怪物製造装置としての新聞社:マルコ・ベロッキオ監督『怪物を一面でスッパ抜け!』(1972年)作品評


■メディアと政治が癒着する構造を暴く

1972年のイタリア。総選挙を目前に控えた社会的緊張の中、ベロッキオはカメラを新聞社の編集室に向けた。右派大衆紙の編集長カンナヴィオーニ(ジャン・マリア・ヴォロンテ)は、若い女性の殺人事件をネタに、左翼学生を犯人に仕立てるべく紙面を操作しはじめる。警察の捜査とは無関係に、見出しが事実を作り、大衆が誘導される。ベロッキオがこの映画で問うのは、誰が「怪物」なのか、という一点だ。告発の対象は右派メディアだが、映画はそこに留まらない。告発という行為そのものの暴力性にも、静かに目を向けている。

■ヴォロンテという磁場

この映画をヴォロンテ抜きに語ることはできない。彼が体現する編集長は、悪党として描かれているわけではない。確信犯として、合理的に、冷静に嘘をつく。その淡々とした職業的誠実さこそが恐ろしい。セルジオ・レオーネの西部劇で見せた肉体的な存在感とは異なる、知性の暴力とでも呼ぶべき演技がスクリーンを支配する。ベロッキオはヴォロンテの顔を、権力の顔として記録した。編集長が嘘をつく場面に、ためらいがない。それが最も恐ろしい。悪意ではなく、職業的合理性として嘘が選択される瞬間を、ヴォロンテは身体全体で表現する。

■撮影現場のクーデター

製作の経緯も興味深い。もともとセルジオ・ドナーティが監督として撮影を開始したが、一週間後にベロッキオが引き継いだ。映画批評家ゴッフレード・フォフィの協力を得て、イタリア西部劇から政治スリラーへと根本から作り直した。この「クーデター」によって生まれた映画は、チネマ・チヴィーレ(市民映画)というジャンルの中でも異質な緊張感を持つ作品になった。ベロッキオ自身が現場を乗っ取り、作品の方向を変えた。その行為自体が、映画の主題と共鳴している。編集室で現実を書き換える編集長と、撮影現場で映画を書き換えた監督が、奇妙に重なって見える。

■フェイクニュースの先駆的解剖

半世紀前の映画でありながら、現在との共鳴は驚くほど鮮明だ。事実よりも感情、証拠よりも見出しが世論を動かす構造は、SNS時代の今も本質的に変わっていない。ベロッキオが描いた「怪物を一面でスッパ抜け」という命令は、クリックを稼げという今日の編集指示と同義だ。媒体が変わっただけで、メカニズムは同じである。読者は怪物を求めている。怪物がいなければ作ればいい。その論理が、1972年のイタリアから現在のSNSまで一本の線で繋がっている。ベロッキオはその線を、選挙という政治的文脈の中で可視化した。

■ベロッキオの政治的立場と映画の限界

当時ベロッキオはマオイスト系イタリア共産党の活動家であり、この映画は党の委嘱による作品でもあった。その政治的文脈は映画の視点に一定の偏りをもたらしており、右派メディアへの批判が図式的に過ぎる場面もある。しかしその単純さが時に、プロパガンダを解剖するための逆説的な武器として機能している。問題提起の鋭さは、作り手の立場の透明性によって担保されていると言えなくもない。プロパガンダを告発する映画が、それ自体プロパガンダの構造を持つ。その自己矛盾をベロッキオは自覚していたのか。答えは映画の中にはない。だがその問いを残したまま終わる誠実さが、この作品を時代の遺物に留めない。

■怪物は誰か

映画は問いを解決しない。犯人が誰であるかより、誰が「犯人」を必要としているかを問い続ける。紙面に踊る怪物は、実際には編集室で生産されたものだ。ベロッキオは告発映画を作りながら、告発の形式そのものにも懐疑的な視線を向けている。その二重性が、この映画を単なる時代の証言を超えた作品にしている。怪物を作るのはメディアだ。だがメディアに怪物を求めるのは、大衆だ。ベロッキオの問いはそこまで届いている。スクリーンの前に座る観客もまた、怪物の共犯者である。

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