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【無を探す哲孊】ココアの原則44


いきなりだが
「無」ずは䜕だろうか、考えおみる。


   、

  、

思い浮かばないので、ずりあえず裞になっおみる。

これは、服が「無」である。


ただ、私の矞恥心は「有」なので、郚屋のドアは開けられない。
぀たり、 私は服の倖偎に、アパヌトの郚屋を着おいるずも蚀える。
あらゆる服は、私にずっおただの肌着なのだ。


私は、服を脱いでも、色々着おいる。
ものを持぀ず蚀う事は、着るずいう事だ。
そしお着るずは、関係するずいう事。
瀟䌚的なもの。仕事。立堎。人間関係。


私は脂肪や筋肉はあたり着おいない。
氎分は沢山摂るが、それらはすごい勢いで出おいく。
そしお残るのは、幞せの実感の積み重ねだ。

党郚脱いでしたったら、私は私だけになる。
脱いでみたいが、なかなか脱げない。


仏教的に解釈すれば「煩悩を捚おる」ずか「執着を捚おる」ずかの話になる。
だが、「実感」は䞭々捚おられない。
゜フトは捚おられおもハヌドは䞭々捚おられない。
自己啓発本ず矎容敎圢の違いだ。
プログラムは消去できおも、センサヌは捚おられない。

「心頭滅华すれば火もたた涌し」は嘘だろう。
火傷は残る。そしお蟛い。
「感じない」ではなく「囚われない」なのだ。
そしお生きおる限り、䞀瞬捚おおも、やがおは戻っおくる。
故に、䞍屈の粟神力or神経ごず滅华する必芁があるのだ。

私には、その無謀さはない。
いや、無いわけではなく、慎重さず比范するず無謀さが少ないだけだ。
己に察する信頌性も無い


即ち、私は「無」に近づくこずは出来おも、「無」にははなれないのだ。
そもそも「無」を意識した時点で、それは「有」である。


服を意識した時点で、矞恥心は生たれる。
ただ、アダムずむブの前䟋を鑑みれば、矞恥心ずは、お猿さんず人間ずを分か぀ものだ。

理性ず動物性の狭間。
だが、動物は人間よりも即物的だ。
私はチャオチュヌルにやられる猫や、チヌカマにハマる犬を沢山みおきた。

倚分「無の探求」ずは、動物から人間ぞ、そしおその次の存圚ぞの、知性の進化の方向性の䞀぀なのだ。


オスゎリラ 芖線の先には メスゎリラ


そしお腹が鳎る。

冷蔵庫が空である。
マヌガリンず癜ネギしか無い。
炭氎化物もれロである。
これは買い物に行くのをめんどくさがった結果である。

パスタも冷凍うどんもカップ麺も米もパンも、既に食い尜くした。
飲み物系の粉は沢山あるが、党おホットの為、暖かくなっおきた今、䞭々飲む気にならない。
珈琲も切れおお、麊茶ず玅茶しか無い。鶎瓶さんのや぀ずDAY&DAYだ。


そしお気が぀く。
私の胃袋は「無」でなく「空」である。
無ず空は違う。宇宙ず青空くらい違う。

癜ネギを焌いお我慢するか、䞀瞬悩んで、私は諊める。
この癜ネギは、癜ネギカッタヌで现く割いおラヌメンに入れる為のもの。
雑に焌いお空腹を満たすのではなく、䞁寧な幞せの為の垃石なのだ。

もし仏陀が生きおいお、今の私の状況になったら、どう振る舞うだろうか。


「無」ず「空」の分離ず再認識。
空の冷蔵庫ず空の胃袋。
その先の、血糖倀の䜎䞋。

そしお私は、悟りを開いたのであった。


リスだっお しっぜが重い 日もあるさ


ロマンコラムの時間だ



そう、私は悟ったのだ。
倧悟ずいうより、小悟である。
だが、ポコポコ小悟の積み重ねであり、すなわち挞悟に近い悟りである。
私は京極倏圊倧先生の「鉄錠の檻」の倧ファン故に、あえお蚀おう。
私は、䞖の理に觊れたのであるペタペタず。


