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ぼっちざろっく脚本家・吉田恵里香氏に、一部議員が強引なポリコレ非難を展開。『セクシー田中さん』事件への誤解までも拡散

生成AIの誤った見出しでさらに拡散

 これは『ぼっち・ざ・ろっく!』アニメ版に関する2025年9月20日午後のXのトレンドですが、生成AIによる誤った見出しです。

Xの生成AI見出し、高頻度で誤りを含む

2022年10月の初放送時からこれまで問題なし

 今回の件は『ぼっち・ざ・ろっく』マンガ原作にも、吉田恵里香氏のアニメ版脚本にも、彼女の講演内容にも、それをもとに書かれたネットニュースにも大きな倫理的、道徳的、ビジネス上の問題があったわけではありません
 そもそも『ぼざろ』アニメ放送は2022年10月期から始まっており、当時からいまに至るまで炎上などはなく、アニメ、グッズ、配信、映画などでじわじわと客層を広げてきているヒットコンテンツです。

炎上ではなく放火、そしてAIによる延焼

 今回、批判側が根拠とする理屈は、二転三転、いや四転五転しています。批判したいという目的が先にあるのではないか、と邪推してしまうほどです。
 いま、作品名でGoogle検索をすると「ぼっち・ざ・ろっく脚本家の発言が物議」などの見出しがファーストビューで表示されますが、これは炎上ではなく、火のない所に煙を立てられた放火です。さらにそこにXの生成AIが油を注いで人々の耳目をひき、延焼させたのです。今後はこのような生成AIによる誤情報の拡散がさらに増えるのでは、と懸念されます。

コタツ記事で誤った情報が残るリスク

 しかし、事実がどうであれ、このSNS上の「放火」を元に、おそらく取材なく書かれたと思しきコタツ記事(FLASH女子SPA!zakzak 他)がすでにネットに上がってYahoo!ニュースにも転載されているため、何年も経ったあとにも検索すると誤った情報が出てくる恐れがあります。

5歳の女の子も楽しめるアニメ版『ぼざろ』

『ぼざろ』アニメ版を当時5歳、8歳だった娘たちと一緒に楽しんだ母親として(もしおっぱいの大きさの話などが出てきたのであれば、少し気まずい思いをしたかもしれませんが、そのような懸念のない、安心して見ていられるアニメでした)、また、雑誌やWebでの企画や執筆、進行管理などにも関わってきたクリエイターとして、できるだけ作品(コミック、アニメ)の名誉を傷つけないように記録を残しておきたいと思い、この記事を書いています。

吉田さんは《ぼざろがそういう描写が売りの作品ならいいと思いますが、そうではないと思いますし、覇権を狙う上ではそうした描写はノイズになると思ったんです》と、話しています」(芸能記者)

https://smart-flash.jp/entame/366933/1/1/

 問題だ、とX 上で指弾されたのは上記の《》内の内容ですが、これは2024年4月期の『虎に翼』放送中にすでに吉田恵里香氏がインタビューで語っていたことであり、新規性のあるものではありません。ただ異なるのは、今回はこれが「ANIME FANTASISTA JAPAN 2025」というアニメイベントで語られたものであり、一部の過激なファンのもとにも届いてしまった、というなのではないでしょうか。

「思想持ちはアニメにいらない」署名まで

 2025年9月19日には、吉田恵里香氏をアニメ作品のクレジットから排除することを求める署名まで始まりました。開始から1日以上が経っても署名285名にとどまっています。ただ、海外から寄せられたと思しき英語コメントを読むに、「日本のアニメ表現は欧米に比べてゆるいのでこっちは楽しませてもらっているのに、女性脚本家によってそれが制限されている!」というニュアンスで伝わっているようで、その点は残念に思います。

署名の趣旨

アニメ批評の表現の自由を狭める結果に

「思想持ちはアニメにいらない」署名の主宰は、一般人です。この署名も、表現の自由の範囲でしょう。
 ただし今回の件で「アニメ化を成功させる上で、レーティングをクリアしてターゲットを拡大することは重要。また配信が前提の昨今、小学生も見るかもしれないことを考えると、物語の根幹には関わらず、『ある』より『ない』ほうがメリットが大きくなる要素なので削る」というプロとしての判断を表す「ノイズ」というワードが、アニメのインタビューやレビュー記事において使いにくくなったことは確かでしょう。
 このような炎上、いえ放火騒ぎが、アニメの周辺文化や表現の自由を結果的に制限する可能性があることを指摘しておきます。

議員が乗っかるのは行き過ぎ

 誰にでも作品に感想を述べる権利はあります。原作のほうが好きだな、裸の入浴シーンを残してほしかったな、というのも個人の意見としてはもちろんあると思います。
 ただし、2022年10月のアニメ放映開始からこれまでそのような指摘がなかったのだとしたら(脚本家の吉田恵里香氏は同じことを語ってきたにもかかわらず)ファンとしてその目はきちんと差異を捉えていたのか?とは思います。いわれて初めて気がついた、というレベルなのであれば、それは「アニメ化に際してのチューニング」として成功していた、ということなのでないでしょうか。
 また、一般人よりも強い権力を持つ議員が、エンタメや芸術の表現において、あたかも「思想がない、純粋に中立」なスタンスが存在しうるかのように述べることは、行き過ぎだと感じられます。
「思想がない」はほめ言葉ではなく、「俺の嫌いな思想が入っていない」の言い換えに過ぎないかもしれません。下に一例として、くりした善行氏、おぎの稔氏の2投稿を引用しておきます。
 特にくりした善行氏は、当該の記事内容に基づかない、脚本家の勝手な改変であるかのような内容を英語にまで翻訳して、拡散を試みています。

