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アンクル・トミーの津山見聞録     第二回 「レトロについての考察」

最近、日本中で“昭和レトロ”という言葉をよく耳にするようになった。

昭和歌謡。
純喫茶。
フィルムカメラ。
ネオン街。

かつて「古臭い」と呼ばれていたものに今の世代は新鮮さを感じ始めているらしい。

だが私は、その“昭和レトロ”という今のブームについては、少々キナ臭い違和感を感じてしまうのだ。
言うまでもなく、私は昭和生まれの人間である。
だから昭和の空気に懐かしいモノを感じたとしても、それをレトロだと捉える奢った感覚はない。
レトロとは、単に「旧いこと」などではない。

多くの人はそこを勘違いしている。
旧ければレトロなのではない。
単に古いだけのものは、ただの「中古品」に過ぎない。

レトロという言葉には、もっと厄介で、もっと人間臭い何かが内包されている。
言い換えれば、
それは「時間の堆積」だ。

津山のあちこちには「レトロな建造物」が数多く点在している。
それらが建てられた時、その建物は時代の最新鋭だった。
誰も「将来レトロになります」などと考えて造った訳ではない。
それらは、時代を牽引する最先端の技術であり、デザインだったのだ。

レトロを売り物にしている多くの観光地は、大切な時間の堆積にメスを入れられてリフォームを施され、まるでUSJの見せ物小屋の様に小綺麗に輝いて見える。

要するに、レトロとは最初から計画して作られるものではない。
人々に使われ、忘れられ、時には邪魔者扱いされながら、それでも壊れずに残った結果として「レトロ」は存在することになる。

だからレトロにはどこかに敗れた者の匂いが残るのである。

高度経済成長に取り残された商店街。
新しい道路ができて人通りが消えた映画館。
かつては子供たちで賑わった駄菓子屋。
そうした場所には、成功者の歴史ではなく、時代を経て生き残った者の歴史が刻まれている。

そこに人は惹かれるのだ。
なぜか。それは、人間自身がまた、時間に敗北する生き物だからだ。

若さは失われる。
流行は過ぎる。
技術は古くなる。
誰も時代には勝てない。
そして、常に時代は変わって行く。
ディランの言葉は真実を伝えている。

つまり、だから人は自分と同じように時代を生き延びたものに親近感を覚えるのだ。

レトロな駅舎を見ると落ち着くのは、建物が美しいからだけではない。
そこに「まだ残っている昔」という歴史を見るからだ。
レトロとは記憶の容器なのである。
昭和の喫茶店を見て懐かしい気持ちになる人もいれば、実際には昭和を知らない若者が「エモい」と感じることもある。

これは不思議な現象だ。
経験していない時代なのに懐かしい。
過去にあったはずの「戻らない時間」に憧れて、そう感じてしまうのである。

スマートフォンが鳴り続ける現代。
SNSが次々と情報を運んでくる現代。
何かを待つ時間すら消えてしまった現代。
私たちは何処に向かおうとしているのか。

そんな不安定な時代だからこそ、手紙を待っていた頃や、喫茶店で何時間も無駄話をしていた時代は魅力的に見える。

つまりレトロの本質とは、「旧さへの憧れ」などではない。

本物のレトロには少しの不便さがある。
少しの静けさがある。
そして少しの寂しさがある。
その寂しさこそが重要なカギなのだ。

新品には未来がある。
レトロには過去がある。
そして人間は、未来だけでは生きていけない。

時々振り返り、自分がどこから来たのかを確かめなければならない。
レトロとは、単純に旧い物のことではない。
時間に磨耗しながら、それでもなお存在し続けているもののことだ。

つまり、レトロとは「歳を取ることに成功した風景」なのである。

城東地区や城西地区の古い町並みを歩いても、観光地特有の“説明臭さ”をあまり感じない。
それは、誰かが「映える町を作ろう」と考えて設計したのではない事の証しだ。

生き残ってしまった時間。
あるいは、置き去りにされた時代の空気。

それは単なるノスタルジーなどという洒落たものではなく、もっと生身の人間の感覚的な記憶の底辺に生息している過去の時間に対する共感なのだ。

今の日本のレトロブームとは、失われた昭和への憧れというより、早すぎる時代に疲れた人々の「避難場所探しの時間旅行」なのかもしれない。

津山という場所は「その避難場所になる資格」がまだ数多く残されている稀有な町なのである。

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