悪くないな」と思っているフシがある。
迷いが消えないうちは、無理に器用な剣道を求めるよりも、その時々の自分が納得できる稽古を続けた方が、結果として身になるのではないか。
それに、日頃から面を主体に前へ出る技を繰り返していると、いざというときには小技が使えたりするものだ。
ただし、これはあくまで今の自分の考え方である。
若い頃には、上の先生に何かを打ち込んでも評価されないことに、不満を抱いたこともあった。
「今の技は当たったのに、なぜ認めてくれないのか」
動きの少ない高段の先生を見て、「つまらない剣道だ」と勝手に評価し、見下すような思いを抱いたこともあった。
今になって考えれば、見えていなかったのは先生の剣道ではなく、私の方だったのかもしれない。
年輪を重ねなくては、気づくことのできないものがある。その意味では、今の私にも、まだ見えていないものがたくさんあるのだろう。
■なぜ地力を養うか
これもまた、友人からの質問です。
「地力」とは、何なのでしょうか。
私なりに言えば、基本を身につけることと、肚(はら)が出来上がっていくことではないかと思います。
この両輪がうまく回ることが地力につながっていくのだと考えています。
地力がなければ、年齢を重ねるにつれて、思うような剣道ができなくなっていきます。
たとえば、私が30代だった頃に50代だった二人の先生がいたとしましょう。
二人とも七段に合格してそろそろ10年が経とうかという時期にあり、充実した見事な剣道をされていました。
それから20年が経ち、私は50代に、先生方は70代になりました。
一人の先生は、若い頃と大きな違いがわからないほどに今も颯爽とした剣道をされています。
そのうえ、構えから余分な力みが抜け、以前にも増して攻めのある剣道になっています。
一方でもう一人の先生は、かつてまっすぐだった面が右に傾き、防御のために大きな動きを見せたり、技前もなく打ってきたりするようになっている…そのような違いが表れることもあるかもしれません。
(これは説明のために設定した架空の例であり、特定の先生をモデルにしたものではありません)
この両者の違いは何なのでしょうか。
私なりの解釈では、地力を養う稽古を続けてきたかということに帰結します。
「年配の先生を嗤うことはできませんね」
そう言ったのが友人だったか、別の仲間だったかは思い出せませんが、そのとおりかもしれません。
私自身、すでに若い頃にできていたことが、できなくなっています。
この先、気を抜けば、私の剣道もますます衰える一方です。
剣道は、年齢を重ねても伸び続けることのできる武道です。
体力が衰えても、気の充実や円熟によって伸び続けることができる剣道という武道は、誰にでも可能性があるものだと私は考えています。
その可能性を拡げるためには、楽しいだけでは乗り越えることのできない「地力を養うための稽古」を、地道に積み重ねるしかないと思うのです。
■多様な教えを受け止める
八段の先生にも、それぞれの剣道があります。
それはおそらく、その先生が今日に至るまで、何を大切にして稽古を重ねてこられたかということと重なるのでしょう。
私が面だけをひたすら打っていくことを、評価してくださる先生がいます。
一方で、「面だけでは単調になるから、工夫していろいろな技を出しなさい」と言ってくださる先生もいます。
以前の私は、「いったいどちらが正しいのだ」と迷ったり、「先生によって言うことが違う」と不満を覚えたりしていました。自分の中で決められない何かを、先生方のせいにしていたのかもしれません。
八段の先生に小手先の技を出すなんて失礼だという声も聞こえるでしょう。
教えてくれる…という視点でいえばそうなのですが、失礼かどうかよりも自分がどのように先生と向き合うことを良しとするか、なのだと思います。
先生が仰ることを、ありがたく受け止めればよいのだと、今は思えます。
それぞれの先生が「こうあってもよいのですよ」と示してくださった内容に合わせて、稽古に取り組めばよいのだと考えます。
それによって少しでも自分の剣道の幅が広がるのであれば、ありがたいことです。
面だけを打つことが、唯一正しいとは言い切れませんが、それでも私は、八段の先生との稽古において、まずは自分の最も苦しいところから、まっすぐに面へ打ち込んでいかなくては、と考えます。
「技に貴賤はないのだから、何をやっても良いはずだ」
…そのとおりです。ここで、小手胴そのものをよくない技だと示しているのではありません。
八段の先生との滅多にない稽古で、自分が何を求め体現するのか。
剣道は、技を身につけることだけを目的とするものではありません。
さまざまな意味で、自分自身を鍛え、少しでも向上していこうという気持ちが必要です。
真向勝負の意をもって、自分の最も苦しいところからまっすぐにぶつかっていく稽古を繰り返すのと、正面から攻め合う苦しさを避け、脇道から技を当てることに執心するのとでは、その先に見えるものはおそらく違ってきます。
■今回のあとがき
「八段の先生に小手胴を打ってはいけないのか」
打ってはいけないという決まりはありませんが、八段の先生との稽古で小手胴を打とうとは思いません。
先生に通じないとわかっていても、まっすぐに面へ打ち込んでいきたいと思っています。
器用な結果にはならないかもしれません。
何度打っても届かず、返され、打たれ、自分の未熟さだけを突きつけられることになるでしょう。
それでも、自分自身を鍛えるための技を繰り返す。
その積み重ねによって、いつの日か自分の中に地力が養われ、わずかでも上達を感じられるときがくる。
その喜びを感じつつ稽古を積み重ねることができたら、生涯楽しく剣道を続けることにつながっていくのだと思います。
なお、文中の「小手胴」という表現は、ほかの技にも読み替えられます。
また、「八段の先生」という表記は、教えを授けてくれる先人の象徴であり、段位は必ずしも関係ないものだということをお伝えしておきます。
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