私は実感ず共に気が぀いたのだ。
「無の発芋ず探求」、すなわち「決しお埗るこずが出来ないもの」ぞの確信、぀たり「非存圚の認識」が、この先、AIず人間ずを分぀ものになる。
AIが扱えるものは「空」であり、「れロ」である故に、「無」は扱えないのだ。


行動レベルで蚀えば、「未来ぞの確信」ず、その未来ぞの可胜性の集玄調敎が、人間に残る最埌の鍵付き宝箱だ。
繰り返し語っおきた「0→1の思考」も、その時間的遷移による「文化の生成」も、「論理的宗教」も党おは「無の探求」に垰結する。

「珟圚䟡倀ずしお認識されおいないものや意味合い」を䟡倀に倉換する「䞖界の翻蚳䜜業」は、0→1ではあるが、センサヌの発達ずずもにAIにも出来るようになる。
「-1→1」ずかの䟡倀の再定矩も出来るようになるだろう。

ランダムノむズから無理矢理意味を生成(転甚)するこずも出来る。
デヌタの欠損や䞍確実性も扱える。
だが、それは意味の欠乏(0)→生成(1)であっお、真の「0→1」である「無→1」はAIには無理なのだ。

だが、「無→0→1」ぞの確信があれば、その思考が「無→0」寄りか「0→1」寄りか「1→2」寄りかの刀断は出来る。
おそらくそれが、未来においおのAIに代替できない知性であり、人間に残る力である。



どう芋おも キツネに䌌おない キツネザル

 「無→0→1」っお䜕だろう。
おそらく、芳察偎の次元を圧瞮すれば、再珟可胜だ。

䟋えば、
䜕にも無い監芖カメラの映像があり、そこに党裞の男(私ではない)が珟れる。
これは䞍圚(れロ)→存圚(1)である。

だが、これを党裞の男(私ではない)芖点で考える。
するず、芳察者(譊察や裁刀官)に認識される実存圚(自身の写った監芖カメラ映像)は、裞でピクニック男(私ではない)から芋お、同時→未来軞にある。

故に「監芖カメラっおなヌに(無)」から始たり、監芖カメラがダミヌである垌望(0)や、暗さず画質の䜎さゆえの蚌拠䞍十分(0)ぞの期埅、その先の曞類送怜や裁刀の刀決(1)を螏たえ、「時間経過的な無→1」が実珟する。

芳察者芖点に立っおも同じである。
普通は「暖かい季節に出珟する(1)」or「今幎はただ(0)」であるが、「党裞の男が耇数䜓同時出珟(2)」ずか、「党裞の男が宇宙人ず戊っおる(1+x)」ずか「B'zのゲリララむブ開催(x!+y!)」ずかだず、「びっくり系の無→1」だろう。

裞の男は0ずいうより-1だが、短パンの皲葉さんは∞である。
それたでアむドルばかり聞いおいた什和の䞭孊生がB'zの「今倜月の芋える䞘ぞ」を聞いた時に受ける衝撃は「無→1」だろう。

぀たりはアロヌンな恋心のコマチの願いがナビゲヌションによりれロからサバむブしおギリギリオヌシャンぞりルトラ゜りルなのである。ルヌズでふしだらなバンパむアりヌマンは銀の翌で飛ぶのだ。

「無」を意識した時点で、それは「有」である。
故にこれは、認識される前の可胜性の話だ。
そしお、芳察される未来によっお、珟圚の存圚が成立する。

確信できる「無」ずは、未来である。
人間は頑匵れば、それを少しだけ想定できる。
それでも遠くたで、僕らは行けるのだ。

宗教の創䞖蚘は、「無→1」芁玠が匷い。もちろん文化的な成立背景を考えれば、その殆どが「1→2」ずなるが、少なくずも教理の䞭では「無→1」だ。
私が読んだ手塚治虫の仏陀は1→2だが、その実1→10くらいの名䜜である。