くりした善行氏
『ぼっち・ざ・ろっく!』のアニメ脚本家の方が原作表現を一部「ノイズとして排除した」とのコメント。原作者はどう感じるでしょうか。性的消費・性的搾取のワードの使い方も個人的にはかなり違和感があります。

*筆者註 原作者のはまじあき先生は脚本家に感謝の意を示しています。
*筆者註 性的搾取などは、アニメオリジナル作品『前橋ウィッチーズ』に関する立ち上げについて語った箇所であり、『ぼっち・ざ・ろっく』原作に向けられた言葉ではありません。

https://x.com/zkurishi/status/1967558527347790132
「性的搾取」は別作品に関するワード

おぎの稔東京都議会議員_都民ファーストの会(大田区選出)
思想持ちはアニメにいらないってのは違う気がする。脚本家、漫画家、原作者の思想が投影されてる作品もいくらでもある。 問題なのは、自分が原作でない作品に勝手に思想を継ぎ足すな。他人の褌に色を塗るなってことなのではないか。

https://x.com/ogino_otaku/status/1969244860491166068
「勝手に思想を継ぎ足すな」おぎの稔氏

原作はまじあき先生は「感謝しております、、、!」

 こちらに、原作者のはまじあき先生の、『ぼざろ』アニメ放映時の投稿を引用しておきます。もちろん、作家さんが一般人にも見えるところに書いている言葉ですから、社交辞令もあるかもしれません。しかし脚本家が原作者の意向をふみにじった、といった非難は事実ではありません

はまじあき🎸ぼざろ7巻発売中📚  2022年12月27日
@yorikoko さん
こちらこそ本当にありがとうございました!😊✨
吉田さんのおかげで結束バンドどのキャラも平等にスポットが当たって皆の人気がでて感謝しております、、、!✨(特にアニメからの虹夏人気が凄まじく驚きました)
吉田さんのこれからのご活躍をお祈りしております、、、!!✨

https://x.com/hamazi__/status/1607686229935677441
虹夏ちゃんはアニメで人気が出たんですね

思想がなくてはものづくりはできない

 ノベライズ、コミカライズ、映画化、アニメ化、翻訳など、物語を入れる「器」が変わる際には、釈迦に説法な話かもしれませんが、メディアフォーマットが異なるため、各種の物理的・商業的な制約があります。
 この場面を、この一行を、どのように移し替えるか?
 その無数のジャッジをつねに行いながら、脚本家、小説家、漫画家、翻訳家のみなさんは、作業を進めることでしょう。もちろん、編集者やプロデューサーとの事前のやりとりやフィードバックもあり、対話をし、それを反映させます。原作者サイドと直接やりとりができるかどうかは制作体制にもより、そのコミュニケーションによっては苦労や軋轢も生まれるようです。この点については吉田恵里香氏は当該の記事でこう語っています。

原作がまず素晴らしく原作サイドもとても協力的

https://kai-you.net/article/93374

人は思想が揺さぶられる瞬間、感動する

 その仕事の過程に「思想がない」ことなどありえず、自分の価値観、表現と技術、そして「受け手はどう受け取るだろうか?」という想像力をフルに働かせます。むしろ「思想」がなくては、仕事ができません。もちろんこの思想は、固まった不変のものではなく、絶えず変わっていきます。
 クリエイターであれ、鑑賞者であれ、ある作品によって心が揺さぶられ、自分の中の思想がなにか少し変えられたように感じた瞬間、人は感動するのではないでしょうか。

セクシー田中さん事件はまったく構造が違う

 なお、今回の件で一部で引き合いに出されている『セクシー田中さん』事件は、『ぼっち・ざ・ろっく』アニメ化とはまったく異なります。
 前者は、原作者の芦原妃名子先生の意見が、小学館編集部と日本テレビを通す中で制作サイドに届いておらず、修正依頼をたびたび申し入れても直されず、最終的には芦原先生がみずから(おそらくノーギャラで?)漫画連載をかかえつつ、最終2話分の脚本を書き下ろさねばならないという状況に追い込まれ、過労と睡眠不足、また過度の精神的ストレスに晒されていた、と思われる事件です。

大切なポリコレを排除された『田中さん』

 これは私見ですが、原作コミックで大切にされていたメッセージは「レールから降りることをこわがらない」「家父長制から離れる」「女性はセクシー(=性的)でいろという要求に応えない」という生き方こそが「セクシー(=自分らしく、魅力的)」なんだよ、ということであり、『セクシー田中さん』の「セクシー」というワードの真意なのではないか、と思っています。
 それがドラマ化の際に、そのようなディテールを表すセリフやエピソードが省略・改変されてしまい、ポリティカルコレクトネス的要素、フェミニズム的要素が、日本テレビによって「漂白」されて抜かれてしまった。
 そしてその前提として、原作者の意向を正確に制作サイドに伝えない、という体制の問題があった。それこそが『セクシー田中さん』事件の根本なのではないか、とわたしは捉えています。ですから、アニメ版『ぼっち・ざ・ろっく』を炎上(放火)させ、そこに不幸にも原作者がお亡くなりになっている『セクシー田中さん』を持ち出すのは、二重、三重に失礼な話ではないでしょうか。

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