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「どうせ変わらない」の感情史 ー『銀河の一票』を観ながら



政治に無関心な人を見ると、「もっと社会に関心を持つべきだ」と言われることがあります。


たしかに、その意見も間違いではありません。

けれど、本当に最初から無関心だった人ばかりなのでしょうか。


むしろ逆なのでかもしれません。

「かつて」は期待していた。

変わってほしいと願っていた。

だからこそ、疲れてしまった。


わたしは最近、そんなことを考えるようになりました。



わたしたちは「社会は変えられる」とどこかで信じています。

選挙。政治家の演説。新しい政策。
または政権交代。


あるいは、もっと小さな場面かもしれません。

学校。職場。地域。サークル。

「声をあげれば、少しは変わる」

そんな感覚を、人は一度くらい持ったことがあるのではないでしょうか。


だから、人は怒るのです。
それは、人は期待するからです。


本当にどうでもよければ、最初から怒りもしない。




けれど現実は、そう簡単ではありません。


投票しても変わらない。

期待した人も変わってしまう。

理想は現実に飲み込まれていく。


「結局、誰がやっても同じだよね」


そんな言葉を、一度は耳にしたことがあるでしょう。



そして厄介なのは、この感覚が、一度の失望ではなく、小さな失望の積み重ねによって生まれることです。


少し期待して、
少し裏切られる。


また期待して、
また失望する。


その繰り返しのなかで、人はだんだんと「期待しない技術」を身につけていく。




さらに現代では、政治を見続けること自体が、とても疲れる行為になっています。


SNSを開けば、怒りが流れてくる。

強い言葉。非難。断定。攻撃。
正義に対して、別の正義からの衝突。


「どちらかを選べ」

「沈黙するのも加担だ」

そんな空気が広がっていく。


もちろん、社会問題に声をあげることは大切です。

けれど、人はいつでも戦い続けられるわけではありません。

生活、仕事、家族があり、自分の心を守るだけで精一杯の日もある。

だから、人は少しずつ距離を置いていく。


ニュースを見なくなる。

議論を避ける。

政治の話題に反応しなくなる。


それは「無知」だからではなく、疲れてしまった結果なのかもしれません。




脱政治的な無関心とは、「政治に期待しなかった人」の態度ではなく、「期待した人が身につけた防衛」なのではないかと思うのです。


傷つかないために、期待しない。


失望しないために、距離を置く。

「どうせ変わらない」


その言葉の奥には、かつて「変わってほしい」と願った気持ちが、まだ少し残っている。


だから完全には無関心になりきれない。


災害が起きれば不安になる。
生活が苦しくなれば怒りが湧く。
理不尽なニュースを見れば、心がざわつく。


政治は、嫌でも生活に入り込んでくるからです。


だからこそ、無関心な人を責めるだけでは、何も始まらないのかもしれません。


必要なのは、「もっと関心を持て」という強い言葉ではなく、もう一度だけ、社会に期待してみてもいいと思えることなのではないでしょうか。


それは劇的な希望ではありません。


ほんの少しだけ、「前よりはマシになるかもしれない」と思えること。


その小さな感覚がなければ、人は社会と関わり続けることができないのだと思います。

「どうせ変わらない」


その言葉は、完全な諦めではなく、
傷ついた希望の言い換えなのかもしれません。