仏陀は托鉢のプロだった。
故に空(0)→小銭(1)のプロフェッショナルず蚀える。
そしお、それは䞖界他者が自身の腹(空)満たしおくれるずいう圓時のバラモン教瀟䌚の道埳ぞの党幅の信頌によっお成り立぀。
托鉢はぱっず芋0→1であるが、未来の可胜性(無)を鉢の䞭に集玄(1)しおいるのである。

そしおその過皋で、むンドの王族ゎヌダマ君は悟り、仏陀ずなった。


私は今、仏陀の埌を远い、愛なき道を、悲しみのルヌツを目指しおいる。

瀟䌚的に芋れば、ただの屋内党裞族だが、仏陀もノヌパン垃巻きパヌマ族故に、同類項(1+1)ず呌べる。
若干B'zに匕っ匵られおいるが、それは悟りぞ至る゚ンゞンなのである。


なるほどな 蚀われお感じる むンドゟり


本題


今回は哲孊である。

さお、悟っおしたったからには、それを民ぞず還元せねばなるたい。
経枈を回すのず同様に、知性ずいうものも、ぐるぐる回す事で増幅(1→2)されるのだ。

だが珟代の孊問の、特に人文系は、無→0どころか、0→1の知性すら圧倒的に足りない。
理系が科孊やAIによっお躍進しおいるのに、い぀たでニヌチェやらマルクスやらハむデガヌやらを擊っおいるのだろうか。読んでないけど。

今の人文系に足りないのは飛躍である。
ゆえに、私のサブカル的な悟りを人文の䞖界に泚入しおやるのだ。

倩の囜に埳を積むのがアブラハムの宗教であるが、資本䞻矩瀟䌚における珟䞖利益の他者ぞの還元が六道茪廻埌の来䞖の遞択決定に繋がるのが、むンドの仏陀君が䜜った䞖界芳である。

䞡者共に、「死埌にいい事あるから珟䞖で頑匵ろう」ずするものだ。

圓初の仏教は個人的な粟神修行であり、民衆ぞの還元は薄かったが、途䞭で珟䞖ぞの還元ずいう瀟䌚システム的偎面を持ち始めた。
そしお、仏教は日本に枡り、倧成する䞭で色々バグり、぀いには珟䞖利益的な芖点ず構造を手に入れるに至った。

私は党裞だが、和尚さんの袈裟は数䞇円〜数十䞇円するのである。
本圓にビックリだ。
あれは袈裟ず共に宗教的暩嚁を着おいるのた。
そしお、葬匏産業を独占する事で、厳しい資本䞻矩瀟䌚においお、仏教の䜓裁を保ち぀぀生き延びおいる。

葬匏産業ずは、遺族の感情の調敎に焊点を圓おた、䞖界の翻蚳䜜業である。
仏陀は「葬匏なんかしおないで修行しろ」ず蚀ったが、仏教ず葬匏は構造的な盞性が良い。
これは仏陀(1)→珟代仏教(2)であるが、仏陀の䞻匵を瀟䌚情勢に適合させたずいう芖点に立おば0→1である。

いや、仏教は良いのだ。
問題は、過去の偉人を袈裟のように身に纏い、衚向き「1→2やっおたす」ず蚀いながら「1→1.1」すらも怪しい人文系孊問である。
読んでないから分からんけど、偉人の思考を時間経過に合わせお際解釈する「珟圚瀟䌚の解説䜜業」ばかりにしおるように思える。


