長い旅の終わりに vol.17 「村上春樹の『夏帆』と一人の女性への好奇心」
一昨日、村上春樹氏の最新作『夏帆』を購入した。
今回、読み始めるまでの間に少しの時間を必要とした。
これが三十年前だったら、仕事帰りに広尾の明治屋へ立ち寄り、アムステルの500ml缶6本パック、それにスコッチ・ウイスキー(JWのブラック・レーベル or フェイマス・グラウス?)あとウィルキンソンの炭酸水を一本、つまみとしてチーズや生ハム、グリッシーニとスタッフドオリーブを買い込み、ついでにバゲットを一本抱えて家に帰っただろう。
そして、シャワーを浴びた後、部屋の照明を全体的に落とし、おもむろにビル・エヴァンスを抑制の効いた音量で流す。
その静かな時間に、待望の村上春樹の新作単行本を胸をときめかせて開く‥‥‥‥‥‥‥‥。
かって、私にとっての村上作品を読むという行為は、単なる読書である以前に、そうした所作そのものを内包する儀式の一つだった。
しかし、時代は変わる。
自分も変わる。
そして、悲しいかな、本の価格までもが変わった。
今回の『夏帆』は、なんと2,600円(税別)である。
『騎士団長殺し』の上巻を買い求めた2017年2月には1,800円(税別)だったことを思えば、隔世の感がある。
もっとも、私は単純に本の価値と値段の事を問題にしている訳ではない。
すべての問題は、私の側にあった。
読み始めて六十三ページ。
アリクイの夫婦が一体になった時、私は静かに本を閉じた。
「JR武蔵境」という具体的な固有名詞が登場した時点で、私はその先へ読み進む自信を失い始めていた。
読むためのモチべーションが、自分の中から消え失せていたからである。
だからして、この文章の目的は作品の書評などではない。
単純に、今の私が求めていた村上春樹ではなかった、というだけの話だ。
私が期待して待っていたのは、あの「やれやれ」と肩をすくめる、私と同年代の主人公の姿であり、日常の片隅から少しずつ世界の輪郭がずれていく、あの主人公の今の姿だった。
それに関しては100%私の個人的な嗜好の問題である。
だから、今の私に「夏帆」の内容に触れて語る資格はない。
ところが、今回の「夏帆」に関しては不思議なことに、読み続ける気持ちは失ってしまったものの、一つだけ妙に心に引っ掛かったシーンがあった事がキッカケでこの文章を書いている。
◇
頭の方で、ブラインドデートの主人公に向かって男性がこう言う。
「好奇心でデザートまで付き合った」
その一文を読んだ瞬間、私は非常に個人的な一ヶ月ほど前の出来事を思い起こしていた。
丁度、今からひと月ほど前の事だ。
同じ職場の若い女性に、夜中の遅い時間に仕事の確認で緊急のLine電話をしたことがあった。テン・コールほど鳴らした後に切ると、数分後に折り返しがあった。
私が出ると彼女は開口一番、
「すみません。ウンコしてたので電話に出られませんでした」
と言った。
私は一瞬言葉を失った。
「タイミングが悪かったね。もう大丈夫?」
「はい、もう大丈夫です」
その後は何事もなかったように仕事の話を続けた。
しかし、電話を切ったあとも、その一言だけが私の頭から離れなかった。
なぜ彼女は、そんな返答をしたのだろう。
普通なら「気づきませんでした」とか「手が離せませんでした」と言えば済む話だ。
問題は「ウンコ」である。
しかも、それを口にしたのは若い女性だった。
本当だったのかもしれない。
冗談だったのかもしれない。
私を試したのかもしれない。
あるいは、何も考えていなかったのかもしれない。
俄然、その答えが知りたくなった。
数日後、たまたま二人きりになる機会があったので、私は食事に誘ってみた。そして、誘う理由も正直に話した。
「自分の人生の経験上、電話に出られなかった理由を『ウンコしてました』と言った女性はあなたが初めてです。仮にそれが、本当でも冗談でも構わないのだけど、そんな返答をするあなたという人に、とても興味を持ちました。一度ゆっくり話をしてみたいのですが、どうですか?」
本当はもっと自然な口調で会話を進めたのだが、内容だけ書くとそういう事だ。
彼女は明るく笑って、「いいですよ」と言ってくれた。
もちろん、彼女は極めて魅力的な女性なのである。
だから、「まったく下心はありませんでした」と言えば嘘になるだろう。
75歳にもなって、そんなきれいごとを言うつもりなどない。
しかし、あの日の私を動かしたものは、それ以上に、人間という存在への好奇心だったように思う。
人は何を考え、どういう言葉を選び、どんな世界を見て生きているのか。
そのことを知りたい。
75年生きてきても、その好奇心だけは少しも衰えていないらしい。
皮肉なことに、私は『夏帆』を最後まで読むことはできなかった。
(現状で読む可能性は残されているけれど、90%以上の確率で読まない自信がある)
けれど、62ページ辺りまで読んだからこそ、自分があの女性を誘った理由を、初めて今こうして言葉にすることができる。
小説は最後まで読まなくても、人の心を映す鏡になることだってあるという好例だ。
◇
だがしかし、万が一、if の話だ。
もし、彼女が私と同年代の女性だったとして、私は誘っただろうか。
その問いには、少し考えてしまう自分がいる。
75歳ともなれば、人間はもう自分のことくらい理解しているものだと思っていた。
ところが実際には、そうでもない。
人間という生き物は、自分に都合のいい理由を後からいくらでも作ることができる。
人には「恋」と呼ぶ感情がある。
それを「下心」と呼ぶのかも知れない。
置かれた状況次第で「好奇心」と呼ぶこともある。
結局のところ、それらの感情をきれいに区別することなど、人間にはできないのではないか。
つまりのところ、それらはすべて、自分でも説明できない感情に後から貼り付けたラベルに過ぎないのだ。
75年生きても、人は人を理解できない。
そして、自分のことさえ理解できていない。
だから私は今でも、人を好きになる理由を説明できないし、人に興味を持つ理由も説明できない。
75年も生きてきたというのに、このザマである。
『夏帆』は六十二ページで閉じた。
しかし、その本を閉じたあとも、私の中には一つだけ答えの出ない問いが残っている。
私は、あの女性に興味を持ったのか。
それとも、興味を持った自分自身に興味を持ったのか。
どうやら、その答えは今の所見つかりそうにない。
昔は、本を読む前に酒を買っていた。
今は、本を閉じてから、人について考えている。
自分の儀式も変わった。
けれども、本を買う理由だけは、まだ変わっていないらしい。
やれやれ。
