四角関係の奇妙な螺旋構造:ルドヴィカ・ランポルディ『ショート・ラブストーリー』作品評



ベロッキオの弟子が選んだ題材

ルドヴィカ・ランポルディは一流の脚本家だ。マッテオ・ガローネの『ゴモラ』やマルコ・ベロッキオの近作『シチリアーノ 裏切りの美学』『夜の外側』で知られ、『夜の外側』ではダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞を受賞し、マルコ・ベロッキオの最も信頼する書き手の一人として知られている。その彼女が初の長編監督作として選んだのは、不倫という古典的なテーマだ。

二組のカップル、30代のレアとアンドレア、50代のロッコとチェチリア。地震研究者ロッコが精神科医の妻チェチリアを持ちながら、バーで偶然出会ったレアと不倫関係に陥る。その関係がやがて全員の生活を揺さぶる。設定として、主人公が地震研究者、その妻が精神内科医という職業は象徴として機能している。地面の見えない亀裂を研究する男の足元で、まさに見えない亀裂が走っていく。


イタリア批評の分断

本国イタリアでの批評は温度差がある。

チネマトグラフォは手厳しかった。「脚本家の精確さがブルジョワ的なサロンの感傷の中で迷子になっている。言葉のある映画なのに言葉の音楽がない。状況のある映画なのに状況の必然性がない」と指摘した。さらに「不倫が傷であるべき、あるいは啓示であるべきところで、振り付けになってしまっている。教育的なほど不快感のない礼儀正しさで、その映画は終わる」という評価は、この映画が持つ最大の問題を一行で言い切っている。

一方でユニバーサル・ムービーズは好意的だ。「心理スリラーとセンチメンタルなドラマの間を優雅に移動する、驚くほど成熟した処女作。脚本は洗練されたメカニズムを持ち、サブテキストに満ちたダイアローグとそれ以上に多くを語る沈黙で構築されている」と評価した。

IMDbの評価は6.6、賛否両論が混在している。


スタートの鮮やかさ

批評の一致点は冒頭のシーンだ。ロッコがチェスボクシングというスポーツの試合に参加する。チェスの知的な戦略と、ボクシングの肉体的な暴力が交互に展開する。ランポルディはこの一場面で映画全体のテーマを仕込んだ。知性と感情、戦略と衝動、論理と身体。その対立がそのまま不倫という行為の本質を象徴している。

ランポルディ自身が25歳の時に書いた最初の草稿を、数年後に見返して映画化を決意したと語っている。「カップルとは何か、その境界はどこにあるか、何が二人を結びつけ何が二人を壊すか」という問いに、今も答えが見つからないからこそ映画にしたと。その誠実さは本物だ。


精密すぎた機械

しかしチネマトグラフォが指摘した問題は本質を突いている。

ランポルディは「ミラーモジュール」という構造で映画を設計した。二組のカップルが互いを鏡のように映し合い、対称的に配置される。章立ての構成、時計仕掛けのリズム、反復するモチーフ。フォルミカイ(蟻の巣)という象徴、螺旋階段、金魚鉢。これらは意味を持とうとしているが、意味として届かない。精密に設計されたからこそ、震えない。

チネマンドのブログが言う通り、「直感はあるが、有機的なデザインに結実することはほとんどない。互いをかすりながら、噛み合うことなくすれ違う」。脚本家の手がスクリーンに透けて見える。書かれたものが映像に変換されていない、という印象が残る。


ピラール・フォリャティという救済

主演のピラール・フォリャティは触媒だ。クインラン誌は「理想的な弦楽四重奏のソリストとして観客の注意を引きつける」と評した。アドリアーノ・ジャンニーニ、アンドレア・カルペンツァーノ、ヴァレリア・ゴリーノという4人のキャストは全員が役柄を信じており、ダイアローグに説得力を与えている。

ヴァレリア・ゴリーノが演じるチェチリアは精神科医という設定で、映画の中で最も複雑な役柄だ。夫の不倫に気づきながら、職業的な分析眼と女としての感情の間で揺れる。この役の複雑さが映画に唯一の深みを与えている。


濱口竜介という接続点

イタリア映画祭のQ&Aで、ランポルディは濱口竜介の『ドライブ・マイ・カー』のような映画が大好きだと語った。その言葉は映画の構造を理解する上で重要な手がかりだ。「言葉と沈黙の間に人間の真実がある」という濱口的な方法論が、ランポルディの目指す方向性と重なっている。

サイン会の際、私は英語で濱口竜介の『永遠に君を愛す』という作品が同じように四角関係を描いた素晴らしい作品だと伝えた。するとランポルディは笑顔で「どこで見られるのか?」と聞いてきた。さらにベロッキオが大好きだと伝えると、「イタリア映画の監督で彼ほど偉大な人はいない」と笑顔で話してくれた。

この一瞬が示しているのは、ランポルディが自分の映画の系譜を正確に把握しながら、まだ見ていない可能性に開かれているということだ。『ショート・ラブストーリー』が持つ「精密だが震えない」という限界は、濱口竜介が辿り着いた「言葉が沈黙に変わる瞬間の震え」をまだ自分のものにしていないことと無関係ではない。次作でその震えを手に入れた時、ランポルディは本当の意味でベロッキオの弟子を超える監督になるだろう。


ベロッキオとの距離

ランポルディがベロッキオから何を受け継いだかは、この映画で明確になった。画力だ。一枚一枚のフレームの構成力、俳優の身体をどこに置くかという感覚は確かなものを持っている。

しかし同時に、ベロッキオとの距離も明確になった。ベロッキオの映画は常に「汚れている」。政治、性、権力、裏切り、全てが泥にまみれながら前進する。ランポルディの映画はあまりにも清潔だ。チネマトグラフォが「礼儀正しすぎる映画」と呼んだのは、ベロッキオ的な暗部への踏み込みを回避したことへの批判でもある。


処女作としての評価

「精密だが震えない」というのが、この映画への最も正確な評価だ。

ランポルディの才能は疑いなくある。チェスボクシングのオープニング、ゴリーノの演技、いくつかの場面が持つ緊張感。これらは次作への確かな予告だ。ただ処女作として、脚本家が監督に完全に移行する瞬間の困難が、この映画の全体に影を落としている。

映画が終わる時、アントネッロ・ヴェンディッティの「魚座生まれ」が流れる。「お前は言った、何が足りないんだ、家もある、女もいる、家族も問題から救ってくれる、でも俺が欲しいのはただ愛だけだと思っていた」。この選曲が映画の全てを言い表している。今作が欲しいのは機会の様な精密さではなく、魂が震える瞬間だった。

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