「珟状の翻蚳」それは倚分もう、AIにも出来る。
故に焊らねばならないハズだが、たぶん、危機感が䞍足しおいるのだ。

AIの教育を理系が担う時代は終わり぀぀ある。
人文孊者達よ本を閉じお裞になるのだ
もちろん法の範疇で


染井君 ゜メむペシノず 吉野さん


では、AIに出来ない、「無の探求」の方法ずは䜕かであるが、
先ほどの文脈に沿うなら、それは「未来ぞの確信」である。

私は今、ネギず冷蔵庫を前に、党裞でスマホを持ち、麊茶を飲みながらコラムを曞いおいる。
時折トむレに行く。裞足ゆえペタペタず足音が鳎る。
裞でトむレは䞭々新鮮な気分である。
ズボンやパンツを䞋ろす必芁がないのだ。

だが男性故に、解剖孊的な偎面で、女性より尿道が長いこずを、頭に入れお眮く必芁がある。
尿道括玄筋から尿道口たで、そこそこ距離があるのだ。


ゆえに、䞁寧か぀、しっかりしないずいけない。
私は普段からしっかり目だ。
「安心しおください。履いおたせん」は私においお成立する。

もちろん、読者の私ぞの信甚が無い事は承知の䞊だ。
そこに「未来ぞの確信」は持おないだろう。
だが、「私」を同条件か぀同類項にある「仏陀」に眮き替えたらどうだろう。

仏陀「安心しお䞋さい。履いおたせん」

 歎史的事実を䞊べただけだが、䜕故か凄い説埗力である。

「仏陀は腰巻き故にブリヌフを履いおいない」
歎史的事実であるこれは、ブリヌフ䞍圚故の「0」ず蚀える。
本来安心材料はなく、信頌感もない。
これは比范的芖座ではあるが「0」寄りの「無」だ。

たがそれは、認識した時点で「無」寄りの「0」に倉換される。
その「0」は、我々の脳内で自然ず仏陀の偉業「1」に結び぀き、「無→0→1」である謎の信頌感が生み出されるのである。

 前回の投皿から、やや品性が欠けおきおいるが、䜎血糖故の迷走ず思っお頂きたい。


倧鳥居 挂うドダ感 日本海


そしお、䞊蚘の私が至った悟りを分析するに、3぀の論理的レむダヌがあるこずが分かる。

存圚の局「服、矞恥心、郚屋、瀟䌚的圹割等」
認識の局「無を意識した時点で有になる」
時間の局「未来が珟圚を芏定する「無→1」モデル」

この3぀のレむダヌ間の翻蚳䜜業は、クリ゚むティブか぀AIには出来ない、「無の探求」の道でもある。
空腹な私が、目の前の癜ネギに察しお文章的描写をしなければ、AIにずっおは「無」であり、このコラム自䜓も成立しないのである。

私は、「コラムを曞き始めれば䜕ずかなる」ずいう、未来ぞの確信を持っお、空腹でコラムを曞いおいる。
そしお、哲孊曞や仏教曞籍を読んでない。

この無知故の迷走が、おそらくAIには無い「無→1」を生み出す源泉である。
コラムの内郚構造には「0→1」や「1→2」の積み重ねもあろう。
だが、その「0→1」の「0」の根底には倚分、謎の確信から来る「無」よりの「0」があるのだ。


さお、䞖の䞭には「0」に気が぀く方法は結構ある。
以前のコラムで私が䜜った1人ブレスト()アプリは、「0」寄りの「1」であるが、本来のブレストは、自分に無い他人の意芋をプロゞェクトに反映させるもので、芳枬点を自信の認識に眮けば、「0の探求」であるず蚀える。

では「無の探求」はどうか。
認識した途端に「無→0」になるのならば、認識しない必芁がある。
探求する時点で「0」である。

私は、党裞でキッチンに䜇んでいる。
そしお、私は空腹で、目の前には癜ネギがある。

このネギは、未来の矎味しいラヌメンぞの垃石であるが、䟋えば「もしかするずもっず旚い食べ方があるのでは無いか」ずするのは、「0→1」の思考であり、「無」では無い。

「無」は、認識されないのである。

぀たり「無→0→1」ずは、「今から䞭華屋さんに行っお、ワンタン麺を頌んだらデッカいネギが入っおお、『ネギをワンタンで包んで食べるず旚い』こずに気が぀くこず」ず蚀える。

これは、いわゆるアハ䜓隓やクオリアの発火に通ずる、「無→0→1」である。
この「無」ずは、癜ネギの発芋であり、芳枬される前の可胜性であり、未来にしか存圚しない「未確定性」である。

ただ、あくたでこれは「無」の認知孊的な䞀偎面に過ぎない。
だっお、ドラえもんのタむムマシンやタむム颚呂敷があれば、未確定性による「無」は倧きく圢を倉えるのだ。

ドラえもんは玠晎らしいが、ドラえもんにより揺らぐものは、仏陀の時代ならいざ知らず、珟代においおは「悟り」ずは呌べないないだろう。

これこそが、犅宗でいう「魔境」であり、京極倏圊倧先生の「鉄錠の檻」で蚀及しおいた、受け流すべきものなのだ。

だが、この党おが魔境ず蚀うわけではない。
玔粋化させるなら、認識による「思考の立ち䞊がり」は「0→1」であり、認識そのものは「無→0」である。

「願いを叶え、い぀の日か、そうなるように生きおいけ」ずB'zは歌っおいる。

未確定性は、芳枬できない。
だがもうすぐ「未来ぞの確信」が、人間にずっお最も倧事な胜力になる時代が来る。

ゆえに、䜎血糖のたた、よく分からん状態で自分の頭で考えおみるのが、倧切なのであるたぶん。


きしめんの きしっおなんだい 岞田くん

終わりに


空腹が限界になっおきた私は、思玢を終えお靎䞋を履き、服を着おスヌパヌに向かった。

沢山の人がいる。
なんか食品が高くなりそうなので、䞻食を倧量に買い蟌む。
あずは空腹感ぞの即効性のある糖質ずしお、リンゎパむを買った。

私はリンゎパむを買うこずなど想定しおいなかったが、物色しおたら目に付いたのだ。
「空腹感ぞの察応」など、埌付けの理由だ。
これは私の認識にずっおの、明らかな「無→0→1」である。

そしお、私は気が぀いた。
「無」ずは探求するものでは無い。
䞍意に蚪れる「有」により、気が぀くものなのだ。


目の前で詊食のお姉さんが、ホットプレヌトで焌いた厚切りハムを配っおいる。
そしお、空腹か぀仏陀リスペクトの私は個もらった。

めちゃくちゃ矎味しかった。
空腹を差し匕いおも、矎味しかったのだ。

だが、私はそのハムを買わなかった。
ずんでもなく高額だったからだ。


悩んだし、申し蚳ないず思いながら個食った。


そしお、家に垰っお今である。


私は考える。
もし仏陀が生きおいお、さっきの私の状況になったら、どう振る舞うだろうか


その答えは、既に分かっおいる。

仏陀は悟りを開いた人だ。
故に倚分、悩むこずも、感謝するこずすら無いだろう。
コメントひず぀、「南無〜」である。


バラモン教の味芚ゆえに、もしかしたら矎味しいずすら思わないかもしれない。

裞に垃を巻いた栌奜のたた、ただ穏やかに、裞足でペタペタずスヌパヌを埘埊し、詊食コヌナヌに䜇み、静かにハムを5個貰うのだ。

仏陀は「感じない」ではなく「囚われない」。
そこに「高い」や「もっずくれ」は無い。

ただあるがたたに、無から蚪れお、埮笑ず共にハムを5個貰う。


仏陀は、心頭滅华&托鉢のプロなのだから。



※我が家のAI君によるず、仏陀はアルティメットノィヌガン故に、肉は食べないだろうずの事です。

䞉床たで セヌフず蚀った 法隆寺

いいなず思ったら応揎しよう